新島襄旧邸

 京都市指定文化財。和洋折衷様式で外観はコロニアルスタイル.1階は書斎、応接室、茶室。2階は寝室で新島自身が設計を行った。新島襄は同志社大学の創立者。群馬県安中藩の江戸藩邸において天保14年(1842)生まれる。江戸でオランダ軍艦を見て驚愕し、蘭学の重要性を痛感する。21歳のとき、アメリカ商船ベルリン号で密出国。明治7年11月26日横浜港に帰国。32歳、京都を訪れた時に槇村、山本覚馬から京都への誘致をを請われ、山本宅に住み「私塾開業願」を京都府に出願。





  鴨沂高校校門
 
元は九条家の別邸の門として土手町通り丸太町下がるにあった。女紅場の門として使用後、現在地に移転し鴨沂高校の正門として使用されている。


  
護浄院(清荒神
 
荒神さんは竈の守護神として信仰されている。最初は下京区醒ヶ井高辻に建立。足利義満も寺領を寄進した。慶長5年(1600)に現在地に迎えられた。天明の大火にて建物を全て焼失したが、本尊物は焼失を免れた。現在の建物は寛政以後の再建である。













 
荒神橋(荒神口)
 
京都七口の一つに数えられている荒神口にあり、荒神橋という呼び方はいずれも清荒神(護浄院)から来ている。慶応三年に西本願寺の寄進によって架橋されたことから「勤皇橋」とも呼ばれ、現在の橋は大正3年にコンクリート造りにされた。

 
法成寺跡(河原町通西)
 
藤原道長が諸国の受領に命じ、資材、労力を惜しまず建立したという壮麗な大寺院で、道長は奈良の東大寺に擬したと記録に残っている。火災や戦乱で漸次荒廃していったが、荒廃の中に九体の阿弥陀仏像が残っていたという。


 
府立医大(梶井町)
 
同地はかって、日光東照宮門跡の里坊があった。その日光里坊の跡が京都府立医科大学になった。明治9年に府立仮中学校内に医学予備校を設置、やがて医学専門学校となり、明治41年仮校舎の青蓮院から現在地に移ってきて発展した。




 
立命館大学跡
 
明治39年、同地に立命館大学の前身である私立京都法政大学の校舎が建てられた。大学は明治32年に西園寺公望・中川小十郎により三本木の大和屋を仮校舎として開校した。移転時に清和中学(立命館中学)も創設された。













 
梨木神社
 
明治維新に功績のあった三条実万・実美を祀った旧別格官幣社。明治18年久邇宮朝彦親王の発議で創祀された。社名の由来は、三条家の邸宅があった町名梨木町による。境内の「染井」は、同地にあった藤原良房の邸宅「染殿跡」にちなむ。京都御所三名水(縣井・祐井)の一つに数えられている。







 
廬山寺
 
正式名を「慮山天台講寺」といい天台宗派の円浄宗本山である。慈恵大師(元三大師)が北山に創設した。308年後に船岡山の南(芦山寺千本東入)に移り「洛中の叡山」といわれ天台宗の拠点となり、秀吉により現在地に移された。寛永・天明の2回の大火により焼失。建物は寛政6年の再建。当寺の年中行事として有名な節分行事「鬼の法楽」がある。また、紫式部の屋敷跡ということで「源氏の庭」と名づけられた庭が作られた。御土居跡もある。




清浄華院(しょうじょうけいん)
 
浄土宗鎮西派、京都鎮西派4本山(知恩院、知恩寺、金戒光明寺)の一つである。秀吉により現在地に移転させられた。浄土宗には珍しい不動明王信仰があり「泣不動縁起」(重文・室町)という有名な絵巻物がある。同寺の墓地には後水尾天皇以後の皇子皇女や大納言クラスの墓(立入宗継・山科言継・姉小路公知・玉松操)の墓がある。

 
白梅辻子
 
河原町通と寺町通の間にある通り。元禄の頃、遊郭ができ幕末頃に栄えた。しかし、下級の遊女屋であったことから、いつも客が蚤をもらってくるので「蚤辻子」と呼んだ。それが訛り白梅辻子となったという。他に呼び名の俗説あり。

 
大久保利光邸跡
 当地に居住したのは、慶応2年の春頃から明治2年4月までの3年間で、祇園一力の娘(娘分と書いた本もある)杉浦ゆうと暮らしていた。当地滞在中に薩長同盟、錦御旗受領、倒幕密勅降下活動、倒幕戦の支援、新政府樹立、版籍奉還等々、大きな役割を果たす。





 
    
 
枡形商店街
 
付近一帯を出町といい、出町は俗称で、元は大原口(寺町今出川)で古来より洛北、若狭を結ぶ交通の要衝であった。昔は洛北の農家を相手とした商店が多く比較的賑わっていた。









 
さば街道終点
 
小浜市いずみ町商店街を起点として、朽木、大原を経て、当地大原口まで、若狭で獲れた鯖を運んだ道。鯖に一塩して京都まで運んでくると、丁度よい味になったといわれたことから「さば街道」と呼ばれた。













 
河合神社
 
賀茂川と高野川とが合流する中州にあることから河合神社と読んだが、正式名は「鴨川合坐小社宅神社」(かものかわいに います おこそやけ神社)という。祭神は玉依姫命で、鴨社の境内摂社の一つ。本殿は三間社流造りで桧皮葺。「方丈記」を書いた、鴨長明は久寿二年(1155)、河合神社禰宜長継の二男として生まれています。後鳥羽院のお召しにより和歌所の寄人に任ぜられていました。後鳥羽院を通じて河合神社の禰宜を望んだが、果たせず、わずか5年間で宮中の席を辞して出家し、隠遁しました。


 
下鴨神社
 
正式名は「賀茂御祖神社」で上賀茂神社の祭神「雷」の母神と祖父神を祀っている。下・上社は元一つの神社であって、上社が本社であったが奈良時代に分立(政治的な理由、民衆の祭儀の分断)しました。賀茂社はこの地に居住していた鴨氏のの氏神であったが、平安遷都後、伊勢神宮に次ぐ神格を与えられ、(行幸・斎王・式年造営)王城の守護神として多くの神領を寄せられ、延喜式で名神大社となる。中世には山城国の一の宮となり、明治に官幣大社に列せられ、朝廷から保護された。






御所の東・京極大路から糺の森へ


御所の東と河原町通との間には、新島襄邸に始まって、
梨木神社・法成寺跡・廬山寺等があり、
往時の跡を偲ばせるものが多数存在します。
寺町通沿いに北に向かって歩き、その後東に行けば、
出町柳から、下鴨神社境内の糺の森へと入ります。