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地図

禁裏界隈の騒乱の地を巡る

京は政争、争乱が度々起り禁裏界隈にその史跡が残っている。

1 護王神社



平安遷都に尽力した和気清麻呂公を祀る。かつて猪が、清麻呂公の災難を助けたというエピソードから、狛犬に替わって「狛イノシシ」として拝殿前に置かれている


2 旧二条城跡

永禄2年(1559)室町幕府13代将軍足利義輝が、応仁の乱で焼失した斯波武衛家邸の跡地に造営した、二条御所があった。永禄8年(1565)三好三人衆と松永久秀(ひさひで)の襲撃により、足利義輝は、二条御所で討ち取られた。義輝は剣豪として知られており、このときも足利家秘蔵の刀剣を畳に複数本刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて多くの敵兵を切り伏せた。しかし、最後は畳を盾とした敵兵が四方から同時に突きかかり、殺されている。辞世の歌は「五月雨は露か涙か時鳥(ほとどきす)、わが名をあげよ雲の上まで」である。
次に同じ地に、室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、永禄12年(1569)織田信長が造営した二条城(現二条城とは別)の跡でもある。堀をめぐらせ、高い石垣に櫓を設け、城内も庭園や建物に粋を凝らした、堅固で華麗な城郭であった。


3 御苑内の移築石垣

旧二条城の石垣が、地下鉄工事で見つかり一部を御苑に移築再現している。工事中に約100体の石仏が発見され、城の石垣に使われたものと判明した。石仏は伏見区の安楽寿院と、西京区の京都市洛西竹林公園に保管され、同時に発見された石垣の一部は、京都御苑下立売御門内と、現二条城内に復元されている。


4  鷹司邸跡

蛤御門の変、元治元年(1864)の際、久坂玄瑞は朝廷への斡旋を鷹司家に願ったが叶わず、長州兵が放った火で邸宅が燃え盛るなか、自ら命を絶った。






5 天皇に拝謁した象

徳川吉宗が購入した象が、長崎に上陸し、京を経て江戸に向った
象の京都での宿泊場所は、京都御所に近い浄土宗寺院の清浄華院(京都市上京区)であっ。清浄華院には京都所司代の子息たちが象見物に訪れている。

京都では他の地域と比較しても、ことのほか多数の触が出され、しかも詳細をきわめた。象の通る橋は、新しく造られた。三条大橋以外の橋に土砂がかけられた。
428日、化粧を施された象は、宮中に参内して中御門天皇に拝謁した。天覧に先立って清涼殿台盤所に「象舞台」がつくられ、三双の屏風が立てられた。午前10時ごろ御所に入った象は、宮中において中御門天皇御覧の際に台盤所の前で前足を折って頭を下げる仕草をした。428日は象の日


6 西園寺邸跡

西園寺公経は、1171~1244年(承安~寛元)の公卿。太政大臣を辞したあとに出家したことから、「入道前太政大臣」とも呼ばれた。
朝廷から鎌倉幕府へと実権が動く動乱期、源頼朝の縁から後鳥羽上皇からは鎌倉のスパイと疑われて幽閉された。公経は、鎌倉幕府に情報を流して、承久の変の勝利を得た事で、太政大臣に上り詰め、西園寺家の祖として地位を確立した。


7 清水谷家の椋

大きなムクの木のあたりが、清水谷家という園寺家一族の公家屋敷があった。
樹齢は約三百年といわれる。1864年の蛤御門の変で,長州藩士の来島又兵衛が、此の木の下で 討ち死にしたと言われる。


8 蛤御門の変

元治元年(1864719日に、京都で起きた武力衝突事件。元治の変(げんじのへん)とも  呼ばれる。 前年の八月十八日の政変により、京都から追放されていた長州藩勢力が、汚名返上を訴えてきたが、会津藩主で京都守護職の松平容保らによって排除された。


9 長徳寺

元は相国寺の南にあったが、禁門の変の2年前に薩摩藩邸になった事で、現在地に移転した。会津藩士山本覚馬は、元治元年(1864)、長徳寺で英語と蘭学を教える洋学所を開いて、若者たちに学問を教えた。覚馬は、明治12年(1882)に京都府議会の初代議長に就任し、京都の近代化に貢献した。


10 楽美術館

公益財団法人樂美術館は、樂焼窯元・樂家に隣接して建てられている。
1978年、樂家十四代吉左衞門・覚入によって開館、収蔵作品は、樂歴代作品、茶道工芸美術
関係古文書など、樂家に伝わった作品を中心に構成されている。
伝来の収蔵作品は、450年間にわたって、樂家歴代が次代の参考になるよう手本として残してきたもの。樂家の人々は、これらの作品を制作の糧として、樂焼の伝統を学び、それぞれ独自な作陶世界を築いてきた。楽焼茶碗は、略して楽茶碗。または楽(らく)と呼ばれる。 楽茶碗は、千利休の創意を受けた楽長次郎が始めたとされ、現在までその技法を伝えている。


11 慶長天主堂跡

慶長9年(1604)頃に復興されたヤソ会(スペイン)の天主堂教会があった。京都でのキリスト教の布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正15年(1587)豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。
関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に新しい天主堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、付近には学校も設けられたが慶長17(1612)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始,天主堂も焼き払われた。慶長天主堂が立ったのは、10年に足りない期間であった。


12 村雲御所石碑

村雲御所は,瑞竜院日秀(15331625)が,豊臣秀吉(153698)に追放され自害した豊臣秀次(156895)を追善するため建立した尼寺。元あった嵐山村雲を冠し,宮家や摂関家から入寺したため村雲御所と呼ぶ。日蓮宗唯一の尼門跡寺院。
当初の寺院は、二条城から移築した。だが江戸時代に焼失。昭和38(1963)近江八幡市に移転。


13 山名宗全邸跡

山名宗全は、応永11年(1404)に生まれ、名を持豊といい、後に宗全と号したが、赤ら顔で赤入道ともいわれた。但馬をはじめ数ヶ国を領し、強大な勢力を持っていた。
子供がなかった将軍足利義政は、弟義視を後嗣にしようとしたが、その後、義政夫人富子に義尚が生まれたため将軍職をめぐる後継者争いが起こり、応仁の乱に発展した。
義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣とした。室町今出川の花の御所に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間に及ぶ戦いを繰り広げた。このため、京都の町の大半は焦土と化した。
このあた
り一帯を西陣と呼ぶのは、宗全が幕府の西に陣を敷いたことによる。


14 細川勝元邸跡

戦国時代の幕開けとされる応仁の乱は、応仁元年(1467)に勃発した。正月の御霊の森(現在の御霊神社境内周辺)の戦いに始まり、5月には山名宗全を大将とする西軍と細川勝元を大将とする東軍が上京を中心に激しい戦いを繰り広げた。西軍・東軍は堀川や小川を挟んで対峙したが、西軍の拠点であった山名宗全の邸宅周辺は、「西陣」として現在に名を残しているのに対して、東軍細川勝元の邸宅は、説明版がある小川児童公園の北側一帯にあったと考えられている。


15 花の御所跡

足利将軍家の邸宅の通称。敷地は、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西1町・南北2町を占めた。京都御所がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角に位置した。
※大聖寺  御寺御所(てらごしょ)とも呼ばれる臨済宗相国寺派門跡尼院で,この辺りが花の御所跡といわれ,境内には「花乃御所」という石標が建てられている


距離や時間、場所など説明

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