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悠久を秘めた上賀茂神社周辺を歩く


楢の小川のせせらぎを聞きつつ)


第24回歴史ウォークは,9月24日(祝)初秋の好天の下で次のように行いました。




 賀茂別雷神社  
 上賀茂神社で親しまれるこの神社は,平安時代の大極殿の表鬼門に当り,都の守護神として祀られ方除の神,厄除けの神として信仰されてきた。祭神の「別雷神(わけいかづちのかみ)」は農作に欠かせない雨をもたらす神でもある,矢咫烏(やたがらす)が住むとか,玉依姫(たまよりひめ)と朱塗矢の伝説があり,伊勢神宮と並び朝廷から崇められています。





 競馬会(くらべうま)  
 11世紀後半から伝わる伝統行事で,5月5日午前に菖蒲の根合わせの儀を終え,午後3時から2組に分かれて競馬会が行われます。その年の米作の吉凶を占なったといいます。境内には馬だし桜,鞭打の桜,勝負紅葉,桐,枝垂桜などが明るい芝生の所々に植わる。


 葵祭
 欽明天皇のころ,凶作が続いたため賀茂大神の前で祭祀すると,五穀豊穣,天下泰平となったことが葵祭の起源とされ,現代も勅使が参拝されている。祭のヒロイン斎王代は,十二単衣を着た内親王で,伊勢の斎宮に対し賀茂の斎院と呼ばれ,源氏物語にも出てくる古くからの祭です。


 烏相撲  
 9月9日の重陽の節句に,本殿に菊を供えて不老長寿をお祈りした後,烏相撲が行われる。矢咫烏の伝説と不作の元となる悪霊退治の信仰行事が結びついたものといわれ,立砂の前で烏帽子・白張姿の刀禰が烏になったような奇妙な儀式の後,子供たちの相撲が行われる。
立砂はご神体の後の山「神山」をかたちどったもので,神籬(かみろぎ・神が降りられる処)であり,鬼門,裏鬼門に清めの砂や塩を盛るのは,この立砂の信仰が起源となっている。



 本殿  
 本殿と権殿が東西に並び立ち,共に流れ造りの典型として国宝に指定されており,寛永5年(1628)の再建,文久3年(1863)の一部造り替えで,平成6年に「古都京都の文化財の一つとしてユネスコの世界遺産に登録された。楼門は開放的で通常神社では,楼門左右に門番となる神を祀るが,ここと下鴨神社にはなく,中門前の棚尾神社に祭られている。

文久3年(1863)公明天皇は,徳川家茂将軍を従えて攘夷祈願に当社,下鴨社に親拝する。見物中の長州藩士高杉晋作は「征夷大将軍!」と声をかけたという。当時の行幸絵馬が奉納されているが,ほとんど色あせている。



 楢の小川  
 本殿東から流れる御物忌川(おもいがわ)と西から流れる御手洗川(みたらしがわ)が,橋殿の北で合流して楢の小川となり,末は明神川となる。川の名は,この流域に鎮座する奈良神社に由来するもので,小倉百人一首で藤原定家が,「風そよぐ楢の小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」と6月30日の夏越の祓いの風景を詠っている。
葵祭の斎王代が手を入れて身を清めるのは,御手洗川です。






 社家の街並  
 上賀茂神社に仕える社家は,明神川周辺に今も残り,京都市の伝統的建造物群として保存されている。明神川南側の西村家庭園は,川沿いの石垣に取水口を設けて池に取り入れ,下に流すという形態を取っている。また井関家,藤ノ木社など散策コースとなっている。









 太田神社  
 上賀茂神社の境外摂社の一つで,上賀茂神社に次ぐ吉社として賀茂族の崇敬をえている。鳥居をくぐると,大正天皇の母柳原愛子寄進の灯篭がひっそりと立つ。鳥居東には,太田の沢と呼ばれる池があり,往古から野生の杜若が群生しており,毎年5月中旬頃美しい花が咲き話題となる。






 愛染倉(あぜくら)  
 呉服商のオーナーが,古い酒蔵を移築したもので,庭園には沙羅双樹の木立(5〜6月満開),桜,紅葉等の四季折々の草花が彩ります。また数奇屋造の茶室「翠風閣」からは,京都が一望され,竹林の風情もよい。









 深泥ケ池  
 14万年前から存在するこの池は,氷河時代の動植物が生息し,浮島が3分の1を占める。京都の歴史をずっと見てきたに違いない。