末刀岩上神社
社殿を設けず、天然岩を神石とするところから、その名が つけられた。この地域には露出した岩の山肌が多く、松樹茂るところであり、古くから清浄の地として知
られるが、当社も林山を背景として、古代祭祀の磐座信仰の地であったと推定される。
。かつては猟師・牛馬の神として信仰が篤く、参詣の人が多かったそうです。 毎年12月5日にはお火焚祭りが行われます。
桜井水
、清少納言の『枕草子』第168段に「井は 少將井 桜井 云々」とある桜井にあたると もいわれ、自然石で囲った浅い井泉ですが、古くより清冽な水は旱魃にも涸れることなく湧き出してお
ります。 また一説には、白河天皇皇子・桜井僧正(行慶)、または後鳥羽天皇皇子・覚仁法親王(桜井宮)の旧 跡ともいわれております。井泉の上には「南無妙法蓮華経
桜井水」と刻まれた石碑があり、墓参の供え 水とする聖域となっております。
涌泉寺墓地
江戸時代、徳川幕府の高官・石川丈山が京都に隠棲する地を探しており、「松ヶ崎の狐坂のほとりに山 荘を造るらしい」と聞いた松ヶ崎の村人たちは、「高官が来ると何かと煩わしいことになる」と考え、大
急ぎで墓石を運んで狐坂の横に墓地を作ってしまったそうです。 このため丈山は松ヶ崎を避け、一乗寺の山手に山荘を建てました。これが現在の詩仙堂です。
狐子坂(狐坂)
、狐が出るような薄暗い坂道のように想像できます が、江戸時代の『拾遺都名所図会』(天明7:1787)では「木列坂(きつれざか)」と書かれています。昔
この山は木が茂って、木が摺れて行き来するのが歩きにくかったので「木摺坂」というようになりました が、岩倉大雲寺の境界記録古証文には「木列坂」と書いてあるそうです。高架橋は平成18(2006)年に
完成しました。
新宮神社
松ヶ崎の氏神で、もとは「大比叡大明神」と称しておりましたが、徳治元年(1306年)に村をあげて 日蓮宗に改宗した際、法華経と日像上人直筆の「曼荼羅」を合祀し、その後は妙泉寺の鎮守社として僧が 祭祀を行いました。
明治維新の廃仏毀釈・神仏分離により妙泉寺から離れて「白髭神社」と号し、明治20年(1887年)に さらに「新宮神社」と改称し、現在に至っております。
10 月23日は例大祭、12月8日はお火焚祭りが行われます。
松ヶ崎小学校(松崎寺・妙泉寺跡地)
平安中期に源保光により松崎寺が建立されたと考えられています。源保光は醍醐天皇の孫で、平 安中期の高級貴族でした。永延2(988)年に中納言となり、長徳元(995)年に亡くなりました。
松崎寺はその後歓喜寺と名称変更されました。さらに住持・実眼が日像に帰依して日蓮宗に改宗し、字 名を妙泉寺と改称し、集落の信仰を集める寺となりました。妙泉寺は京都地方の日蓮宗寺院として最も
古い寺院の一つで、天文5年(1536年)の天文法華の乱で焼亡しましたが、天正3年(1575年)に再興 されました。 明治9年(1876年)に寺域の一部が松ヶ崎小学校となり、大正7年(1918年)に北東の本涌寺と合併
して現在の涌泉寺となりました。址地は現在、松ヶ崎小学校の敷地となっています。
七面宮
天正4年(1576年)に日諦僧正が勧請した七面大天女がお祀りされており。お祭り以外の日 は、本尊は近くの涌泉寺に安置されています。境内には日輪の滝・月輪の滝があり、かつては眼病に霊験
があるといわれていましたが、地下鉄工事により近年は水が枯れてしまいました。
涌泉寺
本涌寺は松ヶ崎檀林といわれ、天正2年(1574年)に日生(にっしょう)が法華の学問所を松ヶ崎に 設立し、これが日蓮宗の学林の始まりでした。全国から多くの学徒が集まったと伝えられています。承応 3 年(1654 年)の春には、東福門院の女院御所造営の残木を拝領して講堂等を改築し、これが現在の涌 泉寺本堂(踊堂)です。日蓮宗檀林講堂の遺構としては日本最古唯一の建築といいます。 明治9年(1876年)に檀林は廃止され、その後、明治29年(1896年)に宗立第七教区小檀林が設置 されましたが、明治37年(1904年)に廃止されて空寺となりました。大正5年(1916年)から大正6 年(1917年)にかけては小学校の教室として使用されましたが、妙泉寺との合併により本涌寺の称号は なくなりました。 涌泉寺の山門前の山側には松ヶ崎檀林開祖・教蔵院日生(生師)の廟「生師廟」があり、地元では「教 蔵院さん」と呼ばれています。 毎年8月15・16日には境内で題目踊・さし踊が行われます。
東松ヶ崎の井戸跡
狐の子が井戸にはまって死に、稲荷の親狐が「今後一切井戸を掘るな。掘った家は不幸になる。 その代わりこの井戸はどんな日照りでも枯れないようにする」と告げたといいいます。それから井戸を
掘った家には不幸が続いたので、水道が通るまで東村の17軒はこの井戸で過ごしたといいます。 また別の話もあります。一匹の狐が山で猟師に追われて東村の一軒の百姓の家に逃げてきました。かわ
いそうに思った百姓は狐をかくまって一晩泊めてやりました。すると次の朝狐は百姓についてくるよう に言い、百姓が狐についていくと、大黒天の下まで行き「ここ掘れ」と言い残してどこかに行ってしまい
ました。百姓がそこを掘るときれいな清水が湧いたので、この井戸を東村の井戸として共同で使うこと にしたそうです。
妙円寺
境内には大黒堂があり、本尊は勇猛庵主日量の遺仏で、伝教大師の作と伝えられています。松ヶ崎大黒 天として名高く、信徒が多く、甲子の日には遠方からも参詣者が訪れます。境外仏堂として鬼子母神(本 尊:十羅刹女)も祀られています。都七福神めぐりの大黒天でもあります。 昭和44年(1969年)の火災で本堂・庫裏・大黒堂などが消失しましたが、大黒堂の本尊・大黒天は奇 跡的に残りました。昭和47年(1972年)に信徒の浄財により再建され、現在の大黒堂が落慶しました。 『松ヶ崎大黒縁起』には「火中出現 火伏守護の大黒さま」として崇拝されていると記されています。 境内にある石弥勒(2つの大きな石仏)は松ヶ崎廃寺から名称が変わった「歓喜寺」の頃に造られたも のではないかと言われています。元は比叡山の総門があったといわれる辺りにありましたが、平成 29 (2017)年に大黒天に移築されました。
白雲稲荷神社
、新宮神社を「西の宮さん」、白雲稲荷神社を「東の宮さん」と呼んでいます。神主が いないため、東松ヶ崎の村人がお守りしてきました。 起源は明確ではありませんが、かつて境内東南にあった牛の宮を合祀したともいわれています。
東松ヶ崎では神託により、牛の飼育と井戸掘りが禁じられ、馬が農耕に使用されました。昭和 39 年 (1964 年)の祭礼までは馬場で競馬が行われ、豊穣を占ったと伝えられます。
大正2 年(1913 年)に上水道が整備されるまでは、松ヶ崎大黒天(妙円寺)近くの井戸一つ(前掲H) が生活用水として使われていたといわれています。
白雲稲荷神社は安産・火災除けのご利益があるとされています。
松ヶ崎城
天文5年(1536年)の天文法華の乱の際、地元郷民が立て籠もったことが知られております。『鹿苑日 記』によれば、それまで法華門徒側であった土豪・山本氏と渡辺氏が延暦寺山門側に寝返り、同年 7 月 22 日に松ヶ崎城を攻め落としたとされています。 山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第53号』)では、 黒川道祐著『近畿歴覧記』の「北肉魚山記」にある「松ヶ崎ニ貝吹山トテ城跡アリ コレマタ山本氏斥候 ノ所ナリト」という記述が紹介されています。「貝吹」という表現から、連絡用の城であったと推測され ますが、天文法華の乱の前後いずれの話かは不明です。
井手ヶ鼻井堰と水門
現在の松ヶ崎学区を流れる水の管理は松ヶ崎水利組合のもと、古くからの農家約20軒が当番制で務め る水役によって行われています。 井出ヶ鼻井堰の水門は、高野川から学区に流れる唯一の取水口で、「子供の楽園」の東側の高野川に位
置します。この水門は洪水調整のため、高野川の水位が高くなると自動閉鎖します。開門作業は水役が手 動で流量を調整しながら行っています。 近年、水の用途は灌漑用水だけでなく、防火用水・生活用水としても利用されており、水役のほか、松
ヶ崎消防分団やおやじの会が協力して川の清掃活動も行っております。
宝ヶ池
史宝ヶ池は、1763年(宝暦13年)、松ヶ崎の虎の背山北側にある年中水のある深田をため池にしたいと 役所に願い出たことに始まります。その後1855年(安政2年)に修理・拡張工事が行われ、水不足から 解放されました。 山向こうの宝ヶ池から流れる水は「岩倉川」を通り、井出ヶ鼻井堰の少し上流で「高野川」に合流しま す。このため井出ヶ鼻井堰には常に安定した水を供給できるようになりました。
