白峰神社
 祭神は崇徳天皇と淳仁天皇で、明治天皇が父孝明天皇の意思を継いで創建した神社。崇徳天皇は保元の乱で敗れ讃岐に流され、淳仁天皇は恵美押勝の乱で廃帝とされ淡路に流された非運の天皇である。この地は和歌や蹴鞠を家業とした飛鳥井家の屋敷址であったが、明治初年に白峰神社が造営されるにあたって寄進された。境内の地主神社は「鞠精」大明神を祀り、球技の神として知られ、最近ではサッカー関係者の参詣が多くなっているとのこと。



本阿弥光悦京屋敷跡
 
寛永京絵図に「本阿弥の辻子」と称し、油小路をはさんで西側に本宅、東側に分家の光悦の旧宅があった。鷹峰に移るまで居住していた。本阿弥家は元々、刀剣の鑑定や研ぎ拭い業とした家柄で、足利氏が滅ぶと織田信長に仕え、次いで豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。


元誓願寺通・慶長天主堂跡
 
誓願寺は奈良で創建され平安遷都とともに転々とし、鎌倉時代後期に深草からこの地に落ち着き浄土宗となった。秀吉の京都大改造で聚楽第を中心に、その周辺である油小路をはさむ一体を大名屋敷とするため、誓願寺も現在の新京極に移されたが、通り名は今も、元誓願寺通として残っている。
 この元誓願寺通を少し西に入った所に「慶長天主堂跡」の碑が立っている。「吉利支丹物語」や「薙州府誌」にもこの地にあったという記録があり、この地にキリシタン寺院があったと思われる。
 
戒光寺町・革堂西町・元百万辺町
 油小路通を下ると戒光寺町・革堂西町・元百万辺町と続く。
現在の戒光寺(東山の泉湧寺山内)、革堂(丸太町通寺町下ルの行願寺)、今出川東大路百万辺の知恩寺は元この地にあったので町名として残っている。

樂吉左衛門邸
 
油小路一条を下ると西側に、樂美術館(千家十職・樂吉左衛門邸)がある。先代長次郎が秀吉の命で千利休の指導を受けて茶碗を焼いたのが始まり。その時に秀吉から「樂」の印を貰ったことから姓とする。今も掛かる暖簾の墨書「樂 御ちゃわん屋」は本阿弥光悦の筆で、代々当主が代わる毎に新調される。




中立売・上長者町通
 
油小路を中立売から下長者町通りまで下る。この当たりは因幡池田屋敷、柳川立花屋敷、仙台伊達屋敷があった所である。


里村紹巴宅址
 
油小路下長者町通を少し西に入ると南に「里村紹巴宅址」の石碑がある。里村紹巴は文禄年間(1592〜1596)の秀吉お抱えの連歌氏である。愛宕山での明智光秀との連歌会で有名な「時は今 雨が下しる 五月哉」の下の句「花落つる 流れの末を せきとめて」をつくり秀吉から疑われる。

古義堂・伊藤仁斎屋敷
 
出水通を西に曲がり堀川通を下ると古義堂がある。伊藤仁斎(1627〜1705)が古義学を教えた学問所である。宝永の大火(1673)で焼失し、現在の建物は明治23年に再建されたものであるが、土蔵造り二階建書庫は仁斎在世当時の建物である。

並河天民講学所址
 古義堂を過ぎ堀川通を下がると丸太町通手前に、伊藤仁斎の門人・並河天民(1679〜1918)の講学所「堀木之舎」址の石碑がある。

高陽院(かやのいん)址
 丸太町通を再び油小路までもどる。このあたり桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅があり、のちに関白左大臣頼道が伝領し、壮麗な邸宅に拡張されたという。後冷泉天皇が遷御(1053)して以来、歴代天皇の里内裏、院御所として使用された。後鳥羽上皇を中心とする承久の謀議は当院でなされたという。

竹屋町通・夷川通・二条通・押小路通
 
油小路通を押小路までさがる。夷川通の南西あたり、姫路潘酒井屋敷址である。二条通の西南、今の国際ホテルと全日空ホテルあたり、平安時代には堀川天皇の里内裏(堀川院)があり、徳川になり越前福井潘松平屋敷や橋本左内の屋敷があったところである。押小路通の西南、今の城巽中学あたりは家康・秀忠・家光の三代に仕え徳川幕府の基礎を固めた幕臣土井利勝の屋敷址である。


秀吉・妙顕寺城址
 押小路通を東に入ると北側に妙顕寺城址の駒札がある。秀吉は本能寺の変後、一年余り天王山の城で天下取りのための政治工作後、当地にあった妙顕寺を移転させ、周囲に堀を備えた城郭を造り秀吉の京都における居館とした。聚楽第が完成するまで京都の政治の中心として存在した。現在も古城町という地名が残る。




閑院址・東三条殿址・高松殿址
 
押小路から西洞院通を蛸薬師通まで下がる。この当り平安時代に閑院、東三条殿、高松殿があった。藤原冬継邸に始まり、当時の歴代天皇の里内裏になったり、保元の乱の舞台にもなった所である。

柳水町・織田信雄屋敷址
 
信長の次男・織田信雄は大阪冬の陣で、大阪城を脱出して豊臣軍の情報を徳川軍に提供した。大阪城落城後は五万石を与えられたが、領土は息子に譲り、自身は京都で余生を過ごしたと言う。ここはその屋敷址で、名水が湧く井戸があり、そばに柳が植えられていた。その由来から柳水町として今にのこる。








元本能寺址
 
西洞院通蛸薬師通を西に入ると、一筋目南角に元本能寺の石碑がある。天正10年6月2日の末明、明智光秀の襲撃を受けて、信長以下百数拾名が討ち死にした本能寺のあった所である。町名が元本能寺町として今にのこる。

空也極楽院
 
蛸薬師通を西に進み油小路を少し越えたところに空也堂がある。空也に帰依した平定盛が創建、もと洛北鞍馬にあったと伝わる。空也は市中をまわり念仏を広め、市聖と呼ばれた。晩年は西光寺(現六波羅蜜寺)を建て、そこで没した。






閑院址・東三条殿址・高松殿址
 
空也堂の西隣に藤堂稲荷がある。ここはもと古田織部の屋敷があったと伝わるが、のち藤堂高虎が屋敷を構え、その一部が藤堂稲荷として今に残っている。

野口家・花洛庵

 油小路通を下がり、錦小路通をすぎると西側に野口家がある。享保18年(1733)に現在地で呉服商を創業したのが始まり、蛤御門の変で焼失したが直ちに再建されて現在に至る。明治4年に伏見桃山にあった小堀遠州屋敷から書院と茶室を譲り受け改築された。室内の欄間や釘隠しなど貴重な物が多く残されている。






久留米潘有馬屋敷址・犬山潘成瀬屋敷址
 油小路を下がると四条通を挟んで北東に有馬屋敷、南東に成瀬屋敷があった。有馬家は摂津の国有馬郷の地頭職から秀吉に仕えたが、関ヶ原の戦いから徳川に属し、三田、横須賀、福知山を経て筑後久留米21万石で明治に至る、真木和泉の出身潘である。成瀬家は三河の土豪から家康に仕え、関ヶ原の戦等の戦勲で大名になった。家康の9男義直の養育係りとなったことから、尾張潘付家老として尾張直義に仕えた。

管大臣社
 油小路通仏光寺通を東に進み西洞院通を過ぎると、北に紅梅殿、南に管大臣社がある。菅原道真の生地、管家学問所址と云われる。大宰府に左遷された時に歌った「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」は、ここ紅梅殿であったと言う。道真産湯の井戸も残っている。





五条天神社
 管大臣社を出て、高辻通西洞院通を松原通まで下ると西南角に五条天神社がある。社伝によると平安遷都とともに大和宇陀から移ってきたと言う。元の名は「天使の宮」として崇められていたが、後鳥羽天皇により「五条天神社」と勅称された。義経記には義経と弁慶がこの神社の境内で出会ったことが書かれている。
園部潘小出屋敷址
 五条天神社から松原通を西に、油小路通に戻るとこの辺り、小出屋敷址である。信濃伊那の土豪から身を起こし、秀吉に仕えた。岸和田城主を勤めたのち、但馬出石を経て、丹波園部三万石の城主となり幕末まで続く。

山本亡洋邸
 江戸後期の本草学者。勤皇家でもあり、講堂を設けて儒学をおしえ、幕末の志士、田中河内介などを養成するとともに、有用な薬草を研究して本草学を大成した。今もこの地に続いている。










豊臣秀吉は政権を握ると京都の大改造を始めた
中心部の寺院を移転し、そのあとに聚楽第と大名屋敷を築き
さらにその周囲を「お土居」で囲んで城砦都市とした
家康も中心部に二条城を築城して万一に備えた
京都の町並みや道筋は、多少の変化はあったが
幕末までその当時のままで存続した
今回はその道筋に残る史跡や屋敷跡を
油小路を中心に白峰神宮から五条まで歩きます



秀吉・家康の史跡を訪ねて
    政権都市京都大改造の跡