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     第29回歴史ウォーク・・・洛北支部


第29回歴史ウォークは,4月14日(日)午前9時00分金閣寺境内に集合,陽春の北山山麓を鷹ヶ峯まで史跡を巡りました。


金閣寺
 臨済宗相国寺派鹿苑寺は,もともと釈迦の骨をまつった舎利殿だったが,2・3層に金箔を施していることから「金閣寺」として親しまれており,世界文化遺産にも登録され,観光京都のシンボルとなっている。
 室町幕府の三代将軍足利義満が,600年ほど前,西園寺実永から譲り受け壮大で絢爛豪華な北山文化が花開いた。応仁の乱には,堂宇の多くを焼失する,金閣は奇跡的に焼け残ったが,昭和25年7月2日放火により焼失し,5年後に復元された。
 三島由紀夫の小説が,この事件を主題に「新潮」に連載され,美に対する人間の心理変化を告白体で描写したことから世間の注目を集めた。


左大文字・法音寺
 法音寺は,浄土宗西山派に属し第65代花山天皇の勅願所となり,西国三十三ヶ処の霊場復興の本山である。また,左大文字の送り火発祥の地である大北山の菩提寺で,毎年8月15・16日には金閣寺前の志納所で護摩木を集め,法音寺門前通の25ヶ所で門火を焚き,御先祖の霊を菩提寺へと導く。
 その火を使って16日午後8時過ぎに,左大文字の送り火に点火され,お盆の京都は五山送り火が始まるのである。


三条天皇北山陵
 金閣寺の東北,京都屈指のお屋敷街に円墳がある。三条天皇は,冷泉天皇の第二王子で,母は藤原超子である。寛幸8年(1011)即位するが,左大臣藤原道長の権勢に圧迫され,加えて眼病に悩まされ在位6年で譲位,その4ヶ月後42歳で没し,一条天皇と同じく岩陰で火葬された。


鏡石
 断層によって生じたもので,一条・三条天皇の火葬塚に面している。江戸時代の多くの名所記に残り,平安時代の紀貫之は「うば玉の我黒髪やかわるらん鏡の影に触れる白雪」と読んでいる。
また,源義経がこの石の前で衣を整えたという伝承もある。 


一条・三条天皇火葬塚
 一条天皇は,円融天皇の第一子で,藤原道長の詮子を母に生まれ寛大8年(1011)6月32才で没した。道長は娘を皇后や中宮とし朝廷にあげ,清少納言・和泉式部を宮仕えさせて摂関政治を謳歌した時代であった。一条天皇は円融天皇の傍に土葬してほしいと言われていたというが,ここで荼毘(だび)に付された後に竜安寺の北山にある円融寺北陵に移された。


紙屋川・天神川
 この川は古くからいろいろの呼称で呼ばれていた。古くは堀川に対して「西堀川」といい,大嘗祭の前に上卿以下の官人が紙屋川で荒忌(あらい)という禊(みそぎ)を行ったので荒見川ともいい,1キロほど下流に荒見という町名も残る。
水源は上の水峠東方斜面から坂尻,千束を経て南下,紙屋川から北野天神付近で天神川となり御室川を併せて南区吉祥院で桂川と合流する。


しょうざん
 明治期西陣に生まれた松山政雄が「ウールお召」で事業を拡張,この地に中原正治による作庭を行った。北庭には北山台すぎ3500本,つつじ・皐月10万本を配し,菖蒲・紫陽花園・三帖台目の聴松庵・四畳半の玉庵・酒樽茶室が散在する。
南庭は画家の榊原紫峰旧宅(松山家の住宅)鈴木松年山荘の千寿閣,また迎賓館として峰玉亭,座敷として翔鳳閣,旧銘木店離れ座敷の涌泉閣がある。
平成9年にはフランスノルマンディからファームを移設,染色ギャラリー工芸館,プールにボーリング場,飲食場も整備され複合観光産業を展開している。


史跡御土居
 天翔19年(1591)天下統一を果した豊臣秀吉は,戦乱に荒廃した京都復興を目指し街割の後,洛中洛外を隔てる土塁を23キロメートルに渡って築いた。御土居の高さは4〜6メートルで幅20〜30メートル,わずか5ヶ月で完成させたという。
御土居は外敵の来襲に備えるものであり,また鴨川や紙屋川の洪水から市街地を守る意味もあったというが,江戸時代に入ると京都市街の拡大等で消滅して,現在では国の史跡として9ヶ所が保存されている。


松野醤油店
 安土桃山の頃から居を構え,七代松野新九郎乾重は,御所に仕える傍ら文化2年(1805)醤油の醸造を手掛けた。現代も代々の製法にのっとり昔からの蔵で作り出されている。




遣迎院(けんこういん)
 元は関白九条道家が東福寺門前に建立したものが,秀吉の時代に寺町広小路に移されて,昭和29年に再度この地に移築された。この門は,秀吉水攻めで知られる岡山の備中城の門を用いる。
本堂に安置する発釈迦・来弥陀の二尊は重要文化財として知られ,鎌倉時代の快慶の作といわれる。


長坂口
 京への出入口の一つで,都と丹波を結ぶ要衝の地をしめ,古来からしばしば戦乱の場となった。
平安王朝時代真夏の頃は,氷室から早馬に揺られた貴重な氷が禁裏に運ばれた道でもある。近年に高尾から中川地域へと国道162号線が開通するまでの間,床柱で有名な北山丸太は畑の姥の頭上に載って京へと運ばれていた。


大虚山光悦寺(だいきょうさん こうえつじ)
 永禄元年(1558)生まれの本阿弥光悦は,若くして古典文化に親しみ,角倉素庵,俵屋宗達とともに「嵯峨本」を刊行する。書は寛永の三筆といわれ,茶は利休七哲の古田織部や織田有楽斎の教えを受ける。また絵画,陶芸,造園にも秀でた作品を残す。
徳川家康から鷹ガ峰の地を与えられ,一族を率いて移住して,法華宗の理想郷を目指したが,光悦の死後42年目に幕府に公収された。
光悦の没後に草庵を寺としたのが光悦寺で,参道の菱紋の敷石,光悦垣,遺愛の薄墨の手水鉢や茶室,光悦と親交のあった所司代板倉勝重,勝宗親子の供養等などがある。


清雲山(せいうんざん)・「岩戸妙見」
 承知6年(839)岩戸妙見を勧進した霊巌寺の旧跡を江戸時代始めに復興した。日蓮宗の寺で俗に北山の妙見さんという。境内中央部にある本尊は一見古墳を思わせる石室の中にある。
妙見神とは北斗七星を神格化した法華経守護神と聞く,北斗七星は延命の神といわれ,水の神とみなされる。白蛇もまた水神を象徴し,亀も川神のうち,北方の玄武神との関連が考えられる。


鷹峰山 源光庵(たかがみねさん げんこうあん)
 大徳寺二世徹翁和尚が隠居所としていたものを,元禄7年(1694)石川県大乗寺20世卍山道白禅師が再興して,曹洞宗の寺院としたもの。
本堂の廊下は,伏見城の遺構を移したものといわれ,「桃山の血天井」といわれる。まあた,本堂裏の崖下に稚児の井があり,和尚がここに草庵を結んだときに水がなくて弱っていると,一人の童が現れて,この井戸を教えてくれたという。


寂光山 常照講寺(じゃくこうざん じょうしょうこうじ)
 元和年間(1615〜1624)日乾上人が開創し,法華宗京都六壇林の一つとした。
日乾上人に帰依した天下の名妓,吉野太夫が寄進した赤門が独特のムードを醸し出している。毎年4月の「花供養」は吉野太夫を忍ぶ催しで,島原道中が見物である。
太夫は慶長11年(1606)の京生まれで,14歳で二代目吉野太夫となる。美しいばかりでなく茶,華,三味,和歌などに秀で,26歳のとき豪商の息子灰屋紹益に身請けされ結婚する。36歳で世を去るが,遺言により本堂の裏に葬られる。
明治38年歌舞伎の顔見世で「桜時雨」が大当たり,以来吉野の墓には歌舞伎役者のお参りが多い。境内の夫婦塚は片岡仁左衛門らが建立したもので,桜は吉野にちなんで植えた吉野桜だ。
また,吉野太夫好みの「吉野窓」の円窓が,東北の茶席にある。


玄琢の墓
 江戸初期の名医野間玄沢が住んでいたので,その名が残る。天上18年(1590)京都に生まれ,儒医学を納めた後25歳で朝廷の禁裏医となり,この地を拝領して薬草園を造る。
寛永3年(1626)から江戸城勤めで二代将軍秀忠,三代将軍家光の侍医もしている。その後東福門院の診察のため京に帰り,正保2年(1645)56歳で世を去る。生前本阿弥光悦とも交遊がありこの景勝地を愛して「白雲渓」と呼び大変自慢したという。
市バスの釈迦谷口前に「野間玄琢廟所」の顕彰碑が建ち,左の竹やぶの中には一族14名の墓がある。