第44回史跡ウォーク(03.12.14)

 平成15年12月14日(日) JR大津駅前に集合
  次のコースで史跡ウォークを行いました。


 京津線上栄駅付近には,犬塚のケヤキがある。寛生6年(1465)比叡山の襲撃を受けた蓮如上人が京から大津近松別院に逃れた蓮如だが,人気のある上人を快く思わない他宗派の門徒によって毒を盛られる。しかし,忠犬がこれを先に食べ死んでしまった。これを蓮如は忠犬が身代わりとなって死んだと手厚く葬って欅を植えたといわれる。大津市の指定文化財で,天然記念物である。

  北国街道は,札の辻を 起点とする北国街道は,琵琶湖西岸を辿ってマキノ町海津から敦賀へと通じる街道で,古来から畿内と北 国を結ぶ最短距離の街道 として多いに利用され続けた。平安時代に編纂された「延喜式」には,すでに穴太(大津市),和邇(志賀 町),三尾(高島町),鞆結(マキノ町)には駅家が設置されていたという。
花登筺生誕地の北側には,古い町並みが残る北国町通で, 1筋東側の一角にはかつて花柳町として栄えた旧柴屋町があり,井原西鶴は,「二階にばち音やさしく, 柴屋町より白女(しゃれおんな)呼び寄せ,客の遊興昼夜のかぎりもなく。」と描写している。琵琶湖疎 水に架かる橋は,北国橋といいます。

 長等公園には平薩摩守忠度(ただのり)の和歌碑がある。忠度は,歌人として知られており,平家の都落ちに際して大津京の栄枯を「さざなみや 滋賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」と詠んだといわれる。(平家物語から)
師の藤原俊成は,忠度の和歌を託されて,詠み人知らずとして掲載した。

駄洒落で,「薩摩守」は忠度(ただ乗り)から,  無賃乗車のことをいいます。(古い方?はご存知ですね)

 小関街道には古い道標が残り,西国観音霊場札所三井寺と,次の札所今熊野をつなぐ街道であった。北国街道に面していたこの付近は,巡礼のための旅宿が軒を連ねていたという。
大津と京都間の峠道の一つで,東海道の大関越えに対して,小関越えと呼ばれた街道である。

 小関天満宮には,狭い敷地ながら虹梁や蟇股の彫刻が繊細で見ごたえがある。
江戸時代の貞享2年(1685)に,松尾芭蕉が初めて近江入りして「山路来て なにやらゆかし すみれ草」と詠んだ句碑があり,その上には,葉を手紙の代用としたという多羅葉(たらよう)の木が植えられている。

 等正寺は「げんべえの首」で知られる。
京都を追われた蓮如上人は,三井寺に親鸞御真影を託して,湖国に潜伏の後,北陸吉崎へと下向,その後の文明12年(1480)山科に本願寺を再建した。蓮如は,三井寺に御真影返却を求めるが,三井寺は実入りの良い御真影を返すことに消極的で,生首を二つ持参せよとの難題を持ちかけた。

蓮如の苦悩を知った信者で,堅田の漁師源右衛門は,倅の源兵衛と相談して,源兵衛の首を取り,三井寺に参り親子の首二つと引換えに御真影を返すよう訴えた。三井寺は仏門の身でありながら,無理を強いたことを恥じて源右衛門を許し,御真影を返却したが,息子を手に掛けた源右衛門の胸中はいかばかりであったことか。
今でも生首は,蓮如の御文とともに寺宝として保管され,我々に往事を偲ばせる。

  大津絵の店 江戸初期の340年程前に,大津宿の追分,大谷付近で旅人に神仏画を描き売ったのが始まり。社会,風俗,人情等を面白く描いたもので,鬼の念仏,藤娘などが有名。

 琵琶湖疏水 明治の京都近代化政策最大の基幹産業で,第三代知事の北垣国道が計画し,工学博士田辺朔郎が工事を担当,明治18年6月着工,同23年4月に夷川までの1期工事が完成,その後水力発電所の蹴上発電所を建設し,インクライン,路面電車の敷設が行われた。100万都市で,渇水期にも水不足を生じない都市の生命線はここから導水された。

 三尾神社 ご祭神はいざなぎの尊。社伝によれば,その昔いざなぎの尊がこの地に降りられ,長等山の地主神となられた。この神は,常に三つの腰帯をつけておられ,その色は赤・白・黒で,その形は三つの尾のようであり,三尾(みお)明神と名付けられたという。
太古の卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方より出現したといわれ,「真向きのうさぎ」を三尾明神のお使いとしている。本殿の蛙股の中にうさぎの顔がみえている。

 三井寺
天台宗寺門派の総本山で,古くから日本四カ大寺の一つに数えられている。天智,弘文,天武天皇の勅願により,弘文天皇の皇子で大友与多王が田園城邑を投じて建立され,天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜り「長等山園城寺」と称した事にはじまる。
「三井寺」のいわれは,天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり,「御井の寺」と呼ばれていたものを,後に智証大師が,当寺の厳儀・三部灌頂(かんじょう)の法水に用いられたことに由来する。
その後,比叡山の最盛期であった第18世座主元三大師良源の寂後(寛和元年1月3日),円仁(3代座主),円珍(5代座主)の門下の対立が表面化して,比叡山の山門に対して,三井寺は寺門として分裂,山門が朝廷と結んで上流貴族の勢力を支え,寺門は新興の武士階級と結んで封建勢力の台頭に呼応し抗争を繰り返した。寺領は,北は坂本(比叡山)から石山(石山寺)までを有していた大寺院であった。

 仁王門 三井寺の表門で,天台宗の古刹常楽寺(甲賀郡石部町)の門で宝徳四年(1452)作成され,後に秀吉によって伏見に移築され,慶長六年(1601)に家康によって現在地に再度移転させられた。
金堂への坂道から仁王門を振り返ると,門内に延びた参道に街並みや琵琶湖が取り込まれて,一服の絵のようだ。


 国宝の金堂は,慶長4年(1599)に,豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたもので,三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇っています。また本尊弥勒菩薩の他に,本堂内には数多くの仏像が展示されている。
金堂前は,最も広大な空間が広がり,三井の晩鐘で知られる鐘楼,天狗杉,榊原漠山筆による芭蕉の句碑「三井寺の 門たたかばや けふの月」がある。



 梵鐘は三井の晩鐘といわれ近江八景の一つで,環境庁による残したい日本の音風景100選の一つ,また神護寺(銘文),平等院(名姿)とともに名音で,三名鐘といわれる。
梵鐘上部にある乳の数が一区内五段五系列の計百個と上帯内部の八個を合わせ総計百八個となっていて,煩悩の百八に因んだ数の乳を持つ梵鐘の在銘最古遺品に当たるという。また,三上山の百足退治をした俵藤太が,竜王からもらったとも,若者と蛇の物語など伝説に事欠かない梵鐘である。



 三重塔 慶長2年(1597)に豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を慶長五年に徳川家康が三井寺に寄進したものです。

☆ 三重,五重塔は,舎利塔であり釈迦の遺骨を奉安してある場所で塔婆といい,寺の中心でった。これを遠方からでも見えるように高くなっていく。大阪の四天王寺は,正面に塔婆をおく形式である。
その後,参拝者が舎利壷を拝も
うとしても,塔の最頂部や塔心柱の底に収められているため拝むことができない。そこで仏のお姿である仏像を拝むために,金堂が重要となり塔婆と左右に建つ法隆寺,法起寺,法輪寺が現れる。
しかし,バランスから正面を入って左右に塔を並立させ,金堂を後ろの正面に持ってくる薬師寺,唐招提寺形式となる。
塔の目的が,装飾に過ぎなくなると,その効果を一層鮮明にするために正面より外部に据える東大寺などの天平時代の配置となる。
平安時代には,比叡山,高野山へと寺院が移り,平地がないことから整然とした配置はできなくなり,塔婆への信仰は後退し,本尊への礼拝が主となり金堂が中心となる。また,僧侶が勉強する施設である講堂が僧侶の地位とともに大きく拡張される。延暦寺にも金剛峰寺にも雄大な講堂ができて来る。
平安中期になると,真言,天台宗も都の郊外に下りて,醍醐寺,仁和寺,大覚寺などには一応飾り程度の塔婆を持っている。塔婆によりその時代が判る所以である。
阿弥陀教には,寺の中心は阿弥陀堂一点に凝集され,いよいよ講堂や塔婆の影は薄らいで行く。
平安末期の念仏教は,西方極楽浄土をこの世に実現しようと,天然の景観を利用,境内に観音堂,地蔵堂などの堂宇を散在させて,神仙の美を整え,池や滝,花樹を用い阿弥陀堂周囲が荘重になればなるほど本堂の尊貴は失われていく。
さらに浄土教になると,法然の肖像のほうが本尊の阿弥陀堂を凌駕する。浄土真宗になると,阿弥陀堂より親鸞の祖師堂(御影堂)の方が立派となる。
禅宗になると,伽藍仏教を廃し,人間完成に目的を置いているため,寺院は仏のものではなく住僧の人間のためのものとなり,本堂の須弥壇も極めて小さくその上に釈迦三尊のささやかな像を置くだけとなる。

 観音堂は,西国三十三箇所観音霊場の第十四番札所として,篤く信仰されている。本尊は如意輪観音坐像で重要文化財,如意とは如意宝珠(あらゆる願いを叶える不思議な珠)のこと,輪は輪宝(古代インドで理想の国王とされる転輪聖王の感得する七宝に一つ)のことで,合わせて衆生に財宝を与える仏として厚く信仰されてきた。

観自在菩薩ともいわれるように,世間の声を何でも耳にして,あらゆることを観察して慈悲をたれてくれる仏で,人間の苦労,悲愁,不幸からすべての人間を救済する。そして人界の苦悩を救済するために,33の姿に化身して示現されるという。本来の正(聖)観音は,あまりに固苦しいからと十一面観音,千手観音,不空羂索(ふくうけんじゃく)観音,如意輪観音,准胝観音や馬頭観音まで現れた。

観世音菩薩への信仰は,年とともに高まり,ついにはこの世に浄土を求めよう(観音霊場を巡礼する)と観音に関係のある三十三に因んで,西国三十三ヶ所巡りもあらわれた。それらはいずれも平安時代にすでに存在した名刹が多い。もともとこれらは,東国の人々が農閑期に伊勢神宮に参拝した期を幸いに,西国巡礼するための口実とも考えられる。

☆ 今回のウォークは,三井寺に参拝しましたので当初の予定の掲載コースを一部変更いたしましたことをお詫びいたします。
(たくまろ)