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■大井神社
秦氏が葛野川(今の大堰川)に大堰をつくってこの地方を開拓したとき、治水の神として祭った神社といわれている。現在は倉稲魂命を祭神とし、松尾大社の境外未社となっている。
■油掛地蔵 嵯峨天竜寺油掛町の辻堂に安置されている。鎌倉時代の願主平重行の銘(1310)が刻まれ、今なお御参りが絶えない。伏見の油掛地蔵とともに特異な地蔵信仰である。
■安堵碑・題目石塔婆 日蓮上人の高弟・日像上人が京都七口に建立した一つといわれる。上人が他宗の迫害を受けたとき、難を避けてこの近くの古墳にこもり、石塊に刻んだ「南無妙法蓮華経」の七文字という。
■遍照寺 嵯峨広沢西裏町にある、広沢山と号する真言宗御室派の準別格本山。平安時代中期、宇多天皇の孫・寛朝僧正が広沢の池のほとりに開山した遍照寺の名をついだ寺である。昔の遍照寺は応仁の乱で廃虚と化かしたが、奇跡的に難を逃れた「赤不動明王」「十一面観音」は重要文化財に指定され今の寺に保存されている。
■広沢の池 嵯峨富士と呼ばれる遍照寺山を背後に、前方は櫻並木の長堤に囲まれた洛西屈指の大池で、昔から観月の勝地として多くの歌に詠まれている。平安中期に寛朝僧正がこの地に、遍照寺を建立し池のほとりには釣殿や月見堂、島には観音堂など諸堂が威容を誇っていた。
■児神社 広沢の池のそばにあり、遍照寺を建立した寛朝僧正の稚児を祭神とする神社。稚児は僧正を師と仰ぎ、師のそばを片時も離れず、僧正も稚児を大いに可愛がったという。僧正が他界すると稚児は哀しみに打ちひしがれて広沢の池に身を投げたと言う。境内の隅に僧正が座禅を組むときに稚児がいつも座っていたという石椅子がひっそりと残されている。
■千代の古道 ”嵯峨の山 みゆき絶えにし芹川の 千代の古道跡はありけり” 在原行平
旧市内より北嵯峨に至る道を「千代の古道」と称し、歌枕にもとりあげられ有名となった。現在は山越から「さざれ石山」の西麓を経て、文徳天皇陵に通じる道をそれといわれている。
■大沢の池・大覚寺 大沢の池は大覚寺の東にあり、見晴らしよく堤には桜や紅葉が多く、四季の変化に応じて池水にうつる風情は、北嵯峨随一である。この池は嵯峨天皇が仙洞嵯峨院の造営にあたって、中国の洞庭湖に摸して造られたという池泉舟遊式の庭園で、天皇在世の頃は池中に竜頭鷁首の舟を浮かべ、詩歌管弦の遊びが行われたと言う。
■村岡局碑 大覚寺宮の諸大夫・津崎家の娘として生まれる。勤皇の志士達に近衛家や公卿達への連絡の便を計った為、安政の大獄で捕らえられ、江戸へ送られたが、のち許されて、晩年はこの地に隠世、明治6年に88歳で没した。碑は大沢の池のほとりにあるが、お墓は直指庵にある。