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新選組・池田屋へ


(祇園祭の宵々山,男達は歴史を造った)






第23回歴史ウォークは,137年前池田屋騒動の起こった祇園祭宵々山(旧暦)の日,平成13年7月15日(日)に行いました。






 新選組屯所,前川邸の土蔵で古高を拷問の末,勤皇の志士が木屋町界隈に集結するとの情報を得た新選組は,京都の治安を守るべく平服で三々五々,祇園囃子の中を集結場所の祇園町会所に向う。
壬生寺境内では,沖田総司が近所の子供を集めて遊んだ。放生池の魚やスッポンを取って料理して食したなど微笑ましいエピソードや,後年(慶応元年)西本願寺に屯所を移してからも,大砲の発砲訓練を行うわ,禁制の馬の乗り入れをするわとヒンシュクをかう話題も残っている。









 月鉾 新月型(みかづき)の鉾先が由来となったこの鉾は,天王座に夜の国を支配する月読尊を祀る。破風に左甚五郎によるという兎や亀が彫られており,屋根裏の絵は丸山応挙作の草木図という。著名人の手による芸術品のこの鉾は,天命の大火,この後発生する元治元年の鉄砲焼けにも一部の焼損のみで奇跡的に焼け残った。










 長刀鉾 「くじ取らず」で巡行の先頭を行くこの鉾には,唯一生稚児が乗る。鉾の由来となる鉾頭の長刀は,三条小鍛冶宗近の作といわれるが,本物は保存されている。この鉾だけには,屋根に鯱鉾が乗っているが,城で見る鉾とは逆を向いている。
神をもてなす神楽囃子は,能楽の影響で鼓,笛,太鼓の他その後鉦が加わり,「コンチキチン」のリズムとなった。







 祇園一力 家名を万屋または万春楼といい,万の字を一と力に分けて一力と通称した。「仮名手本忠臣蔵」に大石内蔵助遊興の場として設定されたことから有名になったが,大石存命中の元禄15年頃はこの付近は開発されていなかったという。
近藤勇は公武合体派との会合で,時勢論を述べたというが,下戸の近藤には辛い時間だったことだろう。
なお,ここの養女「お勇」は,薩摩藩の大久保利通の第2夫人となり,7人の子をもうけたという。











 祇園石段下町会所 町会所とは,現代の集会場といったところか。祇園とは祇園新地ともいい,八坂神社西門の四条通を挟んで北は新橋から南は建仁寺境まで,西は大和大路まで東は東大路までをいう。祇園門前町として参拝人目当ての水茶屋が軒を並べ,遊里として島原をも凌ぐほどに発展していた。
石段下西南に弥栄中学校があり,当時はこの付近に町会所があったという。






 古高俊太郎 池田屋事変の発端となった古高俊太郎こと薪炭商の枡屋喜右衛門の住居跡は,現在「しる幸」となっている。古高は山科毘沙門堂の寺侍だったが,勤皇の志が篤く,枡屋の養子となった後も浪士たちを後援していた。しかし,新選組の嫌疑を受け逮捕され,過酷な拷問の末浪士たちの不穏な計画が発覚,池田屋襲撃へと物語は展開していく。
古高は六角獄舎に収容されていたが,禁門の変の翌日多くの勤皇の志士とともに処刑された。
この付近には,向いに土佐の谷干城,河原町に中岡慎太郎,四条には会津小鉄など幕末を駆け抜けたドラマの主役,脇役達の多くが居を構えていた。











 中岡慎太郎寓居跡 書籍商菊屋峰吉宅に寓居していた土佐藩浪人の中岡は,文久3年8・18政変を知り長州へと脱藩する。禁門の変では長州軍忠勇隊として参加し負傷を負う。その後,坂本龍馬とともに薩長連合の労を取る他,犬猿の中だった三条実美と岩倉具視の提携,薩土密約の斡旋。土佐藩の板垣退助らに世界状況,藩政改革の必要性などを「時勢論」等で諭し,混迷する土佐藩を最後のところで薩長側に着かせた。しかし,維新の夜明けを見ることなく慶応3年11月15日龍馬とともに近江屋で襲撃された。しかし,慎太郎の造った陸援隊からは多くの人材が輩出した。
若者たちが闊歩する,華やかな歩道上に碑がひっそりと立つ。






 坂本竜馬寓居跡 慶応3年6月に入京した龍馬は,高瀬川畔の材木商酢屋(中川)嘉兵衛宅を,自ら組織した海援隊の屯所とした。現在は京都で最も若者が多い通りの一つ,龍馬通又は親不孝通として深夜までネオンが点る中に酢屋が当時の面影を残す。













 池田屋騒動跡 元治元年(1864)6月5日の祇園祭の宵々山の日,浪士達の不穏な計画を探知した新選組は,京都守護職・所司代・奉行所に通報して応援を求めたが,その連携が捗らないため単独で行動することを決定し,午後10時頃近藤勇の率いる6名が池田屋に乗り込む。当時池田屋では,宮部鼎蔵以下20数名の浪士が会合中で,たちまち乱闘となった。不意を突かれた浪士達は多数の死傷者とともに,そのほとんどが逮捕される大事件,池田屋騒動が発生する。新選組の勇猛さが宣伝されるとともに,1ヶ月後の禁門の変を誘発する一因となり,その後の政治情勢に大きな影響を与える事件となった。
現在は,なんの痕跡もなく,路傍に石柱のみが立つ。













 高瀬川 木屋町に面して多くの商家,藩邸が建つ高瀬川界隈は当時から繁華街であった。池田屋騒動の翌日,噂を聞いた京雀達が怖いもの見たさに池田屋周辺に来てみると,隊士達が高瀬川に足を浸けて涼をとっていたという。