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洛水のほとり王朝文化の残影を訪ねて

鴨川と桂川に挟まれた洛南の地は平安朝末期、鳥羽離宮が造営され
貴族たちの遊園の地として王朝文化の花を咲かせました。
今その面影は、わずか安楽寿院とその周辺の御陵をのこすのみですが
いにしえの栄華の残影を訪ねて、平安貴族の文化を探ります。


鳥羽離宮と安樂寿院                            
平安時代の鳥羽離宮は、現城南宮を中心に東西1.5Km、南北1Kmぐらいの広さであったと思われる。平安時代初期の頃は水郷で、平安京がやや安定したころ、この風光明媚の地に平安貴族達の山荘や別宅が建ちだした。
そして応徳3年(1086)、白河天皇がこの地に離宮を造営した。堀河天皇に譲位後、白河上皇はこの離宮に仙洞されて南殿・馬場殿に加え北殿が増築された。堀河天皇崩御により即位した鳥羽天皇も譲位後は、この地に御座所(東殿)を建立して、無量寿仏三尊を安置した。これが、唯一現存する安樂寿院の始まりである。



三宝荒神祠
安樂寿院太子堂の西にあり、慶長11年の伏見大地震のあと、御塔再建の時、火難を防ぐため三宝荒神を勧請した。眼病平癒祈願の信仰あり、「眼病荒神」の別名があり参拝者も多い。





三尊石仏
三宝荒神祠の前の小屋(?)に置かれていて、やゝみすぼらしいが観光雑誌によく写真が紹介されている。釈迦三尊と薬師三尊が安置されている。この石仏は享保年間に近くで発掘された三面の内の二面で、もう一面の弥陀三尊は京都国立博物館に保管されている。この石仏は藤原時代の貴重なもので松香石で創られている。


近衛天皇安樂寿院南陵
近衛天皇(鳥羽天皇の第八皇子)の在位14年間(1141〜1155)は平清盛台頭の将に政争の時代である。近衛天皇はこれらの心労で眼病を患い、17歳で崩御された。遺体は船岡山西野で火葬、遺骨は紫野知足院に安置、8年後の長寛元年(1163)この地に埋葬された。
御陵建物は応仁の乱そのたの戦火で数度焼失したが、豊臣秀頼が片桐且元に命じ再建(1606)され現在に至る。






鳥羽天皇安樂寿院陵
鳥羽天皇は堀河天皇の第一皇子。即位した時(1107)は祖父白河上皇の院政下にあり、上皇の没(1129)後は崇徳・近衛・後白河の三代28年にわたり院政を行い、保元3年(1158)に鳥羽殿の安樂寿院で没した。
碁盤の梅
鳥羽天皇陵の中にあり「八房の梅」とも云われる。鳥羽天皇の時代、役人の気風が乱れて、囲碁遊びに夢中になり、役人道刷新のため碁盤を全部取り上げ、ここに埋め、その上に梅ノ木を植えたと伝わる。
冠石
鳥羽天皇が法王になった時(1141)、この石の下に冠を埋めたと伝わる。


五輪石塔
「如法経塚」と呼ばれ、鳥羽上皇が如法経を埋めたと云われている。弘安10年(1287)の銘が刻まれている。実際は当時の阿弥陀信仰による供養塔と思われる。弘安の年は元軍の来襲があったり、大覚寺と持明院の対立があったりと、変化の大きかった時代である。鎌倉時代の重文。





北向き不動尊
鳥羽上皇勅願により大治5年(1130)に建立されたと寺伝にある。一体の不動明王像を造り、王城鎮護(平安京鎮護)を願い、北向きに安置したと伝わる。応仁の乱の兵火で焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712)東山天皇の旧殿を移築したものと伝わり、本尊は興教大師作不動明王坐像が安置されている。




白河天皇成菩提院陵
後三条天皇より譲位をうけ、白河天皇は20歳で即位(1073)した。14年間在位のあと、僅か8才の堀河天皇に譲位、あと上皇として堀河・鳥羽・崇徳と三代にわたり40年以上におよんだ白河院政は、強力政権となり「賀茂川の水、双六の賽の目、比叡山の山法師」をもって天下三不如意とした。大冶4年(1129)77才で崩御。鳥羽天皇が白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮のこの地に成菩提院を建立し改葬した。


西行寺跡
西行法師が佐藤義清と称した当時、鳥羽殿の北面の武士として仕えていた頃の居宅跡と云われている。
「都名所絵図」巻五にみると、一宇の草庵のそばに、池や剃髪塔などがみえる。そのご荒廃、明治になって観音寺に合併された。

田中殿跡
鳥羽離宮のほぼ中央に位置した田中殿も、周囲を池で囲んだ宮殿で、舟着き場があり、西に寝殿、東に金剛心院が有ったようである。昭和36年より発掘調査が行われ、その実態が検証されつつある。いずれにしても鳥羽離宮の建物は、宮殿と仏舎が組み合わせて造営されている。現在、田中殿跡付近は田中殿公園として整備されている。


城南宮
社伝によれば、神功皇后が朝鮮半島出兵時の勝利の御旗を奉斎したのがこの神社の起こりと伝える。そのご桓武天皇が平安遷都にさいし王城の南の守護神とした。さらに後になって、この地に鳥羽離宮が造営されると離宮の一角に組み込まれるようになった。
応仁の乱(1467〜1477)で離宮は荒廃、城南宮のみが残った。







鳥羽離宮跡公園
この公園の北側に古墳のような小山がある。これが、もと鳥羽離宮内にあった庭園の築山で、四季になぞらえた四つの一つ「秋の山」と云われる。近年の発掘調査で鳥羽南殿、離宮西北部に当たる事が判明された。付近一帯を整備し鳥羽離宮跡公園としている。




赤池と恋塚寺
遠藤盛遠(のちの文覚上人)が上西門院(後白河法皇の姉)に仕えた北面の武士であったころ、同僚の渡辺渡の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫の渡辺渡を殺すつもりで侵入したが、身代わりとなった袈裟御前を切ってしまった。その太刀を、この付近の小池で洗ったところ、たちまち池の水が赤く染まったので「赤池」と呼ばれるようになったと云う。この付近国道一号線赤池交差点。
そのため遠藤盛遠は出家して、全国を荒行脚、真言宗の僧となり文覚と名乗り、赤池の地に墓を作り恋塚と称し一宇を建てたのがこの寺の興りという。





法傳寺
薬師堂にある薬師如来坐像・阿弥陀如来立像・四天王立像は何れも平安中期のもので、鳥羽離宮の鳥羽殿にあったものと伝わる。
門北側に鳥羽伏見戦(慶応4年1月3日)の東軍戦死者の慰霊塔がある。この付近は東西両軍の激戦地となり、「堤上、死骸粉粉、路を塞ぎ、行くべからざるなり」と当時の記録がある。この寺には、当時の砲弾などが保管されている。



草津の湊・魚市場跡
下鳥羽は古くは草津と云い、中世は木津・今津とも云われた。京都より西国へ向かう人々の乗船地になっており「草津の湊」と呼ばれた。保元元年(1156)讃岐国へ流された崇徳上皇、治承4年(1180)厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207)法然上人が流刑された時もこの地から乗船出発している。
そしてこの地に「魚市場跡の記念碑」が建っている。淀川・桂川・巨椋池の淡水魚、大阪湾や瀬戸内海の海産物を陸揚げして、都に運んだ集合場所となったところ、魚が走る鳥羽街道の起点となった魚市場であった。




田中神社
下鳥羽、横大路の産土神として、冶暦年間(1065)に八坂神社より、牛頭天王を勧請し、当初は上流の鳥羽郷田中に社殿があったが、天正年間(1573〜1591)この地に大洪水が発生し、現在地に神社の本殿のみが無償のまま流れ着いた。人々はこの奇跡に驚き、この地に恭しくお祀りした。

横大路
下鳥羽より南へ桂川東岸の堤防の集落。都名所絵図に「秀吉の時代、この所ひらき給いしなり、民家多し、兵庫尼崎より諸魚を運送する舟着なり。ここより毎朝京まで荷い走る。また諸国の米、大阪よりこの所に送るによって米問屋多し」とある。

以上、近鉄竹田駅(地下鉄竹田駅)をスタートして、約3時間、距離にして約8キロメートルのコースです。帰りは国道一号線横大路交差点西南角にある市バスセンターから各方面行きのバスを利用すると便利です。