
山科から大津宿へ(百人一首の逢坂山に誘われて)
第38回史跡ウォーク
5月11日(日)曇天の中,104人の参加者と共に山科から逢坂山を経て,旧東海道を大津まで歩きました。とうとう雨となりましたが,静かに佇む道標や往時を偲ぶ名水に,いにしえの旅人を感じたウォークでした。
奴茶屋
文安4年(1447)創業の腰掛け屋で,当初は東海道筋にあったが,山科駅前再開発のために駅前ビル「ラクト山科」に移転した。
茶屋を興した片岡丑兵衛は,もと南朝の遺臣(楠正成の曾孫・若丸)を守る家臣といわれ,武芸に勝れ,義侠心があり,往来する旅人のため店先に弓,槍,刀の武具を飾って旅人の護送にあたったことから,この茶店「奴茶屋」とよばれ繁盛した。
幕末時に皇女和宮(かずのみや)が14代将軍家茂(いえもち)に嫁がれるときもここで休息され,明治天皇も東行にあたる時,鳳れんが止められて,「明治天皇御休息跡」の碑が,往事を偲ばせる。当時お茶を差し上げられた清水は「記念ノ井」と呼ばれていたが、その跡形もいまはない。
諸羽神社
山科で4番目の神社のため四ノ宮とも呼ばれる。社名の諸羽は,祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと),天太玉命(あめのふとだまのみこと)の二神は,天孫降臨の際,左右扶翼の神であったことに由来する。
本殿西北の石は,琵琶石と呼ばれ,もと人康(さねやす)親王の別荘にあったものといわれる。
十禅寺
四宮河原観音堂ともいい,平安初期,54代仁明(にんみょう)天皇の皇子人康親王(山科宮)が出家し,その山荘に聖徳太子作と伝える聖観音像を安置したといわれる。琵琶を持った人康親王像が安置されている。境内の東北に親王の墓がある。

徳林庵
六角堂には,京都六地蔵巡りの山科地蔵(四宮地蔵)があり,地蔵盆には多くの信者で賑わう。本尊は聖観世音菩薩で,天文年間(16世紀中頃)に人康親王の菩提を弔うために創建され,江戸期には人康親王が琵琶の祖として信仰された。門前に人康親王供養塔(一説には蝉丸塔)がある。
江戸時代,東海道を往来した飛脚は徳林庵境内の井戸付近で休憩した。飛脚寄進の手水には日通のロゴとなった丸に通の字が刻印されている。この井戸は現在も使用可能で,手押しポンプを動かせば名水が味わえる。
小関越道標
「三井寺観音道」は,西国観音巡礼14番札所の三井寺(園城寺)観音堂への近道である。「小関越」は西近江と山科を結ぶ道で,北国街道に通じる。三井寺から今熊野観音への巡礼道でもあった。 「小関越」とは逢坂越の古称「大関越」に対する呼称である。「定飛脚問屋京都江戸大阪(商標)三店」と刻まれた立派な道標は,高さ2.5メートルあり,文政5年(182)建立で,当時の喧騒は今はない。

閑栖寺
真宗大谷派(東本願寺)で放光山閑栖寺と号し,山門上の太鼓櫓は,50年前に修造され,門徒衆の参集,東海道中の旅人に時刻を告げていた。
本願寺10代証如(蓮如の曾孫)上人より阿弥陀如来の絵像を受領,江戸期には東本願寺宣如上人から阿弥陀如来像を賜っている。
三井寺智證大師(寺門派の祖で円珍)の座像が安置されていることから,江戸期は東本願寺の末寺であり,当時の横木が三井寺領でもあったといわれる。
追分道標
「此所東国より来る人ふし見への別れ道也。故に追分という。」と「伊勢参宮名所絵図に出ている。また馬子が牛馬を追い分けた場所から追分の由来になったともいわれる。
道標には,「みきハ京みち」→東海道 「柳緑花紅」「ひだりハふしミみち」→奈良街道で,交通の要衝であった。
現在の道標は,昭和29年再建の3代目(初代は琵琶湖文化館前に建つ)また東隣には,真宗中興の祖,蓮如廟への道標も佇む。

月心寺
境内の走井の井戸からは今も名水が出ており,江戸時代は茶店として栄え泉回遊式庭園が見事である。日本画家の橋本関雪は,京津線によって土地が狭くなり,由緒ある茶店が荒廃,散逸することを憂い,別邸として買い取り修復に努めたため今に残った。
小野小町所縁の「百歳堂」は,百歳の老婆となって隠れ棲んだという伝説がある。
松尾芭蕉の「大津絵の筆の始めは何仏」の句碑
門前の道標は江戸期の一里塚の名残で,右一里町→今一里町,元一里町 左大谷町→大谷町
※ 大谷駅側に走井餅本家の石碑
蝉丸神社分社
琵琶法師の蝉丸を祀る神社で,音曲芸能の神として知られているが,もとは逢坂を往来する人々の安全を見守る「坂の神」として信仰されていた。
蝉丸は,平安前期の歌人で逢坂関付近に庵居したといわれ,盲目で和歌・琴・琵琶をよくし,後世において音曲の守護神とされた。
「これやこの ゆくもかへるもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関」が有名(百人一首)
※ 東下りの旅人も,京へ向う旅人も 知人も,見知らぬ人も たとえこの場所で別れようともまたきっと会うこともあるだろうよ,ここは名に聞こえた逢坂の関なのだから・・・
境内入り口に荷車の轍の跡を残す車石が敷かれている。車石とは湿土の多い峠の坂に轍がめり込むのを防ぐために工夫され,つくられたものである。

料亭かねよ
うなぎ料理で有名で,庭園は国道のすぐ横にあるが築山によって閑静な佇まいである。
百人一首で三条右大臣(藤原定方は三条に住む)が詠んだ「さねかずら」(別名 美男かずら)が,庭園に見られる。
「名にし負ば 逢坂山のさねかづら 人に知られてくるよしもがな」
※ 逢坂山のさねかづらよ,そなたの名は恋人に逢って寝るというこころだときく。その名の通りであるならば,私はそなたの力が欲しい。人に知られずそなたをたぐり寄せるようにこっそりと恋する人に逢いたいものを 庭園には,車石や逢坂関の閂(かんぬき)石,150年も風雪を耐えた信楽焼きの鬼念仏が来客を迎える。
逢坂山関跡
天下三関(鈴鹿・不破・逢坂)の一つで,反乱を起こした押熊王を追って武内宿禰が,兵を動員させて逢坂で両軍が出遭ったことに由来する。(日本書紀)
百人一首の第六十二首 清少納言も逢坂山を詠んでいる。
「夜をこめて 鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」
※ 夜も明けていないのに鶏の鳴きまねをして関所を開かせるのですか,函谷関なら騙せても逢坂の関は騙されませんよ。まして私の関となると・・・ 清少納言に気のあった藤原行成が,彼女を訪ねた翌朝に「もっと居たいのだが鶏が鳴くので帰らなくては・・・」との手紙の返礼の詩である。
一条天皇の皇后「定子」に仕える清少納言は,ライバルの「彰子」に使える紫式部らと才媛を競った。
豊臣秀吉が大津城を築き,琵琶湖水運の集積地として大津が繁栄すると,逢坂越は人と物資また情報の流通ルートとして脚光を浴びます。かつては多くの常夜灯が旅人の足元を照らしていたが,今は峠と蝉丸神社だけに残る。
大津周辺は,街道一の繁栄を極め,その豊な財力によって大津祭に見られるように曳山巡行や今に残る町家などの文化が栄えた。逢坂関付近では,大津絵やみすや針,大津算盤を売る店が軒を連ねていたという。
警察の検問所があり,車両重量検査所の跡があり,一昔前の車両の大きさが解る。
蝉丸神社上社
旅の平安を祈る関の明神が祀られている。「音曲芸道祖神」の標柱 常夜灯が往時を偲ばせる。蝉丸は平安時代前期の頃の歌人で,宇多天皇の皇子で敦実親王の雑色とも醍醐天皇の第4皇子ともいわれ,盲目ながら和歌,琴,琵琶をよくして源博雅に秘曲を授けたと伝え,後世に音曲の守護神となった。

旧東海道線逢坂山トンネル跡
東海道線京都―大津間は明治11年着工した。全長665mの難工事で,英国技師の巡視は受けたものの,工事は日本人のみの手で行われ,同13年(1880)完成した。東側入り口には,太政大臣三条実美の筆による「楽成頼功」の扁額がかかり,現在鉄道記念物に指定されている。
安養寺
応仁の乱の前夜,寛正6年(1465)正月に,京都大谷の本願寺を叡山門徒に焼かれた蓮如は,安養寺付近で僧兵に囲まれ斬り付けられるが,周囲の石が僧兵たちの長刀から蓮如を守ったといわれている。後年蓮如はこの石に「無碍(むげ)光如来」の五文字を自ら刻んだ。一名身代わり石といわれている。立聞観音と呼ばれる観音菩薩が安置されており,由来は逢坂山に隠れ住んだ蝉丸の奏でる琵琶を立ち聞きしていた黒衣の僧侶が姿を変えたものという。
蝉丸神社下社
弘仁13年(822)小野朝臣(あそん)峯守(みねもり)が,逢坂山の守護神として山上,山下に創祀したとされ,天慶9年(946)蝉丸の霊が合祀された。この社が,主体となっている
本殿左後の六角型時雨燈篭は重要文化財に指定されており,蝉丸の歌碑の他に境内の関の名水をうたった歌碑がある。
小町塚 逢坂の流れは清し 初桜 蝉丸の学びの宮ぞ 春の風
紀貫之の歌碑 関の清水 逢坂の関の 清水に影見えて 今や引くらん 望月の駒
大津本陣跡
大津宿の本陣跡で,明治天皇も宿泊した。
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