GuestBookSearchE-listAvenuesSilkRoad-DesertGo to Top

 

第33回歴史ウォーク(平成14年10月13日)


 瑞光院
  赤穂義士の遺髪塔で知られる瑞光院は,慶長18年(1613)に元は堀川通鞍馬口に建立された寺である。赤穂義士の遺髪塔は,浅野内匠頭(浅野長短)の妻の瑤泉院が山崎家の出身であったことと,2代目住職が瑤泉院の叔父であったことから,江戸の泉岳寺より赤穂義士たちの遺髪をもらい受けて供養塔としたものという。
 境内には浅野長短の墓もある。浅野家断絶後に大石内蔵助が京都山科に移り住み,当寺に主君の墓を建てたといわれている。義士の墓もあるが,これは後日追善供養のために建てられたものである。
 今年は赤穂浪士の討ち入りから丁度300年
といわれ,境内に大石良雄の歌碑「とも角に 思いははるゝ身の上に しばし迷いの雲とてもなし」が討ち入り後の浪士たちの心情を今に伝える。


 毘沙門堂
 
天台宗の寺で護法山と号し,奈良時代の大宝3年(703)に文武天皇の勅願で,行基菩薩によって開かれたといわれている。
 平安京になると,現御所北側の出雲大路にあったので出雲寺とも呼ばれていた。最澄が比叡山根本中堂の本尊・薬師如来が彫られた余り木で彫った毘沙門天像を当寺に安置して本尊としたので毘沙門堂と呼ばれるようになったという。
 その後平治の乱(1159)の兵火で岩倉に移ったのを皮切りに,400年もの間各地を転々とし,江戸時代の初期に現在地に移ってきた。
 寛文5年(1665),亡き後陽成天皇の願いから公海大僧正(天海僧正の弟子)が将軍家綱などの援助を得て再興する。仁王門は,寛文5年(1665)の再興で,切妻造りの本瓦葺きであり,
正面の本殿は,漆塗,壁には万年甲羅の麒麟が彫刻されている。唐門にも象や獅子の彫刻があり,いずれも江戸時代初期の代表的建物として近世の門跡寺院の景観を今に伝える
 またシダレサクラは壮観で樹齢100有余年を超えるといわれる大木であり,別名『毘沙門シダレ』と呼ばれている。現在のサクラは5代目だという。



 
安祥寺
 
文徳天皇の母である藤原順子(藤原冬嗣の娘)を発願者として9世紀の中頃に出来たお寺で,吉祥山と号す。真言宗の大覚寺派と並び,小野流の発祥地で早くから国の手厚い保護をうけており,寺地も大変広かったが,中世の頃には建物は兵火で焼失し,仏像なども多くが失われてしまった。伝来の五智如来像は,寺が創建された嘉祥元年(848)頃のもので,現在京都博物館に保管されている。
 現在の本堂は江戸時代のもので,中には優美な十一面観音像が安置されているが非公開となっている。再
興された当時は上寺と下寺に分かれていたらしいが,上寺は早くに廃絶してしまっていて,現在残っているのは下寺の一部だけである。


 当麻寺
 浄土宗西山禅林寺派(永観堂)で弘誓山 当麻寺という。天福2年(1234)法然の弟子,西山証空上人によって創建された。通称山科大仏と呼ばれる,府指定の丈六(身上6尺で約3メートル)は鎌倉時代の作といわれ寄木造り,非公開のためか漆及び金箔等の装飾が残っている。
 また寺宝の絵巻物,当麻曼荼羅は,浄土変相図をあらわしており,文化財等の指定は受けていないものの500年ほど前のものといわれ,貴重なものである。



 
五条別れ道標(御陵中内町)市登録史跡
 
宝永4年(1707)に沢村道範により建てられた道標で,東海道と渋谷越(現五条東山トンネル付近)から五条大橋へと分岐する三叉路五条別れに300年に渡り佇む。
 この三叉路を左へ行くと五条大橋で,そこから東西六条(本願寺)大仏,今熊,清水と示されていて,当時京都大仏は健在で観光名所だったことが伺えるが,相次ぐ火災等のためか現在は国立博物館などの官庁建物となっている。
 開発著しい山科地域だが,この付近には街道筋の風情が残り,出窓や虫子窓の町家も点在している。五条別れは,東海道と別れ,渋谷から馬町を経て五条,清水,本願寺とうへの近道であった。 五条別れの旧渋谷交差にも小さな道標が道標忘れられたように傾き,すぐ大つ道,いまくまのミち,東六条道と旅人を誘う。



 
牛若丸腰掛石
 
地下鉄東西線蹴上駅からすぐ北側に疏水合流点があり,風光明媚な公園となっている。ここで吉次と奥州へ向かう義経は,騎馬武者の一群関原与一らに泥水を蹴り掛けられたことから争いとなり,義経は彼らの9人を切り捨てるが,自己の短慮を戒めた義経は後年ここに釈迦如来地蔵を安置した。この事件からこの地を「蹴上げ」という説もある。
 蹴上から東海道を下った義経一行は,山科の地で血のついた刀を洗ったといわれ,今でも血洗という町名が残る。また一息ついた義経が腰を掛けたといわれる石が京都薬科大学グランドに注連縄に囲まれて残る。

☆ 渋谷街道西野道道標 蓮如上人御往生旧地二丁 寛政9年(1797)再建 から南へ


 
西宗寺(西本願寺派)
 
足利尊氏の家臣であった海老名氏は,所領を得て山科西野に土着した。頭首の忠信五郎左衛門は,浄土真宗に帰依して,蓮如上人に土地を寄進,蓮如は文明12年(1480)ここに御影堂を建立,大津三井寺から御真影(親鸞画像)を移し,山科本願寺が発足する。
 五郎左衛門は,蓮如から法名「浄乗」を下され,西宗寺住職となる。後に大坂石山で隠居していた蓮如は,明応7年(1498)4月病気がちとなり,山科帰郷を望む蓮如のために浄乗は,翌年子の祐信を大坂に遣わし山科に迎える。翌年親鸞上人の御影に暇乞いした後,蓮如は3月25日この地で波瀾に満ちた人生の終焉を迎える

 蓮如は往生でのエピソードとして,放鶯(ほうおう)の御影,吉野桜の見物,愛馬との暇乞いなど多くの伝説を残す。


 山科本願寺寺内町・土塁堀跡
宗祖親鸞が弘長2年(1262)に没し,東山大谷に葬られた。親鸞の娘の覚信尼や門弟は,吉水(現知恩院山門の北付近)に六角形の草堂を建て,木像を安置した。これが大谷本廟で,本願寺の起源となる。
 
蓮如は,微衰した本願寺で困窮のうちに成長し,長禄元年(1457)第8世宗主を次ぎ,近江を中心に近畿で活発な布教活動を展開したため,比叡山の反感を買い,寛正6年(1465)本願寺は破壊される。しかし,北陸吉崎を中心に活動を展開した浄土真宗は,蓮如の基に大教団へと成長し,吉崎を去り淀川の出口(枚方付近)に暮らした後,文明10年(1478)山科に本願寺建設に着手した。
 土塁や堀をめぐらし,入り口の門付近には凹部等の工夫を凝らした防御機能を備えていた。このような防御機能を駆使した平城が武士の手で築城されるのは後年のことであり,このことから門徒衆は,石垣,建築,製錬等に関する築城技術を持っていた集団といえる。

山科本願寺は,計画的に構築された都市として定着した最初の寺内町といわれ,構造が「御本寺」「内寺内家中」「外寺内」の三重構造から成り立ち,中心の「御本寺」を守る構造となっていた。
 寺内町の外側は,土塁と濠で守られており,櫓も設けられていた。今も寺内北側の東海道の往来が見える地には,「様子見町」の名が残る。
 山科の地は,北陸門徒宗と京都との結節点でもあり,南下すれば奈良,河内へと通じ,山科川から木津川,淀川と水運にも優れており,門徒衆の力を結集させて文明15年(1483)最後に阿弥陀堂瓦葺が完成した。
 戦国時代に荒れ放題の京都に比べて,山科寺内町は「荘厳で仏国のごとし」と繁栄する。

しかし,長亨2年(1488)加賀では守護職を滅ぼし,「百姓の持ちたる国」として次第に戦闘的集団となり,一向一揆の指導,戦国の雄となる。こうして天文元年(1532)8月6日,六角貞頼,法華宗徒ら3〜4万の攻撃に焼滅させられた。難を逃れた証如は,石山に移りその後,大阪を本拠に石山本願寺とするのである。

 蓮如上人御廟所
 
蓮如は,京都,近江を追われ文明3年(1471)越前に吉崎御坊を開くや,農民達の支持を得る。また「御文」(御文章)という平易な言葉によって教義を説いた。その後,山科本願寺や大坂の石山本願寺を造営,本尊などの下付によって,地方の有力寺院を傘下に収め,本願寺教団を統制した。
 蓮如は,5人の女房を持ち,27人の子をもうけて,評価は様々だが,若くして実母との離別,継母との確執,困窮,妻子との死別,延暦寺からの迫害等にも挫けることなく戦乱の世に弱者たる悪人救済に全力を挙げた手腕は極めて客観的で,彼の生きた時代では親鸞や日蓮のように画一的では大成しなかったことだろう。お文(御文章),女姓の救済等の柔軟性も彼の魅力のひとつだが,きわめて明るく,前向きでいて人間くさく,宗教家らしくない性格が,彼の一番の魅力ではなかったかと思う。
エピソードとして堂内の上下壇を取り外し,門徒と平座で向かい合う。参拝の門徒に酒を出す。伝導の旅による草鞋の傷跡など枚挙に暇がない。
 親鸞の時代は,門弟100人程度の念仏集団だったが,蓮如以降,現在では10派合わせて,寺院21,000,僧侶45,000人門信徒1,300万人の大教団である。

 東本願寺別院
 
真宗大谷派の山科別院は,長福寺といい,東本願寺第17世真如が享保17年(1732)再興した。東西の山科別院は,蓮如の墓参に訪れる人々の休憩場所としても多いに利用される。
 平成11年(1999)の500年忌には,東西別院から上人の御廟への墓参者で細道が混乱したという。昭和24年(1949)の450年忌には,交通事情も悪かったため別院敷地内ゴザ上で野宿した者も多数あったという。
☆ 東本願寺
 真宗大谷派本山。文禄元年(1592)第11世顕如は没し,長男の教如が継職したが,翌年弟の准如にその職を譲った。しかし,慶長7年(1602)教如は,徳川家康から土地の寄進を受け東本願寺を別建した。



 
元蓮如上人像
 東西別院の中間に蓮如上人の銅像があった。昭和9年9月の完成で,終戦末期には供出されたので約10年の期間であったが,東西別院と御廟所の関係でこの地点に設けられた。建立者は江戸時代の由比小雪の子孫(卯三郎氏)といわれ,黒岩淡哉作,高村光雲顧問であった。いまは土台の石塔北裏に刻銘されたプレートがわずかに往時を偲ばせる。



 
西本願寺別院
 
山科別院舞楽寺と称し,山科西御坊ともいわれる。享保17年(1732)第15世門主の住如が,北山別院の旧堂を移して再興したものである。東別院の墓地には第9世実如,第10世証如の墓がある。実如は,本願寺9世で蓮如の第8子。実直な実如は,蓮如の遺言を護り大教団の統制,充実を図った。証如は,実如の孫にあたり,10歳で本願寺十世となる。天文元年の山科本願寺焼失時には九死に一生を得,以後石山本願寺に移り,門徒をもって戦国大名的な指導者となる。

☆ 西本願寺
 浄土真宗本願寺派本山。石山本願寺は,中国攻めの拠点として織田信長から移転を求められるが,第11世顕如はこれを拒否,諸国の門徒を結集,反信長の諸大名とも連携して,元亀元年(1570)からと死闘を繰り返す。天正8年(1580)朝廷の斡旋により講和,顕如らは,石山本願寺を退去し,紀州鷺森に移った。天正19年(1591)豊臣秀吉により七条堀川に土地を与えられ京都に帰還した。


 御指図井戸「蓮如上人 お指図の井」
 
昔より音羽の里に行基菩薩の故事があり井戸水が出ない伝説がありました。延徳元年(1489)蓮如上人南殿ご隠居の折,弟子龍玄を従えて御座され,お杖にてお指図になったので人々不審ながら堀さげますと,清水がこんこんと湧き出し,この音羽の里唯一の用水になったと言われています。これによって偏執の人々も少なくなり,里人もすべて真宗門徒になったと伝えられています。


 
山科本願寺 南殿跡(光照寺)
 
南殿は惜しくも戦国の兵火により焼失しましたが、天文元年(1536)光称寺(現 光照寺)がその故地に建立され現在に至っています。幸い現南殿幼稚園の南に,濠,築地,園地持仏堂,山水亭,門等の南殿跡の遺構が良好に残っており,当時の南殿の庭園や建物配地の様子がよく分かる室町中期の貴重な遺跡です。
 南殿は,山科本願寺の東側に位置するが,初期の大谷本廟のあった本願寺に由来する名称である。