狛犬
1934 年(昭和9年)に建立された。高さは台座含め約5m、重さは2600kgあり府内最大 級の青銅製狛犬である。この狛犬は、戦前の京都画壇の中心となった竹内栖鳳の考案
によるものである。台の西側は白梅、東側は紅梅の図である。
一の鳥居
1922 年に北野天満宮皆燈講により、今出川通りの南の南神苑に建立寄進された。高 さは11.4mである。鳥居は木曽の花崗岩で、二条駅まで貨車で運び、二条駅からは一
方は牛33頭で、もう一方は31頭で引いてきたそうだ。また1966年に西陣警察(現在 の上京警察)が南神苑に移転してきた際、現在の場所に移設されました。鳥居の上部
には閑院宮載仁親王の「天満宮」の文字の扁額が掲げられている。
新門辰五郎の灯籠
江戸火消しの親分である。娘の芳は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の側室である。慶喜 が京都に上洛すると、信頼の厚い新門辰五郎は慶喜に呼ばれ、子分250人を率い、同
じく60人を率いた息子と共に東海道を上洛して二条城の警備などにあたった。
影向の松
北野天満宮では初雪が 降ると、天神様(菅原道真)がこの松に降り立ち、初雪を愛でながら、詩を詠まれると いう伝説がある。またその初雪の降った日には、松に硯・筆・墨をお供えする神事が
初雪祭として行われる。
東向き観音 土蜘蛛
源頼光が怪しい法師(蜘蛛の精)に襲われ、名刀膝丸で切り付け退治し た伝説があり、土蜘蛛の灯籠がある。
また、道真の母の供養塔も神仏分離によりこちらに移された。
伴氏社
道真の母を祀る 伴氏社は京都三珍鳥居の一つであり、柱を支える台座(亀腹)が蓮華を逆様にしたもので神仏習合の名残でしょう。他に御所旧九条家の厳島神社の唐破風鳥居、
蚕ノ社の三柱鳥居
火の子神社(ひのみこしゃ)
御祭神は火雷神(ほのいかづちのかみ)で、御神徳は雷除け・五穀豊穣の神として、「北 野雷公(きたのらいこう)と称えられてきました。 北野は、古くから雷の通り道「丹波太郎」であり、それ故に菅原道真死後、その怨霊
が相次ぐ天災や疫病をもたらしているのではないかと恐れられたことで、その霊を鎮 めるために北野天満宮を創建する流れに繋がりました。
星欠けの三光門

1607年年豊臣秀頼が再建設・寄進したものである。これには、 太陽(赤い〇)がん)、月(金色の〇)の彫刻はあるが星はないため、「星欠けの三 光門」と呼ばれている。これについて、平安時代帝が大極殿から北野天満宮に向かっ てお祈りされる際、三光門の真上に北極星が輝いていたからであって、日・月・星の 三つは揃っている、というのが北野天満宮説。これに対し、当時大極殿のあった千本 丸太町付近から見て、北極星は三光門の真上には見ることができない、という反論が ある。さらに、金色の〇が実は星であって、月は銀色の三日月のことであり、違った 意味で三つは揃っている、という別論がある。
本殿
祭神は、菅原道真 東座に中将(子息) 西座に吉祥女(正妻)
本殿は、豊臣秀頼により慶長12年(1607)に造営されたもので国宝であり、八棟造 りの桃山時代を代表する建築遺構です。
立牛 境内の牛は臥せ牛ですが、本殿欄間の牛のみ立っている。ご神体に最も近い 神牛であり七不思議のひとつ。
野見宿祢神社
野見宿祢は出雲の出身で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と相撲をと り当麻蹴速の腰を踏み折って勝利したといわれ、その後天皇家に仕え土器、古墳造営 の土師氏の祖となる。平安時代に入り道真の祖父清公が土師氏から菅原へ改姓した。 野見宿祢神社は、相撲をはじめスポーツ上達の神として崇められている。
裏本殿 御后三柱(ごこうのみはしら)
道真の先祖の天穂日命、お爺様の菅原清公卿、父君の是善卿が本殿北裏に祀られており、古の人々は本殿と共にこちらも併せて参拝したと伝わる。
筋違いご本殿 地主社(じぬししゃ)
御祭神は、天神地祇(てんしんちぎ)を、相殿に敦実(あつみ)親王・斎世(ときよ)親 王・源英明朝臣を祀り、御神徳は招福・請願成就・交通安全の神として、北野天満宮
の創建以前からある境内で最も古い社で、天満宮は、この地主社を避けて西寄りに建立されています。す
文子天満宮
御祭神は、菅原大神(菅原道真公)で、御神徳は入試・学業成就の神です。 かつては、西ノ京にありましたが、1873(明治6)年に境内に末社として遷宮されま した。菅原道真の乳母とされる多治比文子(たじひのあやこ)が、菅原道真公を最初に 祀った社であり、北野天満宮の前身神社で、天神信仰そのものの発祥地とされています。
露の五郎碑
露の五郎兵衛は江戸時代前期の落語家で、日本最初の落語家とされる。京都に生まれ (1643 年?)、はじめ日蓮宗の談義僧(教化僧)となり、説法に節回しをつけ、民衆
に親しみやすく語り伝えた。その後還俗し、落語の元となる辻噺、軽口噺を創始し、 京都・北野天満宮で初めて披露した。そして北野天満宮や四条河原、祇園・真葛が原、
百万遍、開帳場(盛り場)などで、自作の笑い噺のほか歌舞伎の物まね、判物(はん もつ・命令文書)なども演じ、都の人気を一身に集めた。ときに貴人にも招かれた。
辻噺は300数十が残る。1703年61歳で没。この碑は、1999年露の五郎(2005年2代 目露の五郎兵衛襲名)が建立。
北野経王堂
明徳2年(1391)、幕府の基盤強化を目指した室町幕府3代将軍・足利義満は、守護大 名である山名氏清を倒した(明徳の乱)。応永8年(1401)、義満は乱の戦死者を弔うた めに北野天満宮境内に巨大な北野経王堂(三十三間堂の1.5倍)を建立した。室町幕府 の衰退とともに北野経王堂も衰退し、大報恩寺の末寺となった。
北野界隈ジオラマ
京都佛立(ぶつりゅう)ミュージアムに昭和30年代のジオラマがある。北野天満宮 の一の鳥居の元の位置と参道や嵐電の北野駅の様子が再現されている。
その頃は、嵐電が北野まで伸びていて、市電北野線(チンチン電車)も中立売通を走り、 北野(下之森)車庫もあった。市電今出川線が白梅町まで延長されるときに現在の形に
変更されている。