清水寺界隈の史跡散策

(平安京を見つめる寺院を行く)

9月19日(日) 午前9時に四条通の南座前に集合しまして,曇天の中でしたが167人の参加者とガイド協会員27人の合計194人が東山は清水界隈のウォークを楽しみました。

京都史跡ガイドボランティア協会・洛東支部


 団栗橋
団栗橋を挟んで西側に西石垣通(さいせきどおり・先斗町の南延長),東側の宮川筋一丁目を石垣町とも呼ぶのは,新堤の名残。天明8年(1788)1月30日に発生した大火は,団栗橋東詰付近から出火したため,団栗焼けともいう。江戸期最大の大火で二昼夜に渡って燃え,鞍馬口通,七条通,鴨川,千本通内の社寺仏閣を含む家屋が壊滅,街区の五分の四を焼失する被害となった。この結果団栗の図子は拡幅されて,現在の通りとなった。

 宮川町花街
四条河原の納涼,芝居小屋から,徳川時代寛文9年(1669)に鴨川左岸に新堤が築かれてから,宮川町の茶屋町が形成されてきた。宝暦元年(1751)に遊里として認められる。宮川筋四丁目に歌舞練場

 えびす神社
祭神に八重言代主神(大国主神の子),少彦名神(すくなひこなのかみ),大国主神(おおくにぬしのかみ)を祀る。建仁寺の創建者栄西禅師が,入唐(宋)の際暴風雨にあったが,恵比須の神体が現れて無事帰朝されたことから,禅師は建仁寺創建に当たり山内に恵比須神社を祀り鎮守社としたのが始まりで,明治の神仏分離の際に,建仁寺から送られた煙草盆がある。十日えびすは,えびす様の誕生日が1月10日の寅の刻に生まれたとも,海へ帰る日とも云われる。
参拝は,本殿にお参りした後,左の横戸を叩いてお参りすると願いが叶うという。
拝殿の天井画は,堂本印象による「招福龍」で,「こだま龍」ともいわれ,「えびす神像」も奉納している。
名刺塚は,吉村孫三郎氏揮毫。財布塚は,松下幸之助氏の揮毫で,貰い物,旧い物を神社にお返しする趣旨で作成,9月第4日曜日に祭られる。

 松原橋
平安京の五条大路にほぼ該当する。室町時代には鴨川に架橋,五条橋とされ,清水寺への参道として発達してゆく。
天正17年(1589)豊臣秀吉が,方広寺を建立すると,参道として六条坊門通に架橋し,五条橋としたため,元の松原五条橋は松原橋となった。したがって,牛若丸と弁慶が戦ったのは現在の松原橋であった。

 寿延寺
日蓮宗の興福山寿延寺といい,本堂に釈迦如来と多宝如来を祀り,日蓮上人,四大菩薩,四天王,その左側に鬼子母尊神,右側に油涌大黒天を祀ることから,表通を大黒町通という。
山門を入り最初の堂が大黒堂で,十禅の森の旧跡である地主十禅大明神を祀る。牛若丸と弁慶がこの地で盟約(主従)を結んだともいわれる。
宗祖日蓮の廟所。通称あらい地蔵で知られる洗心殿は,釈迦が遣わした四大菩薩の一人,浄行大菩薩を安置するもので,この地蔵を洗い清めることで御利益(病気が治る)があると,多くの参拝者がある。

 禅居庵
建仁寺の搭頭で,本尊は聖観音,元弘3年(1333)に小笠原信濃守貞宗が創建した。開祖は建仁寺23世の清拙正澄(せいせつしょうちょう)。応仁の乱で被災した後,天文16年(1547)再建の摩利支天堂に清拙自作の摩利支天像を祀り,開運・七難除けなどの庶民の信仰を集める。他に紙本墨画松竹梅図(海北友松筆で重要文化財)を所蔵する。
建仁寺勅使門は,扉に矢の痕跡が残ることから矢根門または矢立門との別称がある。平重盛の六波羅第より移健したといわれるが,鎌倉後期の建築で,切妻造の四脚門。


 八坂庚申堂(道教の思想)
大黒山金剛寺延命院と号し,本尊は青面(しょうめん)金剛で,大宝元年(701)1月7日庚申に降臨したという。日本三庚申(大阪四天王寺,江戸浅草)の一つ。脇壇に聖徳太子,大黒天等を安置する。開祖は浄蔵貴所ともいわれる。青面金剛は,末法の世を救おうと各如来が遣わしたもので,夜叉の姿をして悪人を食い,善人は食わないという。
庚申とは,庚(かのえ)申(さる)の日をいい,この日には身体に入る三尺の虫が寝ている間に抜け出して,天帝にその人の悪行を告げに行くといわれ,庚申の日は徹夜をしていたが,青面金剛はこの三尺の虫を食うというので,庚申日にこの青面金剛を拝むようになった。

 八坂の塔
聖徳太子が四天王寺建立の用材を求めてこの地で,夢で如意輪観音のお告げを受けたことから,五重塔を建て仏舎利を納めて法観寺と名付けたというが,この地の渡来系豪族の八坂氏が建立に関わったものらしく,平安遷都以前からの寺である。
雲居寺(北東側に隣接)の大法師三好浄蔵は,天暦2年(948)に傾いた搭を法力で修復したという。…一条戻り橋,祇園祭の山伏山の御神体でも有名。火災で幾度も焼失するが,最後は永享12年(1440)足利義教の再建で,応仁の乱にも燃えのこった重文で,この564年の間幾度もの修理,修復を重ねて現在に至る。
現在は臨済宗建仁寺派の寺として,霊応山と号し本尊は五智如来,他に薬師堂,太子堂が現存する。

 三年坂
三年坂は,大同3年(808)に開かれた坂道とか,楼門(仁王門)前にあった子安搭(泰産寺)に通じる道であり,「産寧坂」とも言う。
またこの坂で転倒すれば,三年後の死ぬとの言い伝えもでてきた。三年坂は,「産寧坂伝統的建造物群保存地区」として,京都市で最初に町並保存地区に指定された地域で,現在は石塀小路を含めて街並保存された京情緒漂う地域となっている。

 清水寺
音羽山清水寺といい,北法相宗の総本山で,西国三十三観音霊場の16番  札所として知られ,本尊は十一面千手観音。平安初期延暦17年(798)に坂上田村麻呂が,当地へ鹿狩りに訪れたが,修行中の延鎮和尚から殺生を諌められて一堂を創建したのが始まりという。南都興福寺(法相宗)の寺院であったため,北領の比叡山から幾度かの焼き討ちに遭うが,そのつど再建され現在に至る。

 善光寺堂
ここは本尊の地蔵菩薩を祀る地蔵院であったが,明治期に境内整理で,善光寺如来(阿弥陀如来三尊)堂を移したことから善光寺堂と呼ばれるにいたった。江戸時代から霊験あらたかな如意輪観音を安置しているので知られている。
そして,堂正面右脇の「首ふり地蔵」は,祇園の幇間鳥羽八が生前に待人祈願のために作成したものといわれ,恋しい人の方向に首を向けて祈願すると願いが叶うというので,若者に人気がある。
しかし,この日は青森で清水展が開催されていたそうで,観音様も首ふり地蔵様も出張してお留守でした。

● 仁王門
朱塗りの楼門で三間一戸,室町時代後期に再建されており重文,記念撮影の修学旅行生でいつも賑わうスポットだ。屋根は桧皮葺の入母屋造り,軒は二軒(二重の垂木),斗きょうは三手先,仁王立像は,鎌倉時代の作といわれる。正面右側の腰貫が窪んでいるのは,指先で叩くと斜交(斜め向い)の腰貫に音が伝わるとか,耳の障害が治るなどの謂れがあり,大勢の人が叩いたもので,貫頭に凹みができたという。清水の七不思議の一つとなっている。
また門前の狛犬は,普通は阿吽型となるものが両方とも開口の阿形であり,こちらも七不思議の一つとなっている。

● 鐘楼
正面一間,奥行二間だが真四角で,屋根は切妻瓦葺きである。重い梵鐘を支えるために,丸柱6本(七不思議の一つ)を使用した,見事な彫刻を施して,桃山様式を多分に残した,一際目を引く鐘楼である。
梵鐘は文明10年(1478)鋳造の重文,清水寺4代目の梵鐘で,明け六つ,暮れ六つに時刻を告げていた。
鐘楼西側の小さい築山は,鹿間塚といわれ,坂上田村麻呂が妻の安産のために当地で鹿狩り中,開山の延鎮上人に殺生を咎められて,鹿を手厚く葬った場所という。
西門下の広場のを南西に奉納されている石燈篭は,寛永10年(1633)に本堂再建時の徳川家光寄進のもので,その南の黒く煤けた火災痕を残した燈篭は,寛永2年(1625)の角倉家寄進で,東京(トンキン・ベトナムのハノイ地方)貿易に際して,無事渡海を願って奉納されたものであり,清水寺境内では最古の燈篭といわれる。
また江戸後期の画家岩駒が寄進した岩駒(がんく)の「虎の図」燈篭は,虎があまりに活きいきと描けれているため,夜毎燈篭から抜け出して池の水を飲みに行ったことから「水飲みの虎」といわれ賞賛された。今は観光客に注目されることも少なく,ひっそりと佇む。

● アテルイとモレの碑
階段を下り,忠僕茶屋,舌切茶屋を過ぎると右側に石碑が現れる。
平安建都の後,朝廷軍の征服戦争に対して,蝦夷地の英雄としてアテルイとモレは勇敢に戦ったが,郷民の犠牲と郷土の疲弊を心痛して征夷大将軍の坂上田村麻呂の軍門に下る。
彼らの人物と器量を惜しんだ田村麻呂は,朝廷に助命嘆願を駿河,聞き入れられず河内で処刑された。
岩手県水沢市,胆沢・江刺地方出身の関西胆江同郷会らの尽力で,平成6年に恩讐を越えて建立された。

本堂
寄棟造の本堂大伽藍は,桧皮葺で起り(むくり)反り(そり)の優雅な曲線が特徴だ。平安時代の宮殿や貴族邸宅の面影を今に伝える建築物で,寛永10年(1633)の再建,正面36m,側面30m,舞台190u,舞台下13mの巨大欅丸柱の懸造りの国宝建築で,「清水の舞台から飛び降りる」の諺でも有名で,実際に平安の時代から観音浄土への往生を欣求して多くの人が飛び降りている。明治5年(1872)に京都府が飛び降り禁止例を出し,欄干の外に竹矢来を設けてやっと治まったとか。
舞台は舞楽を奉納する正真正銘の舞台で,両袖の翼廊は楽舎となっている。舞楽は,ご本尊に奉納するもので,舞台の正面は北側の本尊である。
堂内の外陣は礼拝堂で,多くの絵馬は重要文化財,内々陣の大須弥壇上の厨子内には国宝の本尊千手観音と脇侍の地蔵菩薩,毘沙門天があり,左の地蔵菩薩の外側に眷族(従者)と風神,右の毘沙門天の外側には同じく雷神が守護している。

● 奥の院
本堂と同じく寛永10年(1633)の再建で,こちらも懸崖舞台造り,「奥の千手堂」ともいわれ,本堂の縮小形である。本尊の奉祀形式も同様に十一面千手観音を中尊に,地蔵菩薩,毘沙門天を脇侍として,28部衆と風神及び雷神を従えて,常に開帳されていて,近くで御尊顔を拝謁できる。
本堂の眺望が素晴らしい舞台は,高欄をめぐらし,各角の擬宝珠に寛永10年癸酉(みずのと とり)歳十一月吉日と銘刻が見られる。
濡れ手観音は,奥の院の東裏にあり,音羽の滝の真上(上流)に湧き出る金色水を汲み観音様にかけることで,おのれの煩悩や罪障りを洗い流すとして京都の人々に親しまれている。

 子安塔
高さ15mの軽快な三重塔で,桧皮葺。各軒は二軒繁垂木,斗きょうは三手先だが,尾垂木を設けない。縁には組高欄。堂内に千手観音の子安観音を祀る。古より安産に大きな信仰を集めてきた。
聖武天皇,光明皇后の祈願所と伝説されるが,創建時は不明で寛永期の再建である。

 歌の中山
その昔,清閑寺の僧で真燕僧都が,門外で行き交う旅人を見ていると,見目麗しい一人歩きの女性に俗念を起こして,清水への道を尋ねると「見るにだに まよふ心のはかなくて まことの道を いかでしるべし」と答えて姿を見失ったことに由来する。仏の道はかくも険しいものか。音羽山の山腹を行く木漏れ日の小路は,やがて空が明るく開けると,清閑寺の道標へと辿る着く。

 清閑寺
平安中期には勅願寺となり大いに興隆して,広大な敷地を保有した。現在も清閑寺と字が付く地名が周囲に多く残る。
高倉天皇の愛妃小督局もここで出家したといわれ,庭に供養等がある。幕末に西郷隆盛と僧月照が密議を凝らした茶室の郭公亭があったが,今はない。庭は京都を望む高台で,大きな石は「要石」といい,石を扇の要と模して逆三角に広がる街並みを扇に観たてたものという。
清閑寺に到る山手には,六条天皇,高倉天皇と薄幸な両帝御陵が静寂の中に佇む。高倉天皇の希望どおり没後を小督の傍に眠る天皇は,彼岸でこそ小督と沿いたかったのであろうか。以後8百有余年の歳月が流れた。
 

 小松谷正林寺
清涼山光明真言院正林寺といい浄土宗の寺で,阿弥陀如来像の他に円光大師(法然),九条兼実像などを安置する。楼門額は関白九条尚実が,明和年中(江戸中期)に掛けられたものという。
西の谷を小松谷といい,平安末期は,小松内府,平重盛の小松谷邸があり,当時のここには念仏堂があった場所といわれる。また邸内に48の阿弥陀仏を安置し,同数の灯篭を掲げた灯篭堂を建設したことから,重盛は灯篭大臣とも呼ばれた。重盛は父清盛を助け,平家全盛時代を築いたが治承3年(1179)41歳で病死する。
鎌倉初期は,九条兼実が小松谷の所有となり,法然上人に傾倒した彼は,延暦寺の弾圧から法然を守るべく建永元年(1206)ここに一宇を設けるが,翌年法然はこの地から土佐へ配流となる。承元の法難である。

 三島神社
その昔後白河天皇の中宮建春門院滋子(清盛の義妹)が,摂津三島江村三島鴨神社に祈り高倉天皇を得たことから,永暦元年9月に平重盛に勅してここに社殿を造営して三島の神を祀る。治承3年(1179)5月高倉天皇の中宮建礼門院平徳子が,安産を祈り安徳天皇を出産した。今も安産の神として参拝者があるという。
当社の神の使者は鰻であり,古来より鰻は栄養豊かな食物として知られいて,産後の女が食すると肥立ちが良く,母乳の出も良いといわれる。妊婦が,安産を念じて鰻を断ち,祈願し安産成就の後,生鰻を放流(今は絵馬を献上)して御礼参りとした。この事から鰻を初め,魚類を生業としている業者から信仰を集めるようになった。
近年敷地がマンションとなり,北裏にひっそりと神社が祭られている。

 佐藤継信忠信墓
源義経の平泉以来の家臣で,兄継信は屋島の戦いに義経の身代わりとなって戦死,弟忠信は義経等が吉野山中で雑兵に襲われたとき,身代わりとなり防戦,その後京都に潜伏中に北条義時の手勢との戦いで壮烈な最後を遂げたといわれ,頼朝も武勇を惜しんだといわれる。墓というより供養塔として,江戸期に建立されたようで,ここ馬町界隈の旅人の信仰を集めたが,近年は十三重石塔も国立博物館南庭に移されて,佐藤兄弟墓碑だけが路地裏に佇む。