■引接寺(千本閻魔堂) 上京区閻魔前町
 小野篁の開基で、定朝作と伝える閻魔王を本尊とし、俗に千本閻魔堂と呼ばれている。境内の狂言堂で毎年五月下旬に大念仏狂言が行われ、京都の代表的な年中行事となっている。観音堂は精霊堂ともいわれ、毎年八月九、十の両日、盂蘭盆の六道会が行われ精霊迎えをする人で賑わう。境内に多層石塔の紫式部供養塔(重文)がある。





                          
■上品蓮台寺 紫野十二坊町
 一般に十二坊と呼ばれている。延命地蔵菩薩を本尊とする。寺宝に日本絵画史の第一頁を飾る「紙本着色過去因果経・国宝」を有する。聖徳太子が自作の地蔵菩薩を安置して開創したと伝えられ、初めは香隆寺と号した。応仁の乱で焼失したが、まもなく再興され、子院十二院を建てた。このため十二坊の通称がうまれたが、現在は三坊を残すのみである。仏師定朝の墓がある。
■船岡山・建勲神社
 船岡山は標高112m。桓武天皇は平安京造営にあたり、この山上からの南面する平地を眺め都の構想をめぐらしたと思われる。都の南北の中心、朱雀大路の北端に位置し平安京の玄武として造営の基準となった。枕草子に丘の一番と詠われ、源氏物語・徒然草にも景勝地と記されている。後には葬送の地となり、更に度々戦場となり、応仁の乱(1467〜1477)には西軍山名氏が城壁を築き戦った。船岡山の中腹に、織田信長・信忠父子を祀る建勲神社がある。
■今宮神社 紫野今宮町
 平安建都(794)以前から、疫病を鎮める疫神を祀った神社である。一条天皇(在位986〜1011)の頃、疫病が大流行し洛中洛外の通りから人影が消えたと云う。そこで朝廷はこの神社に古くから祀られていた疫神を神輿に奉安して船岡山に安置、悪疫退散を祈った。京中の老若男女もこぞって船岡山に登り、供え物を神輿に奉げ、唄い踊って疫病退散を願ったと言う。これが今も続く「今宮祭」の起こりである。
■大徳寺 紫野大徳寺町
 豊臣秀吉が織田信長の葬儀をこの寺で行い(1582)、信長の菩提寺として塔頭総見院を建立。これを契機に諸大名も塔頭を次々に建立、数奇者の参禅も多く、22塔頭、46茶室を数えるに至った。山門(金毛閣)にまつわる歴史上の事件として、千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられたことの発端になったことでも有名である。
■雲林院 紫野雲林院町 
 中世までは今の大徳寺境内付近にあり、前身は淳和天皇(在位823〜833)の離宮紫野院で、仁明天皇(在位833〜850)の皇子常康親王が千手観音を安置し雲林院と改称された。平安中期から鎌倉時代にかけて念仏堂で菩提講が修され、それが「大鏡」の舞台になったことは有名である。西行は「是やきく雲の林の寺ならん花をたづぬる心休めん」と詠み、花の名所であったことがしのばれる。
■常盤井址 紫野下築山町 
 都の名水七井の一つと云われ、常盤御前が用いた井戸と伝わる。御前は源義朝の間に三子(今若・乙若・牛若)があり、この近く(大徳寺北)に紫竹牛若町・牛若通などの地名が今も残っている。
■玄武神社 紫野雲林町
 平安京を守る四神、玄武(北)、青竜(東)、朱雀(南)、白虎(西)の玄武神を祀った神社であったと考えられるが、この社は「亀の宮」とも呼び現在は文徳天皇の第一皇子である不運の惟喬親王を祭祀する。
■小野篁の墓 上記に同じ
 なぜか紫式部の墓と併存している。小野篁は平安前期、左大臣、遣唐副使まで勤めた公卿であるが、夜は冥府に赴き閻魔大王の忠実な役人?であったとの逸話が有名である。嘘偽りを集めて源氏物語を作り人々を惑わした罪のため、地獄で苦しんでいる紫式部を救出するために、閻魔大王に顔の効く小野篁を招請したのであろうか。
紫式部の墓 紫野西御所田町
 紫式部の名前由来は、この地、紫野雲林院に閑居したからとも言う。このお墓は工場の間に閉じ込められ忘れられかけていたが、近所有志の人や洛陽ライオンズクラブの手で整備され顕彰碑が建てられた。初めに彼女が住んでいた所は、現在の寺町通今出川あたりと云われ盧山寺に邸宅跡の碑がある。大徳寺大慈院にも紫式部の碑、大徳寺真珠庵に紫式部産湯の井が、さらに今回ウォークの最後に訪ねる千本閻魔堂には紫式部供養塔がある。
平安京の起点
船岡山・紫野周辺を歩く


紫野周辺は平安京建設当時から、都の北辺として数々の史跡があり
特に船岡山は平安京の中心である朱雀大路建設の起点として重要な意味を持ち
また、大徳寺や今宮神社など歴史的にも興味のある神社・仏閣があります。
今回はこの由緒ある紫野周辺を訪ねます。