概要・第2疏水と疏水第3トンネル出口
取水口の滋賀県三保ヶ崎から蹴上船溜りまで全長 8.7km の 第1疏水、蹴上船溜りから鴨川落合まで2.4kmの鴨東運河、そこから伏見まで8.9kmの鴨川
運河、蹴上付近から分岐し北白川を経て堀川に至る全長8.4kmの疏水分線からなる。さらに、 増大する電気需要に対応するため、1912 年には第1疏水の北側を全線トンネルで並行する
全長7.4kmの第2疏水が完成した。
当時の日本の重要な土木工事が外国人技師によって行われるのが一般 的だった中で、琵琶湖疏水は日本人だけの手によって建設された日本最初の大規模な土木
事業である。
御所水道用ポンプ室・大日山貯水池
京都御所の防火用水として蹴上から 平安神宮の北側を通る約4kmの専用 水道が敷設された。
• 京都御所は標高が東本願寺より約 20m高く水圧が不足するので、蹴上船 溜まりからポンプで 30m 高い大日山 に設けた貯水池に水を汲み揚げて
いた。
大日山貯水池と御所の標高差約60m
の水圧を利用して御所内の約70ヵ所
の消火栓から自動的に放水される
仕組みだった。
疏水工事事務所跡
本願寺水道貯水池の南側に疏水工事全体を統括する疏水工事事務所があった。 田辺朔郎や島田道生もここに詰めていた。
本願寺水道取水口・貯水池
1897 年、疏水から東本願寺へ防火用水を送水するための 4.6km の本願寺水道が 引かれた。設計は田辺朔郎、工費は14万4千円で、全額東本願寺が負担した。
東本願寺は江戸時代4度にわたり火事で焼失しており、寺を火災から守るため自費での 疏水建設に踏み切った。
蹴上との高低差約50mを利用してバブルの開閉だけで、水を噴き上げる。御影堂門前の 噴水やお堀、渉成園などにも供給していた。
田辺朔郎建立の慰霊碑
田邊朔郎が疏水工事での殉難者17名を追悼するため、明治35年(1902)5月18日に私費 で建立し、大正8年(1919)第一疏水開通30年式典に際して田邊から京都市へ寄贈された。
碑文は、「一身殉時萬戸霑恩」(あなたたちが一身を投げ打ってこの事業に殉じてくれた からこそ、今多くの人が潤っています。あなたたちの死は無駄ではありません)
インクライン
インクラインは傾斜鉄道の意味で、蹴上船溜りと南禅寺船溜りの高低差 36m、 距離582mをつないでいる。
船の荷物を積み下ろすことなしに、船を台車に乗せて上下した。動力には、蹴上水力発 電所の電力が使用されていた。
田辺朔郎銅像
、1982年(昭和57年)11月、市民の寄付により建てられた。 • 疎水工事当時の写真をもとに作られたもので、28 歳でアメリカ合衆国に調査のために
旅立った際の姿を表していて、右手には設計図を持っている。
第4トンネル出口の扁額
第1疎水と第2疎水との合流点の北口洞門に「籍水利資人工」(すいりをかりてじんこう をたすく)と刻まれた田邉朔郎揮毫の扁額がある。
意味は「自然の水を利用して人間の仕事に役立てる」こと。出典は明治天皇が開通式に 寄せた勅語による。「籍」は土を鋤(すき)で起こすこと。「利」は「りえき」の意味、「人工」
は人為(人間の為すこと)を意味する。
蹴上発電所取水口・送水管
史 蹴上水力発電に送水するための長さ約350mの送水管。
周囲の景色に配慮して 茶色に塗られている。
取水口付近には、落ち葉やゴミなどを取り除くためのベルトコンベアが設置されている。
動物園向け用取水口跡
京都市動物園 向け用水取水口跡がある。 琵琶湖疏水の水はこの 動物園や現在15ヶ所ある 南禅寺別荘群にも送られ ていた。
別荘の場合、水は最も 高所に位置する別荘から 順に低所の別荘に送られ ている。
南禅寺トンネル
動物園向け用水取水口跡から水路閣への道の曲り角付近から若王子の哲学の道起点 付近まで約1000mの南禅寺トンネルが掘られている。 • 哲学の道散策路地下にこのトンネルから続く松ヶ崎浄水場に送水するための導水管が
埋設されている。
疏水分線
蹴上で第一疏水から分岐し、北白川、下鴨を経て堀川に至る全長 約 8.4Kmの疏水であった。戦後賀茂川以西の水路が廃止となり、現在は紫明通りと
なっているため、疏水分線は賀茂川までの約7Kmとなる。
疏水分線は、京都の他の川等と異なり、南から北へと流れている。琵琶湖から約 15Km 離れた洛北の地まで僅か19mの高低差しかないが、分線のルートは等高線に沿うように
設計されており、勾配が厳密に計算されている。
水路閣
南禅寺境内にある疏水分線の水路橋で、田邉朔郎が設計・デザインした全長約 93m、 最大高さ13m、幅 4m のレンガ、花崗岩造りの14連アーチ橋である。1885
年に建設が 始まり、1888年に完成した。
計画を示されたときは、南禅寺の境内に西洋風の赤レンガ造りの水道橋が作られること に、住民や関係者から反対の声が上がった。今でこそ「南禅寺の古めかしさになじんで、 一種の美をたたえている」と南禅寺は評しているが、当時は激怒したという事である。
このような景観論争に対し田邉朔郎は「煉瓦と花崗岩とで外見を美ならしめる」と入念な 完成予想図でもって反対派を説得した。
南禅寺プール跡
ねじりまんぽ東側に南禅寺プールがあった。他には、オリンピック選手も輩出した踏水会 で有名な夷川プールや若王子プール、京都近代美術館南側の白川分岐すぐ南にも
プールがあった。
写真は仁王門通を電車が走り、インクラインを舟車が登り、後方に南禅寺プールが見える。
ねじりまんぽ
「ねじりまんぽ」は、築堤の下を斜めに交差するトンネルなどで、アーチが垂直に荷重を 受けられるようにレンガを斜め螺旋に積む工法を指す。トンネル内部のレンガは渦を巻くよう に積み上げられており、強度を保つ工夫がされている。
市電の架線支柱跡
インクライン西側の仁王門通には市電が走っていた。
舟が山(インクライン)を登るとして 見物客にたいへんな人気だった。架線の支柱跡が 残っている。
水車から水力発電への転換
水利権等で難航した滋賀県などとの調整の遅れ、鹿ヶ谷地区での水車設置用地の買収遅 れにより田辺と高木文平(京都商工会議所初代会頭、京都電気鉄道会社社長)は、アメリカ
出張で水力発電に巡り合う。
水車動力利用が進んでいるという事前情報(川島織物の川島甚兵衛の視察)から ホリヨーク(マサチューセッツ州)を訪問したが、あまりにも広大なスケールで、
蹴上-鹿ケ谷に適用した場合、新たに 3 万坪の土地買収と水車タービン 25 基の 購入などの費用が掛かることがわかった。⇒ 水車動力は非現実的
渡米当時、米国では運河による舟運はピークを過ぎ、鉄道輸送に取って代わられつつあ った。日本でも早晩同じ運命を迎えるであろうことを二人は明確に悟り、“電気の時代” 到来を確信する。 ⇒ 舟運だけでは琵琶湖疏水は失敗するという危機感。
渡米中、コロラド州アスペン銀鉱山でデブロー兄弟が世界初の商業用水力発電実用化 に成功したという情報を得て アスペンで水力発電所を見学 する機会を得た。
蹴上発電所壁体の穴
第一次蹴上発電所には直流と交流が混在し、電圧や周波数も異なる大小合わせて 19 台の発電機が設置されていた。
照明・工場動力・路面電車の用途によって最適な電圧、周波数も異なる多様な種類の 発電機を導入した。
電気利用者には、各発電機から電圧、周波数も異なる電気が独立した電線で送られて いた。これらの穴はそれぞれの電線引出し口。
当初は、モーターの速度調整が容易でバッテリーへの充電に適することから直流発電機 が使われていた。
疏水工事においての幸運
北垣国道と大鳥圭介は友人であり、大鳥から田辺朔郎を紹介してもらったこと。
府の測量技師島田道生により疏水ルートの精度の高い測量が行われ、精巧な 計画図面が引けたこと。 島田は北垣と同じ但馬国。開拓使仮学校に入学、最新の測量技術を学ぶ。
疏水工事の起工が 1 年半遅れた事で、朔郎と高木文平はアメリカに出張し水力発電に 巡り合えたこと。
アスペンでは技術者デブロー氏が、訪問前のわずか2ヵ月前に完成した水力発電に 関するすべての知識と技術を教えてくれたこと。