■ 伏見港公園
このあたりは豊臣秀吉が伏見城を築城をするため宇治川・巨椋池の改修を行ない、宇治川水運の内港として繁栄していたところで、現在は公園として親しまれている。
■ 三須閘門
明治27年に琵琶湖三保ケ崎から墨染めインクラインまでの琵琶湖疏水が完成し、水は濠川(伏見城外堀)に流された。
大正6年の大洪水のとき、伏見港一帯で改修工事が行なわれたが、宇治川と濠川の水位の差が大きく、これを調整するために昭和4年この三須閘門が出来た。 完成当時は年間2万艘の船が石炭などの物資を運航しており、港は大いに繁栄した。しかし昭和39年宇治天ケ瀬ダムの完成によって、次第にその役割を終えた。 現在では往時のままの姿で保存されている。
■宇治川堤防
秀吉が伏見城を築城するまえの宇治川の流れは、現在の宇治橋付近から三軒家を通って直接巨椋池に注がれていた。
たびたび大洪水に見舞われ、昭和7年巨椋池の干拓や宇治川堤防の嵩上げ改修も行なわれたが、水害の危機は一向に去らなかった。
■大根洗い場
巨椋池の肥沃な土で育てられた大根は、9月頃種をまき11月下旬に収穫する。農道に面した洗い場で、一斉に大根を洗う姿は東一口の風物詩となっている。
この大根は聖護院大根(丸大根)で煮崩れせずまろやかな甘味があって、おでん・ふろふき大根などに使われている。
■ 内田蓮園
昭和16年干拓されるまで巨椋池は初夏になると、水面に蓮の花が咲き乱れ「蓮見舟」がでるなど、大いに賑わった。現在でも60種の蓮が栽培されており、千葉検見川の泥炭地から発見された「大賀蓮」もあり、毎年7月下旬蓮見会が行なわれている。
■大池神社
かって巨椋池に生息した動植物すべての鎮魂と水田耕作者の安全と繁栄を願って創建された。昭和28年台風13号で宇治川左岸が決壊し、境内にある巨椋池記念碑の上端はこの洪水時の浸水線と言われている。
■ 前川堤
巨椋池排水幹線の両堤に昭和40年巨椋池土地改良区が約300本の桜を植樹した。ほとんどがソメイヨシノだが遅咲きのヤエザクラも楽しめる。平成6年「京都自然200選」に選ばれている。
■ 山田家長屋門
山田家は巨椋池の漁業の総帥、御牧郷13村の大庄屋で苗字・帯刀が許されていた。現当主は23代目。
現存の長屋門(江戸時代)は大正に改築している。東西15間(27M)・奥行き2・5間(4・5M) 入母屋造り本瓦葺、棟の両端には鯱、しっかりした石積みの上に白壁があり、今も往時の風格を伝えている。
■ 安養寺
浄土宗知恩院派に属する。紫金山安養寺。弥陀次郎が夢のお告げによって淀川から引き上げられた十一面観音菩薩を本尊としている。本尊は秘仏でその御開帳は33年ごとに営まれている。観音信仰の寺として有名です。
境内にある菱灯篭は観音の力によって焼失をまぬがれたと伝えられ、火除け観音の信仰が生まれた。嘉永3年3月京都桔梗屋弥兵衛の銘が入っている。
■ 豊吉稲荷
本宮は伏見稲荷の36番の峰に祀られている。かって太田道灌の姫が重い疱瘡にかかり苦しんでいた時、京の一口に祀られている稲荷神社が霊験あらたかであると知り祈願したところ、たちまち重かった疱瘡も全治したという。
■ 東一口の町並み
東一口は昭和16年の干拓以前は全戸の9割以上が淡水漁業で生活を営んでいた。現在は東・西の2部落にわかれ、戸数約190戸・人口約800人の東西に細長く家並みがつづく堤防集落である。
■ 淀の渡し場
明治37年宇治川付け替え工事が行われ、北川顔と淀との間に淀大橋(木橋)がかけられたが、この結果東一口の人たちは大変不便になった。そこで渡し場が設けられ、昭和28年大水害で舟が流失するまで約40年間運行され大いに賑わった。
■ 長円寺
浄土宗知恩院派。慶長3年開創。通称三軒寺と言われている。
戊辰の役当時、この寺は東軍傷病者の病院となり焼失を免れた。庫裏の大黒柱に被弾した弾丸をそのまま保存している。山門右側に東軍戦死者の碑がある。
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