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地図

四条通の南北
― 町衆の暮らす町・史跡の宝庫 ―

四条通が新町通と交差するあたり 北南は、京都 町衆が豊かな資金力を持つ商工業者と公家、武士の家来も加わり、祇園祭を再開、茶道、華道、 能楽などの担い手となり、都に伝わる様々な年中行事を引き継いで、応仁の乱後の荒廃した 京都の復興を図りました。

1 高松神明神社

醍醐天皇の皇子、正二位左大臣源高明が高松殿を造営。 伊勢から天照大神を勧請し鎮守の社として祭った。
・ 源高明の娘明子は、藤原道長と結婚し、高松殿を住居とした。 その後、後白河天皇が高松殿で即位、里内裏として使う。
・ 保元の乱(1156)では、後白河天皇方の本拠地となり、源義朝や平清盛らが参集した。 続く平治の乱(1159)で、高松殿は焼失し当社のみが残った。
・ 室町時代 宥玉法印が社僧となり 「神明宮 宝性院」と号し、真言宗 東寺宝菩提院に属す。 寛政6年社僧が、紀州九度山真田庵にあった真田幸村の念持仏を拝領し、 「幸村の知恵の地蔵尊」として祀る。明治の「神仏分離令」まで、神仏混合であった。





2 大西清右衛門美術館

大西家は室町時代から続く茶の湯の釜師の家 四代目以降 清右衛門を名乗る。 「千家十職」の一家 三条釜座に、代々の清右衛門の作品を展示、併せて工房を持つ 当代は16代目



3 くろちく

八竹庵 丹後ちりめん素材の衣服を 展示・販売している 医師 荻野元凱の屋敷跡に,綿布商の井上利助が大正15年住宅兼商談用に和洋折衷の町屋 を完成。後に川崎家が所有し白生地を商う。茶室は「紫織庵」とよばれた。 その後、建築設 計・町家再生を手掛ける 「株式会社くろちく」 が所し、山鉾八幡山の「八」と黒竹氏の「竹」 から八竹庵と名付け、一般公開している。 祇園祭の後祭で 【八幡山】を出す。
三井両替店 江戸で「越後屋呉服店」を創業した三井高利が、貞享3年(1686)上洛し、 両替店を開いた。「越後屋」の由来は、武士だった高利の祖父が「越後守」を名乗ったこと による。三井高利は、京を江戸、大坂を併せた三都をまたぐ両替事業の本部として、貸付、為 替、(金銀通貨の交換)などを行っていた。両替業と呉服販売業は、三井の主要事業となり、 近代三井発展の基礎となった。
無名舎 (旧吉田家) 明治42年棟上げの白生地を商った商家。典型的な「表屋造」 二階の千本格子とばったり床几が残る。季節ごとの「設らへ」を体感できる生活工芸館。 祇園祭の後祭で 【北観音山】を出す。



4 南蛮寺跡

京都のキリスト教布教は、ビレラ神父が入京した1559年から本格化し迫害にあいながら 織田信長の保護もあり信者は拡大する。当初の南蛮寺は、此処の石標の北側、姥柳町に あったと推定される。1576年にイエズス会のオルガ ンチィーノと高山右近、村井貞勝等の援助で、三 層楼閣風の南蛮寺(教会)が完成、珊太満利亜(さ んたま りあ)上人の寺と呼ばれた。158年秀吉 は、宣教師追放令を発しキリスト教弾圧に転じ、 南蛮寺も破壊された。




5 茶屋四郎次郎邸跡

茶四郎次郎は、江戸時代京都の豪商。徳川家康の伊賀越えに活躍したこともあり、御用商人の 地位を確立した。茶屋は屋号、本姓は中島、代々四郎次郎を名乗った。 朱印船貿易商・糸割符商で、家康の側近として徳川政権確立に大きな役割を果した。 京都商人の総筆頭、角倉、後藤とともに京都の三長者と称された。 ・ 糸割符(いとわっぷ) :江戸時代に幕府が導入した、中国産生糸(白糸)の輸入を統制 するための制度。銀の流出を抑制する目的。特定の商人に生糸の輸入独占と国内 商人への独占的卸売権を与え、その権利を示す証札を「糸割符」と呼んだ 。





6 膏薬辻子

天慶の乱の後、平貞盛、藤原秀郷に討たれた平将門の首は平安京に送られ、都大路の 東市で獄門にかけられた。空也上人は、将門の首が晒された地に堂を建て手厚く供養する。 空也供養の道場と呼ばれ、「クウヤクヨウ」がなまってコウヤク、細い路地に位置することから “膏薬辻子”の地名になったと伝わる。
神田明神は、江戸時代の地誌『京雀』の「かうやくの辻子」のくだりに、「又此町の南にて行當 神田明神の社有」と記載されている。『拾遺都名所図会巻一』には「天慶 3 年に平将門の首 3 を晒したところで、それよりこの地に家を建てると祟りがある、空也上人は将門の亡霊をここに 供養し、石を建て印とした」という内容が書かれている。 東京の神田明神の本社ともいわれ、平將門の首が晒された地に残る祠である。



7 杉本家住宅

。元は大店呉服商「奈良屋」で、江戸時代の熟練京大工の技量 が存分に発揮され、技術性、意匠性共に高い評価を受けている。 ・ 平成22年、国の重要文化財指定、平成23年建物内外の「庭」が国の名勝指定。 指定の「庭」には座敷庭、玄関庭、店庭、露地庭、坪庭および屋内の走り庭が含まれる。 植栽されていない屋内の通路兼作業場である「庭」が名勝指定されたのは杉本家住宅が 初である。祇園祭前祭の 【伯牙山(はくがやま)】のお飾り処で、宵山期間中は会所飾りがあり 住宅内部も公開される。




8 長江家住宅

・ 1822 年、長江家三代目の大坂屋伊助が入町し、代々呉服卸商を営なむ。禁門の変の大火 で家屋はすべて焼失、その後1868年再建、京都市指定有形文化財。 宵山の屏風祭に参加している。
屏風祭 :宵山期間中、店の間や座敷に毛氈、緞通を敷き、古美術品、屏風、衣装などを飾る。 この習俗は江戸中期にはじまった。長江家住宅では家の旧蔵品を所有する立命館大学と 連携して、7月14日から16日の間に一般公開している。





9 菅大臣神社

・ 菅原道真公を祭神とする神社。この地は道真公の邸や、菅家廊下といわれた学問所の跡で 誕生の地と伝えられ、誕浴の井戸が保存されている。 また「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」 と詠まれた 飛梅の地と伝えられる。
・ 神社は度々兵火にさらされ、鎌倉時代に南社 白梅殿社と、邸宅跡の北社 紅梅殿社(北菅 大臣神社)に分離された。天明の大火、元治の兵乱で再度焼失、現本殿は、1835年造立の下 鴨神社の旧殿を、明治2年に移築した。その後幣殿を建立した。八棟造、銅巻柿葺の建築。




10 道元禅師示寂地

曹洞宗の開祖道元禅師終焉の地。
1200年京都で生まれ、父は内大臣久我通親、 母は摂政関白藤原元房の女伊子、幼くして父、母の死にあい比叡山で出家。 栄西の門に入り禅を学ぶ。1223年南宋に渡り、如浄禅師の元で 坐禅修行に励み正伝の仏法を受け継ぐ 1227年帰国。 「ありのままの姿が そのまま仏法であり、日々の修行が そのまま悟りである」と示す。
1233 年深草に興聖寺(後に宇治に移る)を開き、坐禅を勧めるも、比叡山から外圧が加わる と、越前の山中に永平寺を建立。座禅の厳格な宗風を確立した。 晩年永平寺を懐奘(えじょう)禅師に譲り京の覚念宅へ移る。1253年54歳で生涯をとじる。史





11 秦家住宅

・ 近年まで漢方薬の卸・販売業を営む。 大屋根の表庇に、「奇應丸」の看板を掲げガス灯が載る。小児薬奇應丸は、 虚弱体質、ひきつけ、夜泣き等に効があるとされ、麝香、牛黄、龍脳、白朮(ジャクジュツ) 人参、沈香などの生薬を調合した薬。京都市指定有形文化財 住宅が面している油小路通仏光寺下ルは、前祭で【太子山】を出す。真木は唯一杉を 建てる。
■ 前祭りの【油天神山】 会所は、梅鉢医院の前、公家の風早家に祀られていた天神さんが由来




12 26聖人発祥の地(銘板)

・ 銘板が掲げられたこの場所は、以前は「京都四条病院」で、現在は「アーバンホテル京都 −四条プレミアムホテル」である 5 ・ ここから西へ100mの妙満寺町に、1594年フランシスコ会のペトロ・バプティスタ神父に より、 聖マリア教会 病院 学校 スペイン使節館が建てられた 建設された聖アンナおよび聖ヨセフ病院は、京都最初の西洋式病院で、貧しい人々が 多く収容されていた。
石標 妙満寺は,当初室町六条坊門に建立され,後に応仁の乱、天文法華の乱でこの地に移転、 1583 年,豊臣秀吉の命で寺町二条へ移った。 フランシスコ会のペトロ・バプチスタ神父は、妙満寺の跡地を与えられ、ここを拠点にして 布教活動を行った。 妙満寺の跡地でもあり、後の弾圧で処刑されて聖人に列せられたキリスト教徒26人の 発祥の地の石標が建つ





13 サンフランシスコの家(フランシスカチャペル)

16 世紀に伝わったキリスト教は、京都でも活発に布教され、後に弾圧された。1594年、 秀吉から岩上通四条下ルに土地を拝領したフランシスコ会のペトロ・パプティスタ神父は、 教会、病院、修道院を建て布教と治療にあたっていた。1595 年秀吉はサン・フェリペ号事件 を契機にキリスト教弾圧に乗り出し、1597年捕らえられた26名は長崎に送られ磔刑に処され た。当時の教会寺院の跡地にキリシタン灯籠が残されている。




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