木幡の里に藤原氏の遺跡を訪ねて


摂関政治を独占した藤原道長・頼道父子の時代
藤原氏が全盛を謳歌した時代でした。
頼道が建築した宇治平等院の華麗な姿はそれを象徴
しているが、広大な地域を支配した宇治木幡周辺
については忘れられつつあります。
今回、その木幡周辺に残る藤原氏の遺跡を訪ねます。

六地蔵宿(京阪六地蔵駅)から万福寺(京阪・JR黄檗駅)まで




















■六地蔵宿 
 古来、京より宇治、大和にいたる街道の要所で馬借や運送業者の集落地であった。文禄年間(1592〜95)、秀吉の指月・木幡山築城にともなう宇治川改修で港となり、敦賀から琵琶湖経由で運ばれる日本海物資を宇治川・淀川ルートで大阪方面へ積荷する港として栄えた所である。




■正行寺

 四条畷の戦い(1348)で戦死した楠正行の首を、家臣が密にこの地に埋葬した。その後、千早赤坂城で戦死(1380)した弟の楠正儀もこの地に埋葬された。門を入るとすぐ左手に正行・正儀の五輪石塔首塚がある。



■正覚院
 平安後期、木幡山の麓に浄明寺と言う寺があったが応仁の乱で焼失した。文禄3年(1594)木幡の豪族野田清玄がこの地に再興。関白藤原頼通時代の特長を表した聖観音菩薩像を本尊とする。入口石柱には天保時代のお茶壷道中の担い方で有名な宇治屋伊勢屋何某の銘がる。正門入って左の「長坂地蔵」は、炭山から長坂峠を超えて薪炭を運ぶ若者にまつわる伝説の地蔵尊である。



■浄妙寺跡 現木幡小学校付近
 ときの太政大臣・藤原道長が藤原一族の菩提寺として建立(1005)。道長が若かりし頃、父兼家と木幡墓所(藤原一族の墓地)に参ったが、古い塚が累々と並ぶだけで供養した跡もなく鬼気迫る光景であった。道長は自分がもし高位につけたら、この地に一堂を建立すると誓い、のちに、先祖藤原鎌足の墓がある多武峰の妙楽寺に模して建立されたと言う。
 しかし道長の力が弱まると墓所も荒れ果て、浄妙寺は急速に衰微し、やがて歴史の彼方に忘れ去られていった。跡かたも無くなっていたが、昭和42年校舎建設のとき、三昧堂跡と推定される遺構が発見された。



■火薬庫引き込み線跡
 明治初期より木幡付近(現自衛隊駐屯地から京大宇治校おたり)には、陸軍の広大な火薬庫があり、太平洋戦争終結まで使用されていた。その鉄道引込み線の跡が一部のこっている。

■許波多神社
 皇極天皇(在位642〜645)が夢の中で天神から「下界に神陵なし、我が霊を祭祀せよ」と告げられたので藤原鎌足に勅し木幡荘に寝殿を造営(645)したのが始まりとする伝承と、もう一つの伝承は、大海人皇子(後の天武天皇)が兄の天智天皇と仲たがいし大津より吉野に向かう途中、この社前で急に馬が進まず、鞭の柳の枝を玉垣に挿し神に祈ると馬が進み吉野に向かわれた。後、壬申の乱で勝利して天武天皇となり、この社を御柳大明神と奉称したと言う。


■狐塚 
 許波多神社の境内にある。宇治陵中36号墳墓で、藤原基経(摂関在位872〜890)の墓と云われている。基経の墓は深草極楽寺跡の香神塚だとされているが、道長が木幡に浄妙寺を建立したとき、この地に改葬されたと思われる。




■能化院
 延暦21年(802)、僧延鎮の開基で多聞観音院本願寺と称した。藤原道長が浄妙寺建立のとき、この寺に参詣し霊夢で「地蔵菩薩は西方の能化にして衆を能く化度す、この尊像を安置せよ」との多聞天のお告げを聞き、恵心僧都に頼み恵心自刻の七尺地蔵菩薩を安置して能化院と称されるようになった。その後、寺院は何度も焼失したが地蔵菩薩は焼けずに残った。別名「不焼地蔵」と呼ばれ防火の守り仏として信仰されている。
 境内には「常盤御前の腰掛石」がある。

■宇治陵
 地蔵山、御蔵山周辺に散在する多くの古墳を総称したもので、宇多天皇中宮温子以下17陵3墓を通称します。藤原冬嗣・基経・時平・道長・頼通など藤原氏の有力者もこの地に埋葬されていると見られるが、墳墓の特定はされていない。なぜこの地が藤原氏の墓所となったかは明らかでないが、藤原氏の先祖中臣鎌子の子定恵が、この地に一宇を建立し、死後この地に埋葬されたと言う古文書がある。



■西方寺
 阿弥陀三尊像を本尊とする浄土宗の寺であるが、左脇檀に「弥陀次郎像」、右脇檀に「近衛兼経の位牌」がある。弥陀次郎像はこの地に伝わる弥陀次郎伝説(光明寺釈迦堂参照)に由来すると思われる。近衛兼経は近衛家から分かれた鷹司家(1252)の祖で、晩年は出家してこの地(岡谷)に住み岡谷殿と呼ばれた。この屋敷跡が西方寺で、境内に近衛兼経の傘卒塔婆の石塔がある。またこの地は、南山城最大と云われる古墳「二子塚古墳」の跡で、石室の一部と思われる巨大な石材が西方寺の庭園に置かれている。

■万福寺 明の僧・隠元開基の黄檗宗の大本山
 隠元は永応3年(1654)に弟子20人と共に来朝。後水尾天皇(在位1611〜1629)の生母前子(関白近衛前久の娘)に仕えていた文英尼の帰依をうけ、文英尼より公卿の信任を得て、前子の宇治別邸の地を与えられ一宇を建立したのが万福寺の起こりである。法式は現在も総て中国式で、境内の建物は大体左右対称となり整然としている。雄大な中国の寺院が連想され、ゆっくりと時間をかけての拝観が望まれる。