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第25回ウォークは、10月21日(日)小雨でしたが多くの参加者があり盛況のうちに終了いたしました。(洛南支部一同)

伏見城 伏見城は,豊臣秀吉によって文録元年(1592)に現在の乃木神社一帯付近に築城されたが,慶長元年(1596)の大地震によって大災害を蒙った。しかし秀吉は現在の明治天皇陵付近に再建する。この城も関ヶ原の前哨戦として炎上する。覇権を握った徳川家康は,一旦伏見城を修復するが,寛永2年(1625)三代将軍徳川家光により徹底的に破壊された。

桓武天皇柏原陵

 45歳で即位した桓武天皇は,在位25年の内に長岡京を経て延暦13年(794)に平安京へ遷都した。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東国の支配を確立,宗教界の刷新,地方政治改革に尽くした。
御陵は,秀吉の伏見城築城の際に移設されたと伝えられているが,現在の御陵は明治時代に治定されたもので,異説もあるようだ。





北堀公園

 伏見城の堀は,元北条家家臣の岡紅雪の設計といわれている。内堀は高所のため,水圧を利用したポンプアップ方式で山科川や地下水から汲み上げた当時は画期的な方式だった。徳川伏見城は空掘りだったが,明治以降陸軍が来るとその一部は水源地となり,戦後は京都市の水源地として利用された。現在は北堀公園として市民の憩いの場所となり,伏見城唯一の痕跡でもある。公園の東南に桃山町紅雪という地名が残る。

清涼院

 徳川御三家筆頭の尾張徳川藩祖の徳川義直は,幼名を五郎太丸といい,その生母お亀の方が住居したのが清涼院といわれる。お亀の方は,石清水八幡宮の修験者の志水宗清の娘として生まれ,先夫と離婚後家康に見初められその側室となり,この地で五郎太丸を生む。現在も五郎太町の地名が残る。




天王山仏国寺(黄檗禅宗)

 延宝6年(1678)黄檗宗本山万福寺の住職高泉姓敦(こうせいせいとん)禅師が,御香宮神社の三木(そうき)氏の菩提寺であった永光寺を再興し仏国寺としたもので,後水尾天皇や4代将軍家綱の尊崇を受け,当時は多数の堂塔を有する大寺院であった。現在の本堂は昭和時代の再建である。
またここには,三木氏代々の墓や,小堀遠州の墓が現存する。小堀遠州は,千利休七哲の一人古田織部の高弟で,茶道「遠州流」の祖であるばかりでなく,建築・造園家としても知られ,二条城や仙洞御所の作庭に携わり,大阪城,伏見城,名古屋城などの建設にも関わった。秀吉,家康,秀忠,家光らに仕え,作事奉行として遠江守に任ぜられている。なお,小堀遠州の墓は,墓はここと大徳寺狐蓬庵にある。

八科峠古くから宇治から京都への「木幡道」として知られていたが,伏見築城のときに,北へ移して道幅を拡幅したのが現在の道路である。この峠を八科峠と呼び,源平時代平治の乱で敗北した源義朝の愛妾常盤御前(義経の生母)の逃亡を助けたという旧家の跡が残っている。
この道には「木幡の関」という関所があったとされているが,現在ではその場所を特定することはできない。

黄金塚古墳(伊予親王陵) 前方後円墳の後円部頂上に五輪塔があり,明治17年に伊予親王の墓と定められた。伊予親王は桓武天皇の第3皇子であるが,宮廷内の陰謀に巻き込まれ親王位を剥奪され,奈良川原寺に幽閉,母の藤原吉子とともに自殺したといわれる悲運の皇子である。後に無実の罪と認定され親王位を復活されたが,後日の事である。

御船入石碑

 秀吉は伏見築上とともに「巨椋池」という河港の築造に着手,巨椋池に注いでいた宇治川を北に迂回させて「御船入」に引き入れ,さらに各堤に築造することによって巨椋池を人工的に遮断して造られた大和街道などは,現在も利用されている。
現在では御船入石碑の付近は住宅街となっているが,京阪宇治線の南口駅付近から山科川の水が引き入れられて,ここまで船が運行されていた。









伏見桃山陵付近
 眺望絶景の桃山丘陵の頂上に明治天皇陵,昭憲皇太后陵がある。この付近が木幡山伏見城の本丸や天守閣があったものと推定されている。しかし,冒頭のとおり関ヶ原の前哨戦として,鳥居元忠以下壮烈な最期の後,落城し炎上してしまう。


乃木神社

 明治の陸軍大将だった乃木希典と妻静子を祀る神社である。長府藩士出身の乃木希典は,日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第三軍司令官として旅順攻撃をしたが,多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じた。
しかし,明治天皇の信任厚く,明治40年には学習院院長に任命され,明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死,その忠誠心と古武士的精神が宣伝されて,各所に神として祀られた。
境内拝殿の両側に,ロシヤのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり,乃木希典の生家や旅順の司令部跡も復原されている。


指月の森

 大光明寺陵の後方にある森を『指月の森』という。古来から桃山御陵の南側は月見の名所として知られ,現在でも観月橋,月見館,指月の森といった名が好く知られている。この一帯は,平安時代から都の別荘地として,朝廷や貴族に愛好された地域で,なかでも橘俊綱(藤原道長の孫・頼道の三子)の山荘はその優雅さで有名であったという。
もともと西本願時の別荘のあった『三夜荘』は,秀吉が好んで月見をした場所で,「山より出ずる月」 「宇治川・巨椋池に映る月」 杯に浮ぶ月」と一夜に三つの月を楽しんだ事が謂れという。