錦織りなす東山三十六峰の史跡を訪ねて 

      

  服部嵐雪が「布団着て寝たる姿や東山」と読んだ東山。北は比叡山から南は稲荷山までの峰々、数えると三十六峰あるという。今回は最南端の稲荷山を神山とする伏見稲荷大社をスタート、命婦谷・毘沙門谷から泉山(月輪山・泉涌山)へ、道中の史跡を訪ねながら、一部東山トレイルを通り、今熊野山・阿弥陀が峯山麓を剣神社まで歩きます。約6km・3時間コース、ページ末MAP参照


<京阪伏見稲荷駅、JR稲荷駅から伏見稲荷大社へ>

伏見稲荷大社門前町界隈

 京阪伏見稲荷駅付近から稲荷新道にかけて、土産物・飲食店が軒を連ねている。飲食店には雀のやきとりやいなり寿司が、土産店には稲荷と名を冠した土産物が並ぶ。神具店には瓶子・杯・伏見人形などなど。稲荷煎餅で知られる宝玉堂は秀吉が早朝に参拝に来た時、この店のみが営業していたので「祢ざめ家」の屋号が与えられたという。伏見人形は伏見街道沿い「丹嘉」が知られている。(創業250年余り、全国の郷土人形の祖なったといわれる)代表的なものに「饅頭喰い」がある。 


 

      秀吉ゆかりの「ねざめ家」に女生徒が・・・    饅頭喰い人形          創業250年の老舗 丹嘉


<これより伏見稲荷大社の境内に入る>
                                                                          
大鳥居・楼門
 表参道入口には鮮やかな朱色の大鳥居。この朱色は魔除けではなく、生命の力・明けの色・物事の始まりを表しているが、ここでは「生命の色」といわれている。
 楼門は天正17年(1589)豊臣秀吉が母大政所の病気平癒を祈願して建てた入母屋造り、2層の桃山様式の楼門。平成十五年に塗り替えられた。「30日でもいい・・ 余命を与えてほしい」と願った秀吉の願文が「命乞いの願文」として保存されている。願い成就の際は「一万石奉加」と書かれているといわれる。鍵と宝珠(ご祭神の魂と米倉の鍵)を銜えた一対の狐(神の使い)にむかえられる。




外拝殿・内拝殿・本殿

 外拝殿は、楼門と同時期に造営され、天保11年(1840)に改築された。昭和36年本殿前に内拝殿が付加された事から外拝殿とよばれる。南北の鴨居の上に三十六歌仙の額が、軒先に12星座をデザインした鉄製の釣灯籠がぶら下っている。

 内拝殿は、元禄7年(1694)の造営。本殿に付け加えられた唐破風朱塗向拝を昭和36年に本殿から切り離して、内拝殿に転用した。内部は祈祷拝受座となっている。
 本殿は、室町時代の桧皮葺五間社流造りの建築。流造りとしては規模が大きく、四方に高欄めぐらした優雅な建築で、「稲荷造り」とよばれる。応仁2年(1468)に応仁の乱の兵火で、山上山下の社殿はことごとく炎上したが、明応8年(1499)に再興された。重文。

  
     
外拝殿           内拝殿           本殿(側面)


白狐社・権殿・玉山稲荷社  

 白狐社は命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)を祭神とし、阿古町を祀った社であるという。狐は稲荷社のお使いとされていて、狐を白く塗ることで「人間の目には見えない存在」であることを示している。
 本殿の修理などの時、仮の本殿になるのが権殿。玉山稲荷社は御所の鎮守として稲荷社から勧請されたが、東京遷都後、現地に移された。本殿と同じく明応年間の造営で、ここを「神御殿」本殿を「下御殿」とも言われている。


  
 白狐社、狐が出入する穴?        玉山稲荷             権殿


<ここより「お山巡り」の入口>

             

      
 千本鳥居・・ 千本鳥居と呼ばれる2列の鳥居をくぐる。鳥居を抜けると奥の院。 


奥社奉拝所(奥社・奥の院)  

 これからの「お山巡拝」の安全を守る社である。山下から稲荷山の三ケ峰を遥拝するところでもある。参拝方向は稲荷山の山頂。稲荷山とは神が降臨したという神奈備山のこと。「おもかる石」、石灯籠の宝珠をもちあげて軽く持ち上げられれば願いが叶うという。

        

        稲荷山遥拝所                            おもかる石


お山参詣道・根上り松お塚

 奥社遥拝所を過ぎると、お山参詣道に入り頂上まで奉納鳥居が林立している。階段を登ると左側に 「根上り松」がある。「膝松さんと」呼ばれ、松の根元をくぐると足腰の病に効くと言われ、腰や膝の整形外科的信仰を集めている。また「値上がり」と縁起をかついで、証券関係者の信仰や、昇給を願うサラリーマンの参拝者も多いという。
 稲荷山は「ヒメシャラ」の自生地としても知られている。両側にヒメシャラを見ながらしばらく登ると、石碑や小祠が群立している。これは稲荷山を信仰する個々の人々が「私の稲荷さま」という意味で、自己の守護神として奉納したもので、山全体で1万を下らないと云われている。

   
                         根上り松                        お塚


<奥の院から熊鷹社・三つ辻へ、そして命婦谷の道をゆく>


熊鷹社  

 朱色の鳥居の間に見え隠れする檜林、左手の谷間は美しい。やがて石段になり、その上に熊鷹社がある。熊鷹社の右手に「お塚」と呼ばれる石碑群があり、こだま池が緑の水を湛えている。奉納された小鳥居がぎっしり吊るされ、燭台には灯りが献じられている。勝負の神として信仰を集めている。今では水商売の関係者の信仰が篤い。
  
               熊鷹社                      谺ヶ池・慶長8年農業用水として改修された


三つ辻
 緩やかな石段を上ると三つ辻に出る。ここでお産婆稲荷から来る参道と出会う。さらに400段の石段を上ると「四つ辻」で、途中の三徳社に因んで三徳さんの石段と呼ばれている。此処が三ノ峰・間ノ峰・二ノ峰・一ノ峰への参拝路の出発点となっている

浄蔵貴所ゆかりの地

  三つ辻からは道を左にとり、命婦谷に入る。しばらく行くとお地蔵さんや一石五輪塔が見える。浄蔵貴所(887〜946)が修業した所(坊崖遺蹟)と言われている。法観寺の塔が傾いた時、法力で直したといわれ、また、父が亡くなった時、一条戻り橋で生き返らせたともいわれている。祇園祭の山伏山は、浄蔵貴所が大峰山入りする姿を現している。左手に数珠、右手に斧、腰に法螺貝。火除け・雷除けの護符を粽と共に授けている。

      
                           
浄蔵貴所ゆかりの地


仲恭天皇陵 
  
 仲恭天皇は、順徳天皇の第一皇子。母は九条良経の娘。イミナは懐成親王。
 順徳天皇は父後鳥羽上皇・兄土御門上皇と共に鎌倉幕府倒幕のため、承久3年(1221)4月20日、4歳の懐成親王に譲位して、5月に挙兵したが敗れた。いわゆる承久の変である。4歳の懐成親王は、即位式もなく新天皇となったが、7月9日鎌倉幕府により譲位させられ、九条殿に移された。在位わずか70余日の悲運の天皇である。世に九条廃帝などと称せられた。明治22年陵地が決まり、仲恭天皇とおくり名された





長州兵の墓地

  鳥羽伏見の戦いで戦死した長州兵の墓地。毎年1月4日、退耕庵により供養が行われている。

   


皇嘉門院(月の輪南陵)  

 皇嘉門院(1121〜1181)は藤原忠道の娘。名は聖子。10歳で崇徳天皇の中宮となった。崇徳天皇が保元の乱に敗れ、讃岐へ流されると出家した。

         


<車坂から東山トレイルを経て泉涌寺へ>


泉涌寺 
 

 創建以来こんこんと湧きつづける泉に由来して名付けられた。東山連峰の南月の輪山麓に立つこの寺は、皇室の菩提寺として特別な寺格を誇る。御寺ともいう。真言宗泉涌寺派の総本山。宗からの楊貴妃観音像が祀られている。天長年間(824〜834)に空海が草庵を結び、法輪寺としたのが起源とも言われている。その後、仙遊寺としたが、健保6年(1218)、月輪大師俊?が泉涌寺と改め大伽藍を造営した。仁治3年(1242)、四条天皇が葬られてから皇室の菩提寺となる

   
  泉涌寺大門・慶長年間造営の御所の門を移築した     仏殿・密教でいう「本堂」にあたる

                              


善能寺
 洛陽三十三所観音の十八番札所。二階堂とも称した。現在の本尊は阿弥陀如来。空海の開基と伝える。嵯峨天皇の勅願寺で、当初八条猪熊にあり、聖観音を本尊とした。天文14(1545)年に後奈良天皇の命により現在地に移転した











来迎院  

 泉涌寺の塔頭。本尊は阿弥陀如来。大石内蔵助ゆかりの寺で、藤原信房の建立と伝える。弘法大師の独鈷水がある。日本最古の荒神像は「ゆな荒神」といわれ、かまどの神である。庭園含翆軒は庭とともに内蔵助の作とされる。

  
       来迎院の表門前                                                   荒神堂
  

  
                         大石内蔵助作と伝わる含翠茶庭                   空海ゆかりの独鈷水



今熊野観音寺 
   
 空海が創建したと伝える古寺で、西国三十三所観音霊場十五番札所。現在は泉涌寺の塔頭である。

   



鳥戸野陵

 一条天皇の皇后の定子ほか六人の火葬塚で、藤原時代には貴族の葬送地であった。東山七条から東を「阿弥陀が峰」といい、その峰の西南一帯を「鳥戸野」といい、北西一帯を「鳥辺野」といった。両方とも「とりべの」と読む。「鳥部野」も同じ。
    


剣神社  

  祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・白山姫命・瓊瓊杵命。剣の宮ともいった。加賀白山の僧徒が神輿を担いで宮中に強訴したが聞き入れられず、神輿を放棄して帰山。その神輿を祀ったことに始まるという。また、江戸期、天叢雲剣を祀るとも、白山権現第1皇子を祀るともいわれた。子どもの疳の虫の祈祷で知られる。

    
        
子どもの疳の虫で知られている・・・               めずらしい飛び魚の絵馬

 
< おわり > 京阪・JR東福寺駅まで徒歩5分   京都歴史ウォーク