区役所内の梛の木
 椥辻の字名は、むかしこの付近に梛の大木があったことに由来している。この地は山科地区の中心であり、昔から交通の要衝で、また水利的にも恵まれていて、比較的豊な農村地帯であった。現在も涌水があり、芹田が残る一方で、地下鉄駅前には山科区総合庁舎が置かれて、山科区の中央に位置する。
昭和51年山科区誕生の記念として、植樹された梛の木は「区民誇りの木」に指定されている

中臣遺跡
 この遺跡は西の旧安祥寺川、東の山科川が交わる合流点北側の栗栖野丘一帯の、およそ60fに及ぶ広大な遺跡であった。旧石器時代後期(約2万年前)から室町時代(5百年前)までの集落遺跡で、古墳や竪穴住居跡が認められ、古墳跡からは須恵器等が出土、また出土した甕(かめ)は百済地域作成であることから、古くから朝鮮半島との交流があったことが解ります。
中臣群集墳は13塚の横穴式石室であったといわれ、宅地開発によって現在2塚だけが現存している。

坂上田村麻呂墓
 平安初期の武将で、桓武天皇に仕え、当時の平安京最大の課題であった夷地平定に延暦20年(801)征夷大将軍として平定するなど、功績をあげる。また弘仁元年(810)薬子の変の制圧にも寄与した。当時の嵯峨天皇から現清水寺の地所を下賜されて,清水寺の建立にあたった。
晩年は粟田口に住まいしたが、弘仁2年(811)54歳で没した後、栗栖野へ葬られた。勅命で遺骸には甲冑,弓矢を持たせ、平安京に向かって立ったままの姿勢で埋葬されたといわれている。

宮道列子(みやじつらこ)墓
 平安時代初期の宇治郡郡司であった宮道弥益(いやます)の娘列子(つらこ)は、狩りの途中に雨に遭い、宿を貸した藤原高藤との間に娘の胤子を宿した。後年高藤に引き取られた胤子は、成長して宇多天皇の皇后となり,醍醐天皇を生む。
 醍醐天皇の時代は,藤原時平,菅原道真を左右大臣として延喜の聖代とよばれ,日本最初の勅撰和歌集,古今和歌集が生まれ,文学等が花開き,母の胤子は宮道弥益の居宅を寺としたといわれ、今の勧修寺がその場所である。
 宮道弥益は醍醐天皇の外祖父となり,内大臣となった。またその後,藤原高藤と列子の間に生まれた息子定方の子孫は,真言宗勧修寺派の流祖となる。

また当地は中臣遺跡時代の古墳ともいわれ,十三基の古墳があったが、宅地開発のために、現存する二基の一つがここ「宮道古墳」で墳丘直径26高さ3、6mの円墳です。あと一基は折上神社境内にある。

中臣神社
 祭神は稲荷神と中臣氏の祖神、天児屋根(あめのこやね)命で、現在は山科神社のお旅所になっている。
中臣鎌足の殯舎(かりもがり)跡とも伝えられ、俗に鎌足塚と呼ばれる。山科には8つの宮があるがその二の宮がここである。

中臣遺跡碑
昭和43年(37年前)に高校生が発見したことから、調査が始まり、山科川と旧安祥寺川に挟まれた丘陵地帯に広がった住居跡からは、掘建て住居、須恵器、甕棺などの土器、石器、鉄器や釉薬も発見されている。
また、中臣鎌足の邸宅があったといわれる「陶原(すえはら)」が、この場所との考察もなされ、その時代の大津京遷都(664)にも影響を与えたと思われる。

山科神社
祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)・稚武王(わかたけおう)寛平9年(897)宇多天皇の勅願によって創建されたという。江戸時代には「西岩屋大明神」「山科一の宮」とよばれており、延喜式内明神大社山科神社との説もある。明治に「山科神社」と改称された。
三間社流造、桧皮葺の本殿は江戸時代初期の造営で京都市指定有形文化財。万治3年(1660)に建立された鳥居には「山城国宇治郡山科郷西山村」と刻まれている。大石良雄が当社に大願成就を祈願したと伝える。

岩屋寺

曹洞宗の寺で、その昔は山科神社の神宮寺であった。本尊の不動明王は、比叡山智証大師作ともいわれ、大石良雄の念持物と伝えられている。
本堂北東付近は大石良雄の隠棲地であった。赤穂城退去後、元禄14(1701)年7月から翌年9月頃江戸に出発するまでの間、ここに隠れ住んだ。当地出身の赤穂藩士進藤源四郎の縁故により土地を手に入れ屋敷を新築し、ここに永住するようよそおったと伝えられる。
主君の浅野長矩の位牌、四十七士の像、大石良雄の遺品等を安置しており、12月14日の義士忌には大石良雄らの羽織などの遺品を公開する。境内には大石良雄の遺髪塚や「大石良雄君隠棲旧址」の碑もある。碑筆は北垣国道。

大石神社
大石内蔵助を祀る神社で,昭和10年に浪曲家吉田大和之丞(奈良丸)らによって創建された。毎年12月14日「山科義士まつり」があり、山科瑞光院からここ大石神社まで義士に扮してパレードをする。
境内に末社に天野利兵衛を祀る義人社がある。


道標
 
@北 大石太夫 遺髪塚 厳谷寺 近道

A東 左 大石
やしき
西 明治三十九年三月二日 辻本安■


B明治
41年(1908)ころ堺の人々が中心となり,この地域に多くの道標が建立されたものの名残と思われる。(滑石から稲荷参道に多い)
   北 右 京都大佛三十三間
   南 明治四十一年冬十二月一日 泉州堺 竹本越路太夫
   東 左 大石良雄旧跡 施主の竹本越路太夫は,浄瑠璃の太夫で,泉州堺出身の三代目「竹本越路太夫」と思われる。

折上神社
祭神は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、稚産霊神(わかむすびのかみ)を祀り、創建は和銅4年(711)の元明天皇とも、延喜年間(901〜923)の醍醐天皇ともいわれる。
境内には中臣遺跡の13古墳群の現存2古墳のひとつ,稲荷塚があり,伏
見稲荷の奥宮として信仰されて,栗栖稲荷とも呼ばれた。
近年は「折神」を「織神」と解し,西陣織物業者の崇敬を集める。幕末時代の孝明天皇は、大嘗祭において長橋局を当社に使わして、長命の箸を奉納したことから、毎年12月13日は「長命祭」を行い、長命箸を頒布する。


福田金属箔粉工業
元禄13年(1700)松原通室町で創業の「井筒屋」が前身。製品は伝統工芸用途の金銀の箔粉商から出発し,明治以降の産業の進展とともに粉末冶金需要が拡大(合金化が容易,非金属とも混載可,加工が容易),箔も電化製品のプリント配線化など,暮らしに密着した部品や材料を製造している。
携帯電話,自動車,電化製品から医療分野などに世界中で応用されており,英国,中国にも生産拠点を設置。


花山神社
倉稲魂神(うがのみたまのかみ),神大市比売大神(かむおおいちひめのおおかみ),大土之御祖大神(おおつちのみおやのおおかみ)を祭神とする。延喜3年(903)醍醐天皇の創建といわれ,三条小鍛冶宗近が稲荷の神徳で,名刀の小狐丸を鍛えたと伝えられ,金物の神として諸国の金物師に信仰された。
毎年11月第2日曜日に「ふいご祭」が行われる。大石内蔵助も崇敬して,鳥居を寄進したともいわれ、現存している。境内には良雄の血判石、断食石がある。
同神社本殿の再建は江戸時代とされるが、寄進者等は不明であったが、平成15年12月本殿修復の際、寄進者「進藤源四郎」ほか建築時期を示す「元禄十四年辛巳歳二月十一日」と書かれた棟札が見つかっている。

本殿北側の末社は、古墳跡と思われる。

川田道道標

西国観音霊場の三井寺観音から今熊野観音への最短道にあった道標で,当時の人々は,これから西に進んで滑石越から今熊野を目指した。今は太閤平ゴルフ場などが作られて,道は無くなっている。

  北 右 いまくま くハんをん 道

  西 すぐ御坊道

  南 左 いまくまみち

   (天保10年(1839)は新宮凉庭が,順正書院を南禅寺畔に建立した)

  東 天保十一年 庚子 二月 施主 荒川 山田 木村 鈴木氏
今熊野観音は泉涌寺の塔頭で,空海が東山山中で老翁から授かった十一面観音を安置したのが始まりと伝える。西国三十三所観音霊場十五番札所として信仰されている。

山科本願寺跡
越前吉崎で浄土真宗の普及に成功した蓮如は,文明10年(1478)に海老名五郎左衛門から土地の寄進を受け,京都近郊の地に本願寺を再興し,寺内は御本寺,坊間屋敷の内寺内,門徒宗の住む外寺内からなり,外部とは土塁と濠で囲んだ城郭的構築となっていた。また洛中も疲弊していたこの時期に,本願寺界隈は大いに繁栄していた。
この時代は,各寺,土地で自衛の構えを構築していたが,本願寺のそれは
洛中洛外の構えと較べても大規模で,城と呼べるものであった。
天文元年(1532)8月に細川・六角軍と日蓮宗徒の連合軍の攻撃を受
け焼失・破壊され,その後本願寺は大坂石山へ移る。

三之宮神社
喜年間(901〜923)に醍醐天皇によって創建されたという。
旧東野村の産土神であったが,中世からは山科七郷の総鎮守となる。応永3年(1396)社殿修復に際して,後小松天皇の御宸筆を含む般若経が奉納されており,明治維新まで毎年3回大般若経の転読を行った。

元仏光寺跡
越後に流罪となった後、建暦2年(1212)東国を経て京都へ帰ってきた親鸞のために弟子の源海が創建した寺で、当初は興正寺と称していた。
その後東山の渋谷へ移転、本尊の阿弥陀如来像が盗難によって行方不明と
なったが、宮中に現れた瑞光によって場所が判明、取り戻すことができたことから、ときの後醍醐天皇から「阿弥陀仏光寺」の額を賜り寺名となった。
秀吉の時代天正14年(1586)以降に現在の仏光寺通高倉に移転され
たことから、平安京の五条坊門小路は仏光寺通となった。

第54回京都史跡ウォーク
中臣遺跡と大石良雄所縁の里を訪ねて

 山科には,後期旧石器時代から室町時代にかけての中臣遺跡があり,
また,忠臣蔵で知られる大石内蔵助が,赤穂城明け渡しの後,江戸に
出発するまでの,およそ1年3ヶ月を過した史跡が残っています。
平成17年4月17日,桜花の舞う山科の里を歩きました。