宇多野・鳴滝周辺の史跡を訪ねて


 平安時代の中期、蜻蛉日記の作者・右大将道綱の母が、夫の兼家との愛情問題に悩み幼い我が子道綱を連れてこもったと云う「西山のさる山寺・般若寺」址 ・ ・ ・
 こんな場所にと、誰しもがびっくりする意外な所に、今もひっそりと眠っています。今回はそんな宇多野・鳴滝の山里に、ひっそりとした山寺や隠れた史跡を巡ります。

         京福北野線 たかおぐち駅をスタート、約5km・3時間コースです。
                  ページ末の散策マップをご覧ください。





光孝天皇後田邑陵
 君がため春の野に出でて若菜つむ
       わが衣手に雪は降りつつ
          
百人一首より 光孝天皇

 光孝天皇は、仁明天皇の第三皇子(時康親王)で、陽成天皇のあとを継いで元慶八年(884)第58代の天皇に即位した。その時、時康親王はすでに55歳、質素を旨として政治には無関心であったが、時の実力者・基経の強い要請で即位することになった。長い間、陵の位置は不明であったが、明治22年この地にあった天王塚を光孝天皇陵とした。




福王子神社

   
      社殿蛙股の彫刻 右から 梟と椿、 鷺と雲、 海馬と波、 雁とあやめ

 光孝天皇皇后斑子女王を祭神とする旧宇多野村(福王子・鳴滝・山越)の産土神。中世には仁和寺の鎮守神として崇敬され、毎年10月16日の祭礼(鳴滝祭)には神輿が仁和寺にて奉幣を受ける。本殿・拝殿・石鳥居が重用文化財の指定を受けており、このように神社のほとんど全てが重文指定を受けているのは非常に珍しく貴重な神社である。



陽明文庫
 五摂家の筆頭、近衛家にゆかりの文書、日記、震翰、絵画、人形、屏風などを保管している。仁和寺の西の木立の中に二つの蔵などがある。蔵品のなかには、藤原道長自筆の「御堂関白記」をはじめとする歴代当主の日記や「大手鑑」「熊野懐紙」など八点の国宝と数十万点に及ぶ資料が保管されている。









円融天皇後村上陵
 第64代円融天皇(村上天皇の第五皇子)、安和2年(969)に冷泉天皇より譲位され11歳で即位した。「安和の変」を序曲とする藤原氏の内部抗争に天皇が翻弄された時代であった。
 長い間その場所がわからなかったが、村上陵と共に発見され明治22年に村上陵とともに修復された。



妙光寺
 臨済宗建仁寺派で、正覚山・妙光寺といい、前住職の没後、現在は無住寺となっている。鎌倉時代、花山院内大臣藤原師継が長子忠季の菩提を弔う為に、山荘を改めて寺とし、その子の幼名である妙光に因んで寺名を妙光寺とした。弘安八年(1285)法燈国師を請じて開山とし、花山家の菩提寺として栄えたが、その一族の多くは南朝との関係が深かったので、南朝の凋落とともに妙光寺も荒廃のみちをたどり、応仁の乱ではその全てを失う。その後、寛永16年(1639)敦賀の豪商であった打陀公軌が妙光寺の再建に尽力し復興をとげた。
<妙光寺にまつわる事蹟>
◆味噌・醤油製造法発祥地、法燈国師が「宗」より製造法を持ち帰る。 ◆三種の神器、後醍醐天皇とともに妙光寺で仮奉安・神器の間。◆南北朝時代の吉野への連絡洞(伝説)◆甘露水。◆「風神雷神図屏風」、妙光寺 から 建仁寺へ。◆印金堂。◆野々村仁清の墓。◆西の鹿ヶ谷、薩長同盟の舞台。





泉谷山・西寿寺
 江戸時代初期の寛永4年(1628)に創建された浄土宗律・捨世派の尼寺。本堂を建立する時に泉が湧き出したことで地名が泉谷となり山号も泉谷山とし、今も枯れることなく清水をたたえている。本尊の阿弥陀如来坐像は定朝の流れをくむ仏師の作と推定され、京都博物館、同志社大の合同調査の結果、平安後期の作で平安期の特徴をよく残した貴重な仏像であることが判明した。
 本堂を建立するときこの地から、太陽・星・月が彫られた石が現れた。この石を三光石と命名し、西寿寺の御神体として三光石神社を建て鎮守社とした。三光石神社では4月と9月の友引の日に、鳴り釜の神事が執り行われる。全国でも珍しい神事で、煮えたぎる釜の鳴動で吉凶を占う。





宝蔵寺
 海雲山・宝蔵寺 という黄檗宗の寺である。この地は桑原空洞が「尾形乾山」の窯址を譲り受けたものを、さらに百拙和尚に譲渡したところである。宝蔵寺は、境内に「尾形乾山」の窯址が残ることで知られている。
尾形乾山 江戸中期の京焼を代表する陶工。画家・尾形光琳の弟。陶芸の技術を野々村仁清に学んだ。 元禄12年(1699)から12年間、鳴滝のこの地に窯を開き、京から見て<乾(北西)の方角>にあることから「乾山」と号した。







般若寺址

  嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
        いかに久しきものとかは知る

                 百人一首より 右大将道綱母

 
般若寺は五台山といい平安時代の中期に栄えた寺である。延喜年間(901〜923)大江玉淵が観賢僧正を請じて創建した真言宗の名刹である。般若寺の規模は明らかではないが、金堂の西南方に僧坊が新築され殿上人が集まり、詩会が催された。往時は文化サロンとしても利用されたらしい。「蜻蛉日記」の筆者、右大将道綱の母が夫である兼家との愛情問題に悩み、幼い我が子を伴って、参篭した「西山のさる山寺」とはこの般若寺のことである。明治以降に衰退し、今は般若寺稲荷と称する小さな祠があるに過ぎない。



順興寺
 竜華山・順興寺と云い、浄土真宗本願寺派の寺である。別名「やしょめの寺」とも云う。蓮如上人の第二十七子である実従上人によって延徳元年(1489)に開かれた。創建当時は現在の枚方市にあり、枚方御坊と称し、後奈良天皇より、「南殿・順興寺」の称を賜ったが、天正元年(1573)織田信長勢の兵火によってその全てを焼失した。再興後、洛中(二条堀川)を経由して昭和49年この鳴滝の地に移転した。
 毎年の蓮如忌には蓮如上人作と伝えられている「遊女・やしょめ」と「黒髪」が祇園の技芸社中によって順興寺で奉納される。寺宝として、蓮如上人の自画像「島服の御影」、蓮如の「数の名号」の一つである「片破尊号」が保存されている。






三寶寺
 寛永5年(1628)、今出川(菊亭)経季と中納言為尚が後水尾天皇の内旨を得、日護上人を開山として創建した両家の菩提寺で、後水尾天皇より「金英山妙護国院三寶寺」の号を賜った日蓮宗の寺である。 千宗旦の四天王の一人である茶人・山田宗偏が茶室「四方庵」を建てて住んだところである。宗偏は後に江戸へ出て、赤穂浪士の吉良邸討ち入りに貢献したことでも知られている。境内には今出川家から移した「車返しの桜」 が歴史を刻んでいる。






宅磨(間)塚
 仏画の名手であった絵師法眼宅磨勝賀は、日頃、神の真の姿を一度描いてみたいと思っていたが、栂尾高山寺の明恵上人が神と法話をされると聞き、念願の神の姿を描くことに成功した。しかし京都への帰途、この地で落馬して死んだ。 これは冥罰によるものだろうと言われ、後にこの場所に塚が築かれた。






鳴滝址
 地名の由来となった「鳴滝」は、周山街道に沿って流れる御室川が、ここに至って大きな岩に裂かれて幾段にもなって落下し滝の音が周辺にこだましていたので、いつの日か鳴滝と呼ばれるようになった。平安時代には、この滝のほとりで、「禊」や「祈雨祭」が行なわれた。 芭蕉の句碑が残されている。  

     梅白し昨日や鶴を盗まれし





了徳寺
 世に「大根炊の寺」として知られている。真宗大谷派で法輪山了徳寺。「大根炊」は、俳句の季語にもなっている。寺伝によれば、村人の差し上げた塩味の大根煮を大変喜ばれた「親鸞聖人」が、ススキの穂でもって「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の名号を残されたと、伝えられている。


    京都歴史ウォーク