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「山科本願寺史跡を巡る」
蓮如上人の事跡に迫る

浄土真宗8代門首となった蓮如は、多くの信者を獲得するが、天台宗比叡山の怒りを買い京都本願寺を破壊される。その後、近江から越前吉崎に移り発展するが、やがて山科に本願寺を移して益々の発展を遂げる。

だんじょの水


護国寺(山科檀林)が僧侶の教育機関(談所・檀所)であったことから、その名がついたと伝わ ります。元禄三年(1690年)周辺住民の水不足対策として、近隣にある日蓮宗寺院・護国寺の 余水を地下水路で引き、そこから「だんじょ」と名付けられました。






東御坊山科別院

蓮如上人は、吉崎での4年間の活動を終え、1478(文明10)年正月に山科の草庵に移って本願寺の 再建に取りかかり、蓮如上人を崇敬するご門徒たちの力の結集により、1483(文明15)年8月に建物 の造作を終えた。そして、本願寺を囲むように民家が立ち並び「寺内町」が形成された。しかし、1532 (天文元)年、戦国時代の騒乱に巻き込まれ、一宇も残らず炎上した。その後、本願寺は大阪へ移り、 以降旧地は荒れたまま放置されていたが、江戸時代になり、第17代眞如上人の時に、享保17年(1 732)東本願寺境内にあった長福寺を山科の地に移設が計画され、1736(元文元)年、本願寺旧地に 北接して御堂が建立された。1787(天明7)年には、本堂・客殿・庫裡などが再建され、境内に鐘楼・茶 所が設けられた。現在は大谷専修学院が併設されており、大谷派教師育成の拠点となっている




連如上人銅像台座跡

昭和9年(1934)に建立されましたが、昭和19年 (1944)に大戦のため「供出」されました。この立像は 銅製で高さ10mになるものだったと言われています。 建立者は江戸時代由井正雪の子孫で卯三郎と言われ、 また黒岩淡哉作、高村光雲が顧問でした。 北側のプレートには往時を偲ばれるものがあります。 「蓮如はんも戦争にいかはったや」と囁かれました。





西御坊山科別院

1732(享保17)年、第15代住如上人により、北山別院の旧堂をご廟所の東側に移築、当初、 聖水山舞楽寺とされました。さらに第17代法如上人の時代になり、この御堂が手狭であるた め1774(安永3)年3月、現在の本堂が建立され、続いて1781(天明元)年蓮如上人300回遠 忌にあたって、鐘楼・太鼓楼、茶所等が増築されました。 また、中宗堂は1823(文政6)年 蓮如堂として本堂の南に建立されました。中宗堂にご安置されている蓮如上人御木像は、永く ご本山に安置されていました。




蓮如上人御廟

史晩年は山科の南殿に隠居され、明和8年(1499)3月25日に85歳で入寂され、翌26日に荼毘に 付され、当地に遺骨が埋葬されましたが、明治維新後は官地となっていました。明治15年 (1882)に明治天皇(在位:1867〜1912)から慧燈大師(えとうだいし)の諡号(しごう)が贈られ たことを機に本願寺へ下賜され、現在では東西本願寺により共同で護持されています。








山科公園本願寺土塁跡

蓮如が文明 10年(1478 年)建設に着手。寺院を中心に寺内町を形成し、周 囲を幾重にも土塁と堀で囲んだもので、東西 800メートル、南北 1キロメート ルに及んだ。当時の様子は、「寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」(『二 水記』)と記されている。現在、緑の巨木が望まれる所には土塁や堀が残って いることが多く、中央公園にある大きな土塁は当時の姿をよくとどめている。 天文元年(1532 年)武士・法華衆徒に攻められ焼亡。公園はもと鐘紡の工場跡地。




西宗寺

海老名(えびな)家の氏寺になる。山号は放鶯山(ほうおうざん)という。1481年、旧10月18 日、蓮如の弟子・浄乗は、山科本願寺寺内に西宗寺を建立した。本願寺の防御的な意味もあっ たという。蓮如より絵像「方便法身尊形」を下され、山科本願寺諸堂とともに建立された。こ の時、本願寺南殿を与えられという。以後、寺は海老名家の氏寺になる。(『西宗寺縁起』)。 当初は興正寺の末寺だったという。1498年、病になった蓮如は、大坂より山科本願寺へ移るこ とを願う。浄乗は子・祐信を大坂に遣わした。この時、蓮如は御尊影「山科蓮如上人御形見の 御影」を祐信に与えたという。すでに蓮如は大坂を意識していた。





奥田家土塁跡

山科郷士・庄屋として続いた奥田家は,浄土真宗中興の祖である蓮如が建立した山科本願寺 の主要堂舎が集まっていた「御本寺」の一角に立地している。環濠城塞都市を形成していた山 科本願寺寺内町の遺構としてわずかに残る土塁が,奥田家の敷地の北と西を囲んでいる。明和 6(1769)年建築と伝わる茅葺の主屋をはじめ,上ノ蔵,下ノ蔵が建ち,正面には土塀を巡ら せた重厚な長屋門を構えている。土塁とこれらの建物や庭が一体となって,山科の歴史と暮ら し,風景を今に伝えている。奥田家分家は古材文化の会が管理している。





史跡山科本願寺跡公園

山科本願寺は一説によれば、御影堂・阿弥陀堂を中心に43万坪(甲子園球場20個分)とも いわれる広大な寺領を有し、「寺中広大無辺にして、荘厳さながら仏国の如し」と称されまし た。その後、蓮如上人のご息男第9代実如上人、さらに第10代証如上人と続いて伽藍が整備さ れました。本格的な土塁の構築は蓮如が亡くなってからだとも。 ところが1532(天文元)年8月、日蓮宗徒、比叡山僧徒が、六角定頼の兵とともに本願寺を襲 撃、やがて御堂に火が放たれ、華麗を極めた山科本願寺もことごとく灰燼に帰し、本願寺は蓮 如上人が造営されていた大坂の坊舎(現在の大阪城付近)に移り、53年間にわたって隆盛を極 めた山科本願寺は消滅したのでありました。 宗主の居宅跡には釜風呂跡などが残されている





山科本願寺ウォークマップ
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