乙訓寺
今はボタンの寺として有名ですが、由緒は古く推古天皇の勅願で聖徳太子の創建と寺伝にあります。近年の発掘調査で奈良時代の遺構・遺物が多数発見され、太秦の広隆寺とほぼ同じころの創建であることが裏づけされました。
 延暦4年(785)桓武天皇の長岡京造営の責任者だった藤原種継の暗殺事件に連座した疑いをかけられた早良親王が、淡路に配流される前、当寺に一時幽閉されていました。

また弘仁2年(811)、唐から帰国した空海がしばらく当寺の別当をつとめていました。そのとき最澄も当寺に空海を訪ね、仏教論を交わしたと云われています。
 さらに昌泰2年(899)、宇多法皇が出家のはじめ、当寺を行宮とされたことから一に「法皇寺」とも称される。永禄年代(1558〜70)兵火により焼失衰微したが、元禄6年(1693)徳川桂昌院の援助で再興された。


光明寺
西山浄土宗の総本山で、世に「粟生光明寺」と称し、法然上人の廟所のある寺として浄土宗院中、最も重んじられています。法然上人の遺骸は、はじめ、東山大谷に埋葬されていたが、入滅16年後に、太秦西光寺をへて当地で火葬し、遺骨を二分して一つを当山に納めて宗廟を築いた。このとき上人の石棺から光明を放ったので光明寺と名づけたという。
この地は、法然の徒弟熊谷蓮生が建久9年(1198)、法然の修業時代に過した粟生の地に一宇の草庵をむすび「念仏三昧院」と号して浄土往生をひろめた所で、のちに証空上人が入寺するにおよんで浄土宗西山派の根本道場となった。


熊谷蓮生
平家物語に登場する源氏の武将「熊谷次郎直実」。熊谷次郎直実は寿永3年(1184)一の谷の合戦で平敦盛(16才)を討ち、我が子と同じ若者を殺した無情を悔やみ、吉水の御庵室に法然上人を訪ねて有難い教えを受け、直ちに弟子となって、法力房蓮生と名づけられた。後に念仏三昧で余生を送りたい念願から、この粟生の地に寺を建て、堅田の浮御堂の阿弥陀如来像を迎えて本尊とした。この時、法然上人より「念仏三昧院」の寺号を頂いた。これが光明寺の前身である。





釈迦堂
堂内に安置する釈迦如来立像は、世に「類焼如来」といわれ頬に焼け火箸で焼かれた傷跡が残っている。この類焼如来にまつわる伝説が、巨椋池ほとりの安養寺や西方寺などに「弥陀次郎伝説」として残っている。巨椋池の一口の里に、行いの悪い漁師がいた。ある日、托鉢の僧が訪れたが、焼け火箸を額にあて追い払った。僧は怒ることもなく去っていった。後をつけて行くと、粟生の光明寺に入ったが、中に僧の姿はなく、釈迦如来像の頬に焼け火箸の跡があったと言う。





八条ケ池
長岡天満宮境内の東に広がる池。寛永15年(1638)、当地を所領していた八条宮智仁親王によって築かれた灌漑用のため池。池畔には四季の花が多く、中でも中堤の「霧島つつじ」は濃紅の花を咲かせ圧巻で市の天然記念物になっている。






長岡天満宮
菅原道真を祭神とする。道真は、かってこの地で在原業平らとしばしば遊び、詩歌管弦を楽しんだという。左遷され大宰府へ向かう途中、この地に立ち寄り名残を惜しんだという。
社伝によると、昌泰4年(901)道真とともに筑紫の配所に随行した近臣中小路祐房等が道真没後、道真自作の像と念持仏を拝領し、この地に創祀したのが当社の起こりである。
応仁の乱で焼失したが、社殿を再建し中世以降も中小路家が社家として奉祀されていたことが想像される。
江戸時代には八条宮(桂宮)家の所領地となり、宮家の崇敬を受けて延宝4年(1676)に社殿を改築し、霊元天皇より震筆の勅額を賜った。現在の本殿は、昭和16年に平安神宮の社殿を移築したものである。


竹の里・長岡京市の周辺史跡を訪ねて

・・・非運の人々を偲びつつ・・・

久し振りに京都市内を出て、長岡京市の乙訓寺
・長岡天神・粟生光明寺を訪ねます。
非運の早良皇太子が幽閉された乙訓寺
菅原道真ゆかりの長岡天満宮
法然上人が念仏の教えを最初に説いた
「浄土門根元地」光明寺を訪ねます。