横井小楠
 幕末の思想家で熊本藩士。越前の松平春獄が政治総裁職につくと、政治顧問として仕え、政治改革・軍政に力を振るった。
 横井小楠は勝海舟を通して坂本龍馬とも交流があり、龍馬の船中八策は小楠の影響を大きく受けている。開国主義者勝海舟に「天下で恐ろしい者を2人見た。横井小楠と西郷隆盛だ」と言わせた人物という。
 明治2年1月5日、参賀のため宮中に参内。その日はすごく寒い日で、八つすぎなのに夕暮れのような感じだったという。宮中からカゴで帰宅途中、竹屋町の自宅近くのこの辺りで、暴漢に暗殺された。


下御霊神社
 社伝によれば、大同2年(809)無実の罪をきせられ非業の最期をとげた伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の怨念を鎮めるために承和6年(839)に創建されたといわれている。その後、崇道天皇(早良親王)・吉備真備・藤原弘嗣・橘逸勢・分屋宮田麿・火雷天神を加えて八所御霊としている。
 当初、出雲路にあり、御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになった。天正18年(1590)豊臣秀吉の都市計画により当地に移転してきた。
 本殿は寛政三年(1791)仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は旧建礼門を移したものといわれている。

革堂 (行願寺)
 西国33ケ所観音霊場の第19番の札所である。寺伝によれば寛弘元年(1004)行円上人によって一条小川(上京区)に創建された。上人は常に皮の衣を身にまとっていたので人々から皮聖と呼ばれていた。そして当寺も革堂と呼ばれるようになった。度々の災禍により寺地を転々とし、宝永5年(1815)この地に移された。三蹟の一人藤原行成が寺額を書いている。
 境内には都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂などがある。
 


藤原定家邸址
 鎌倉前期の歌人。現冷泉家の祖。通りに因み京極殿と呼ばれていた。この本宅以外に5ケ所に別荘があったそうで、定家46歳以後は嵯峨野の山荘、厭離庵で過ごしたといわれている。


妙満寺
 今は駐車場になっているこの場所は、昭和42年まで顕本法華宗の本山妙満寺があった。現在岩倉幡枝に移転している。
 この寺に安政5年(1858)幕府の老中、越前鯖江藩主間部詮勝が滞在した。井伊直弼が幕府大老となり、勅許を受けずに日米修好通商条約に調印したので尊皇攘夷派などの反対が一気に高まった。そこで井伊大老は詮勝を京都に送り、朝廷との交渉に当たらせるとともに、志士たちの弾圧、世に言う「安政の大獄」の実行にのりださせたのである。
 詮勝は安政5年9月京都に入り翌年の3月まで滞在し、朝廷や公家と交渉するかたわら、京都所司代酒井忠義とともに梅田雲浜ら志士たちをつぎつぎと逮捕していく。しかし、万延元年3月3日「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されると、老中を罷免され処罰されたという。


本能寺・法華宗大本山 本能寺
 天正10年6月2日未明 織田信長が明智光秀に暗殺された、いわゆる「本能寺の変」で有名なお寺です。その当時は、現在の四条西洞院(元本能小学校跡地附近)にありました。6万坪の敷地に濠を設け土塁を築き、濠の水は堀川から引き入れ、その姿はさながら城郭のようであったといわれています。
 秀吉の都市改革によりここ寺町に所替えになった。天明(1838)の大火で再び焼け、元治元年(1864)蛤御門の変でまたまた全て焼失、本能寺としては6度の火災にあっており、以後「能」の字のヒが重なるのを忌み嫌って寺独自の字を使っている。
 現在の本堂は昭和三年に建築されたものです。
 境内には信長のお墓のほか本能寺の変で亡くなられた方々もまつられています。

鳩居堂・熊谷直孝(鳩居堂8代当主)
 幕末に飢饉救済や種痘所の設立に力を尽くした。薬種業の父親熊谷直恭とともに維新政府に協力した。頼山陽や小石元俊とも親交があり、京都出身の平民として唯一官費海外留学生として、フランスに留学している。

      ・・・新京極の歴史・・・

 慶応4年(1868)7月17日 江戸が東京に、9月8日 慶応が明治とあらたまった。
 天皇はある日「東京に行って来る」と言って行かれたまま今もって帰ってこられないと、京都人はいう。後を追うように皇后・公家・商人・職人等までが東京に行ってしまい、当時50万の人口が30万にまで激減してしまった。
 明治5年 知事槇村正直は、こういった沈滞ムードを打破するために歓楽街を、寺町どうり東側の廃仏毀釈などで寂れてしまったお寺の境内等を開いて造った。「東京極」と呼ばれていた寺町どうりに対して「新京極」と名づけた。


誓願寺
 寺伝によると、天智天皇の勅願書として南都に創建されたが、平安遷都で元誓願寺小川に移り、天正13年(1585)に現在地に移る。明治には寺域が縮小された。
 本堂は昭和7年に焼失し、昭和39年に鉄筋コンクリート造りで再建された。
 「迷子道しるべ」「月下氷人石」といわれる石柱がある。右側に「教える方」、左側に「さがす方」と彫ってある。当時、落し物・迷子などの時、落とした人は捜す方へ、拾った人は教える方へ、この石に書いて張り出したという。この石のことを「奇縁氷人石」ともいう。
 第55世住持の楽庵策伝は「希代の咄上手」と言われた人で、面白おかしく説教をしたので今では落語の始祖といわれている。現在では若い人たちがここ誓願寺で「落語研究会」などを開いている。


誠心院
 寺伝によれば藤原道長が和泉式部に与えた小御堂が始まりと伝えている。和泉式部は越前守大江雅致の娘で橘道貞と結婚、小式部内侍をもうけていたが、冷泉天皇皇子為尊親王と恋をし、親王亡き後すぐに弟親王敦道親王の恋人となるが、すぐに弟親王とも死別する。その後藤原保昌と再婚し、夫とともに丹後に赴任している。恋多き女といわれる最初の人で多くの歌を残している。
 境内にある和泉式部の宝篋印塔に正和二年の銘がのこっている。


蛸薬師堂 (永福寺)
 本尊は石薬師如来(蛸薬師)この寺の親孝行な僧が、病気の母親の好物の蛸を食べさせてやりたいと、蛸を買ったが見咎められて、無理やり箱を開けさせられた。困った僧はいつもどうり薬師如来に祈念したところ、箱の中はありがたいお経の本が入っていたという。
 昔から蛸のイボから「イボ」を治すという信仰がうまれ、いまでは「お出来」は「ガン」ということで「ガン治療にも良い」と言われるようになった。
ここ蛸薬師堂では毎年、来る年の厄除けと無病息災を願って12月31日午前10時から大根炊きが行われます。また元旦から3ケ日は甘酒接待もあるそうです。

安養寺
 平安時代、恵心僧都が開創。その妹安養尼が住持したので寺名とした。本尊・阿弥陀如来造立の際、台座が3回も壊れたので蓮華を逆さにして造立したら見事に完成したといわれている。。
 さかれんげ阿弥陀如来と通称されて、女人往生の如来さんとして女性に信仰されている。







・・・裏寺町通・・・

 この通り、善良寺・正覚寺・常楽寺・光徳寺・称名寺・西導寺・浄心寺・大竜寺など、秀吉が天正19年(1591)に移転した寺町の様子をよくとどめている。



錦天満宮
 宮菅原道真を祀る。もとは源融の河原院の旧地にあった歓喜光寺の鎮守社として祀られいたが、秀吉の都市改革により天正15年(1587)にこの地に移転した。以来四百年間街の中心の繁華街で知恵の神・学問の神・商売繁盛の神として信仰されている。境内には「京の名水」(にしきの水)が今もこんこんと湧き出して人々に愛されている。
 境内には他にも、安産塩竈神社・日乃出稲荷社・白太夫神社などがある。




染殿地蔵
 この地にあった金蓮寺(昭和5年に鷹ヶ峰に移転)の塔頭で、染殿院だけがこの地に残った。文徳天皇皇后(染殿皇后)はこの地蔵尊に祈って清和天皇を誕生したといわれ、今も安産守護の信仰をあつめている。








新京極・寺町通に点在する史跡を訪ねて
秀吉が造った町を歩く




京都繁華街として多数の人々で賑わう「新京極や寺町通」には
多くの由緒ある寺院や史跡がひっそりと残されています。
今回は、その忘れられたような史跡を訪ねて、
寺町通を北から南へ歩きます。