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 琵琶湖々岸にそって、大津から石山まで旧東海道を
歩くと、秀吉の大津城跡、家康の膳所城跡、
木曽義仲が壮絶な最後を遂げた粟津浜など
今昔のうつろいを感じさせる多くの史跡に出合います

山吹塚

木曽義仲の愛妾山吹御前の供養塚。鎌倉軍に敗れて敗走する義仲を追ってここまで来た山吹御前だが、彼岸寺の境内でついに捕まり露と消える。かってここには彼岸寺という寺があり山吹御前を供養した地蔵があった。駅ができたため移転され、地蔵尊のみ残り、いつしか山吹地蔵といわれるようになった。

大津本陣跡
「明治天皇聖蹟」は東京へ行く明治天皇などが宿泊した記念碑である。
この地は江戸へ旅する最初の宿場町として、天保年間頃(19世紀前半)は、旅篭71軒、本陣・脇本陣各2軒があり繁栄したところである。慶応2年2月21日、新撰組を脱走した山南敬助は、この旅篭に潜伏しているところを、馬で追いかけてきた沖田総司に見つかり、壬生屯所へ連れ戻された。

露皇太子遭難の地(大津事件)
明治24年5月11日ロシア皇太子ニコライ・アレキサンドロウイッチと甥のギリシャ皇子ジョルジュの一行が、ここで群集警備に当っていた津田三蔵巡査に突然切りつけられた。幸い傷は浅かったが、超大国ロシアの出方がどうなるか日本政府は震撼した。近所の呉服屋の晒しを使って皇太子の傷口の止血手当てを行った。その呉服屋が最近まであったという。








大津城跡 ・湖岸なぎさ公園
豊臣秀吉が近江支配の拠点として、坂本城にかわりこの地に大津城を築城した。城主の京極高次は、関が原の前哨戦として、この城で徳川方で篭城8日間を戦い、東軍の勝利に貢献した。しかし大津城は背後に山がひかえていて防御に不利なことから家康はこの城を廃し、膳所城を築いた。今はその様子を知るなにものも残らないが、なぎさ公園として整備され、滋賀県民の憩いの場となっている。

義仲
朝日将軍として日のでの勢いだった木曽義仲も入京後、後白河法皇にまで弓を引くようになり、源頼朝は弟範頼・義経に義仲追討を命じた。寿栄3年(1184)義仲は宇治川の乱戦で敗走し、ここ粟津の松原に追い詰められた。紅一点の巴御前を落ち延びさせて、最後の戦闘を敢行し、乳母兄弟の今井兼平と壮絶な最後を遂げた。後年、近江源氏の佐々木高頼により義仲を弔う諸堂が建立された。






膳所城北総門跡

江戸期には膳所城北門と堀がこの辺りにあった。北門から城下町にかけて、東海道すじは複雑に屈曲しており、見通しのきかない町作りとなっている。今の通りにも当時の名残が偲ばれる。城下には、船町・網町などの町名や淡水魚店、町屋など、今も続いている。


法伝寺
天智3年(664)建立された天智天皇ゆかりの寺。その後、壬申の乱で敗北した大友皇子(弘文天皇)の御子である与多王が出家して住職となる。現在も入口の表札が大友姓となっているのはその縁りか。弘文天皇の御陵は、明治初期の県令によって長等山陵に確定しているが、地元の言い伝えや歴代住職の研究では寺の西側にある茶臼山が本当の御陵ではないかという説もある。



石坐神社(いわいじんじゃ)
天智天皇(中大兄皇子)・弘文天皇(大友皇子)・弘文天皇の母・開化天皇の皇子を祀る。本殿は鎌倉時代・文永3年(1266)の建築で、三間社流造の桧皮葺、祭神の四像はいずれも重要文化財。


響忍寺(こうにんじ)
長屋門は、元家老屋敷(北本田家)を譲りうけたもので、膳所城西の守りの要であった。敷地西側には今も相模川(当時は新堀川)と防塁の1部がある。いざ事が起こった場合には上流の池の水を流し、下流をせき止めて東海道を溢水させる手筈であったという。



和田神社

表門は膳所藩校遵義堂(じゅんぎどう)の門を移築したもの。本殿は流造りながら正面に唐破風がついた珍しいもの、側面の蟇股などから鎌倉後期のものと推定される。イチョウの木は樹齢600年をこえ、天然記念物に指定されている。関が原の合戦で敗退した石田三成が、京都に護送される道中、ここで小休止した時、このイチョウの木につながれたという。


膳所城跡公園
徳川家康が、関が原の合戦の翌年(1601)に京都背後の守りとして、築城の名手・藤堂高虎に命じ、八人の普請奉行をおき、諸国大名を動員した家康の天下普請の第一号の城。湖中に石垣を築いて本丸をせり出させた典型的な水城で、特徴として米倉が以外に多くその収容能力は10万表にもおよんだという。城址をとどめるものはなにも残されていないが、本丸跡が公園として整備されている。

今井兼平の墓
木曽義仲の挙兵に参加した今井四郎兼平は、義仲の乳母兄弟であった。義経軍に対して、義仲は瀬田と宇治川で防御に当ったが破られる。都落ちした義仲は、瀬田から後退してきた兼平と、打ち出の浜(義仲寺付近)で落ち合い、大軍を相手に最後の戦闘を行うが、とうとう主従二騎となり、自害すべく粟津の松原に向かうが、敵軍石田次郎為友の矢を受け討死にする。これを見た兼平も、自ら太刀を口にふくんで馬から逆さに飛び降り壮絶な最後を遂げたという。寛文7年(1667)膳所藩主・本田俊次がこの地に墓をたて、今も子孫の方達によって奉られている。