井手の玉川
桜の並木道の所々に井手の山吹を題材として詠まれた和歌の歌碑が設置される。 日本六玉川の一つ。水が清らかで古来和歌にも詠まれてきた。 春には500本のソメイヨシノと山吹が咲く名所。昭和28年の南山城大水害で一時はその景観を失
ったが、地元の尽力により近年復活。両岸に21基以上の歌碑が建つ。平成の名水百選。
六角井戸
この井戸は、奈良時代の左大臣橘諸兄の別荘の井戸と伝えられる。もとは聖武天皇の玉井頓宮 (一時的な宮)にあったのを移したと伝えられる。 橘諸兄は、敏達天皇の5世の孫で、はじめ葛城王と称し、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓とな
る。母は橘美千代、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。737年(天平9年)天然痘の流行に より藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原4兄弟らが次々に死去したため、急遽大納言となり、
翌738 年(同10年)には右大臣に昇任し、一躍太政官の中心的存在となった。奈良時代の、律令体制 の整った全盛期をトップとして生きた。
橘諸兄は、ここ井手に住んだので、井手左大臣とも呼ばれた。 脇に、橘諸兄が聖武天皇を迎えた時に読んだとされる歌。 葎(むぐら)はふ賤しき宿も 大君の座積むと知らば 玉敷きかましを (雑草の茂るような家でも、いらっしゃると知っていたら 玉を敷いておくのでしたのに)
橘諸兄公旧跡の碑
橘諸兄の館があった。脇に橘諸兄の供養塔。奈良郡山市観光協会の植えた橘の木。 橘諸兄は756年引退。757年薨去(聖武天皇崩御の翌年)。享年74歳。終生玉川を愛し、山吹
を植え続け、川面を黄金色に染める情景を楽しんだ。 なお、橘諸兄は今の天皇の直系の祖先でもある。
宮本水車場跡
宮本水車の里は橋本水車と呼ばれていた。江戸時代の文化年間(1804-1818)に宮本三郎の息子の 喜左衛門が分家して水車を造った。明治初年に京都府が水車を利用する仕事(水車生業)の許可(官
帖)を与えた。その後、宮本家の人々がこの水車による搾油・精米・製粉を生業として従事し、 里人の便宜をはかり、喜ばれていた。昭和28年(1953)8月15日未明に山中の池(大正池と二ノ
谷池)が突如崩壊し、洪水を起こし、激流となり、一瞬にして水車も家屋も消失した。
石橋瓦窯跡
、奈良時代の瓦や窯跡の一部が見つかった。出土 した瓦は、大官大寺(後の大安寺)の創建瓦であることが判明した。天平9年(747)の『大安寺伽藍 縁起幷流記資財帳』に記される大安寺所有の「棚倉瓦屋(たなくらかわらや)」に比定され、国史 跡に指定された(2006年)。その結果、計画の一部を変更し、道路改良区間は、橋梁という形で遺 構を保存した。この付近には4基以上の瓦窯跡が存在すると想定されている。
小野小町塚
小町が仕えたとされる 仁明天皇(在位:833-850)の母である檀林皇后が橘奈良麻呂の孫にあたることから、橘氏の氏寺で ある井堤寺に住んだ。」という。その出典は、『冷泉家記(れいぜいかき)』に「小町六十九才井手
寺に於いて死す」、『百人一首抄』には「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」、 能の脚本である『謡曲拾葉抄(しゅうようしょう)』では井堤寺の別当の妻になった、などの記述
である。 小野小町歌碑:『色も香もなつかしきかな蛙鳴く 井手のわたりの山吹の花』
地蔵禅院
・橘諸兄が創建した と言われる。 南側に橘諸兄公墓がある。 1628 年 至心孝察が華厳宗から曹洞宗に改め、1856年賽山俊棟が現在の建物建立。
玉津岡神社の神宮寺 本尊の脇仏 不動明王、毘沙門天は 隣接にあった西芳寺の仏像 他に文殊菩薩と千手観音があり、1684年・雍州府志によると千手観音菩薩は橘諸兄の
持念仏であったと記されている 1867 年しだれ桜が京都府指定天然記念物になる 1727 年 境内の桜より株分けされた桜で280年になる。 円山公園の桜が1927年に枯死の折、当院から株分けされている
玉津岡神社
史540 年(欽明天皇)下照比賣命が降臨 大国主命の娘 玉岡の社としてが起源。玉岡春日社―八王子社と称号が変遷 1878 年 八王子社、春日社、田中社、八坂社、天神社の五社 天神社は椋本天神社を移したもの (天平3年731年9月) 橘諸兄とその一族の楠木正成を合祭した橘神社がある 社紋―流れ山吹 楠木正成の家紋 菊水と同じ
五重塔基壇跡
令和 2 年の発掘調査でこの地に一辺15.3mの塔基壇跡が発見され、五重塔と推定される。町役場 の広場の基壇跡、色違いの石ブロックが往時を偲ばせる。
基壇の中心部から地鎮のために埋葬されたと思われる銭貨「冨壽神寶・ふじゅしんぽう」(818年初 鋳)が出土したことから、平安時代前期に建立されたと推測される。
このことから、橘諸兄の曽孫で嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子により建立したと考えられる。
井堤寺址
橘諸兄が一族の繁栄を願い建立した寺院跡とみられ、府道改良工事により柱穴が確認された。また 礎石、銅銭、鏡や軒瓦なども出土した。 井堤寺(いででら)は円堤寺とも称され、天平時代の左大臣橘諸兄が母三千代の一周忌にちなんで 創建した氏寺と伝わる。造営に当り諸兄は、金堂の四面に山吹を植え、黄金色の花・山吹が水に映 る風情を楽しめるよう工夫されたとか。七堂伽藍の壮大な威容をであったと伝わる・ 現在は田園地帯ですが、通称名で「薬師堂」や「堂の上」などの地名が残る。
蛙塚
井手を歌った和歌の中には、蛙に関するものが83首を数え、古来より井手は歌枕(「玉井」「山吹」 「蛙」)の地として有名です。
鴨長明の著した歌論書『無名抄」には、「井手の蛙は大きさが普通の
蛙と同じくらいであるが、色は黒くさほど飛び歩かずいつも水の中にいて、夜がふけるとその泣き
声は清らかで、人の心をしみじみとさせる」と記されています。
蛙塚のいわれについては、奈良前期にこの辺りを別業として所領していた橘諸兄がこの地に三本足
のカジカガエルを埋めたという伝承が残されています。
南山代水害水難記念碑
、1953(昭和28)年8月14日から8月15日にかけて京都府南部(綴喜郡及び相楽郡) に、集中豪雨が原因となって木津川の支流で発生した水害のことです。南山城地域は、南下してき
た寒冷前線が停滞したため、集中豪雨に襲われ、山間部では 400 ミリを超える記録的雨量となりました。
この大雨により、各地で山崩れが起き、大量の流木を含む土石流が発生したため、多くのため池や 木津川支流の堰提や堤防が決壊しました。ことに井手町では、低地での浸水が始まり、玉川下流の
右岸(北側)で順に越流・決壊が起こりました。そこへ玉川上流にあるため池の「大正池」と「二ノ 谷池」がほぼ同時に決壊したことで山津波が発生し、これにより玉川上流でさらなる決壊が発生し、
土石流が引き起こされ、甚大な被害に見舞われることになりました。
