GuestBookSearchE-listAvenuesSilkRoad-DesertGo to Top

(三条大橋から粟田口・山科へ)

第22回歴史ウォークは,平成13年6月3日(日)盛況のうちに,次のように行いました。

 三条大橋
 高瀬川にかかる三条小橋に対して東にあるこの橋を三条大橋という。天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原の北条征伐軍を進発させるために架橋した日本最初の石柱橋で,人や馬は通れたが荷物を運ぶ牛車だけは,橋を傷めないように橋の下手の川の中を横断したという。
 三条大橋の東側が東海道の起点であり終点である。当時旅を終えた人を西詰めで出迎え,見送りは橋の東詰めという習慣があった。
 西詰には東海道中膝栗毛(ひざくりげ)の弥次郎兵衛・喜多八の像が立っていますが,両人は三条大橋を渡って入洛していません。

 超勝寺 (新麩屋町通三条上がる)
 境内墓地に幕末に勤皇芸者といわれた中西君尾が眠る。祇園の島村屋から芸妓として披露され,「魚品」で長州の井上聞多(後の井 上馨)と恋仲となり,その後井上が英国へ密航するにあたり別れのしるしとして渡した鏡が後に山口で刺客に襲われた彼を守ることとなった。
 明治維新お頃「宮さん宮さん〜〜」に始まる都風流トコトンヤレ節は弥次郎が作詞し君尾が作曲したと伝えられる 
 京舞の祇園井上八千代1〜3代の墓もある。1800年頃,近衛家の奥御殿に奉公していた井上サトが見聞きした宮廷文化を吸収して作り上げた舞で,井上八千代を名乗り京都に開いた。以来、約200年間京都を離れることなく女性の手によって継承され,2000年5月,4世井上八千代の孫三千子が5世井上八千代を襲名した。
 4月1日「都をどりは,ヨーイヤサー」の声と共に揃い衣装の踊り子が両花道から明治以来変らぬ風情で歩み出ます。「都をどり」が始まれば、洛中の花だよりも聞かれ、京都の春はいよいよ本番です。


 大将軍神社
 大将軍神社は東西南北に4つあり、平安京の方位4つを守るために桓武天皇が作った神社で,平安遷都には四神相応など陰陽道の影響が強いく,ある種の「結界」である。大将軍は陰陽道で西方の星(宵の明星)で吉凶を司る神であり,王城守護のための建立である。
 北方・・・今宮神社境内大将軍社・西加茂大将軍
 西方・・・大将軍八神社
 南方・・・藤森神社境内大将軍社
 東方・・・東三条茂大将軍 「東からの邪悪な侵入を防ぐ(粟田口の要地)」
 また,鵺(ぬえ)の森伝説や,樹齢800年の銀杏の大木,藤原道長が,父の藤原兼家を祀る神社でもあります。
 

 白川橋
 白川橋のたもとに建っている道標は,京都最古のもので,延宝6年(1678年)建立と書いてあり知恩院・祇園・清水通などを表示している。 また,「京都無案内の旅人の為に之を立つ」とあり建立者の心情が伝わってくる。京都市の登録文化財となっている。


 明智光秀墳
 419年前の昨日(6月2日・旧暦だが)信長を倒しクーデターを成功させた明智光秀であるが三日天下と呼ばれるように天王山で豊臣軍に敗退。夜の山道を馬に乗り大津方面へと脱出を試みるが山科の南、小栗栖で,儚い最後を遂げる。家来の溝尾茂朝に「我が首を斬り、知恩院にて灰にせよ、屍は田の中に隠し人にしらせるな。」と命じ,それに従ったが、夜が明けてしまったため首をこの場所に埋め主君の後を追い自刃してはてた。
 ここに、明智光秀墳とした碑があり傍らに五輪塔墓がある。碑の裏には弘化2年巳年とかいてあるため、光秀の死後260年を経てに建てられたものとみえる。この祠(ほこら)には珍しい光秀の木像と遺骨が祭られている。



 青蓮院(しょうれんいん)
 知恩院は,天明8年(1788)の大火の際,光格天皇の仮皇居となったことから粟田口御所ともいう。嘉永5年(1852)に尊応法親王(そんゆうしんのう)が門跡を相続した。尊応法親王は中川宮とも呼び,孝明天皇の信任厚く,梅田雲浜らと時事を密議した。公武合体派で文久3年(1863)八月十八日の政変の主役を演じ尊皇攘夷派の志士に身辺をねらわれた。討幕公卿にも弾劾され王政復古の大号令後、参朝停止の処分を受けた。中川宮は,東伏見慈合門跡の祖父で,皇太后の祖父でもある。
 また,親鸞聖人は7歳でここで出家した。石垣の上の楠は樹齢数百年といわれこの寺の歴史を見てきた。



 粟田神社
 祇園祭の山鉾巡行の原型とされる剣鉾の巡行が秋の例祭で行われる。境内には,義経が金売り吉次と東国へ落ちる際,門出に願をかけた「出世恵比寿」,鍛冶師の信仰する「鍛冶神社」,刀鍛冶三条小鍛冶宗近の奉納した刀が今に残る。


 仏光寺本廟
 真宗仏光寺の別院。宗祖親鸞の廟堂の一つ。本堂は,足利尊氏の寄進という。
 三条小鍛冶の宗近は,平安中期の刀匠で姓は橘信濃守粟田口藤四郎と号し東山粟田口三条に住んだので三条鍛冶とも称した。名刀「小狐丸」・「三日月宗近」などがある。祇園祭の長刀鉾の長刀は,娘の疫病治癒を感謝して鍛造奉納したものである。仏光寺本廟境内に刀剣を鋳るとき用いた井戸水があったと言われる。 
 粟田神社内に小鍛冶社,三条通を挟んで小狐丸作成に合いの手を入れ助けた相槌稲荷がある。
 小川治兵衛(おがわじへい)の墓。近代を代表する造園家。代表作に山県有朋の無鄰菴(むりんあん)。


 蹴上
 奥州に赴く源義経が美濃の関原与市の一行と出会った際、与市の従者に誤って湧き水を「蹴りかけられ」て争いになり従者・与市らを斬ったとの伝説に由来する。
 琵琶湖疎水は電力供給とともに物資の輸送でも使われた。琵琶湖と京都の標高差が大きな問題となっていた。(琵琶湖側が高い)それを解消するため斜面を作りレールを敷きその上に荷物を積んだ舟を乗せて下まで引き下ろした。この方式がインクラインと呼ばれ、ここに復元されている。
 蹴上浄水場は,日本最初の急速ろ過式浄水場で京都で最も古い浄水場で,明治46年4月給水開始するが,その前は,旅館「辻野」などがあり,与謝野晶子が鉄幹と宿泊した際に詠んだ 「御目ざめの 鐘は知恩院聖護院 出でて見たまへ 紫の水」の歌碑が残る。



 日ノ岡峠人馬道標
 雨天の街道で難渋する人馬を見て,享保21年(1736年)幕府の許可を受けた木食正禅養阿は,日ノ岡付近の街道を改修工事をする。人道と馬車道(車道)を造り,多いに社会貢献した。道行く人に気づかれる事なく碑が民家の畑にひっそりと立つ。
木食(もくじき)とは,高野山の修行の過程で米などを食せず木の実や木の芽などを食して修行した人で,木食正禅養阿は76歳で死亡,東山安祥院(雲浜の墓)に眠る


 修路碑
 明治10年の国道改修工事で,やっと現在のこの高さまで道を下げた。
  


 刑場跡碑
 江戸時代、京都には東と西に刑場があった。ここが東の刑場跡と思われる。
 刑場跡には南無阿弥陀佛の石塔があり、昭和7年に国道が作られた際に多数の骨が発掘され,罪人の回向のために建立されたものである。
 江戸時代には毎年12月20日が六角獄舎囚人が「果ての20日」とよばれ死刑執行の日だった。六角獄舎から引き出された囚人は洛中を引き回され一条戻り橋で仏花と餅屋から華束餅(けそくもち)が与えられ「今度生まれてくる時は真人間に」と申し渡される。寺町高辻・浄国寺で十回念仏が授けられ(十念ヶ辻)西刑場と東刑場別れて斬首されたという。

 
 車石
 東海道はその道幅の半分を舗装されていた。これらの広い舗石の上には、二つの並行した轍があり、この溝に牛車をのせてレール代わりとして荷物を運んだ。明治8年から10年にかけて道路修理の際出土したこれらの車石を壁に埋め込み碑としている。
碑の周辺の石垣にも阿弥陀仏名号碑の周辺にも多くの車石が利用されている。


 旧東海道碑
 江戸時代の人の足は今では考えられないほど速く、東海道53次を男の人なら15日ほどで歩いたらしい。(晴天で川留めなしと仮定して)また、日本橋を起点として一里ごとに街道の両側に方形の塚が築いてあり榎、松などがうえてあった。104の一里塚が東海道にはあり、目的地までのペース配分や駕籠代の目安となっていた。
 宿場は幕府役人、大名、宮家、高僧が泊まる「本陣」一般の旅人が泊まる「旅篭屋」昼食をとる「御茶屋」などがあった。信長 秀吉は勿論、坂本龍馬など歴史的な人物もこの場所を通って京都に入った。



 亀の水
 木食上人養阿は,人馬道改修後もこの地に庵を結び,梅香庵(ばいこうあん)となずけ旅人の休憩所ともされたという。江戸時代に峠を越える旅人ののどを潤すためにつくられた休憩所の跡で,旅人はこの水を飲み励まされ、旅を締めくくる最後の力を得たのだろう。亀の口からは今も清水が流れている。


 天智天皇山科陵
 鏡山南麓に築かれた上円下方墳。 大化改新後近江大津宮で即位。律令国家の基礎を固めたが、天智天皇10年12月に大津宮にて死去。入り口に日時計が佇む。

>