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源平盛衰の跡を訪ねて

平安京の表玄関を巡る

奢る平家は久しからず・・・の言葉どうり「西八条殿」栄華の跡形もない梅小路公園を出発
王朝時代の名残りを留める各史跡を巡り、源平興亡の歴史に思いを馳せ、
平安京の表玄関に威容を誇っていたであろう「西寺」や「羅城門」、国家鎮護の祈願に支えられて
今なお壮大な伽藍のたたずまいを残す「教王護国寺・東寺」まで、ゆっくり歩いて約3時間のコース

西八条殿・平家邸跡
  ここ梅小路公園を中心とする六町歩にわたる広大な一帯に、平清盛が六波羅とは別に「西八条殿」を造営。
 頼盛、重盛、宗盛など平家一族の邸宅五十余宇の甍が隆盛を誇った。
 鹿ケ谷の謀議が発覚し、首謀者西光法師が清盛のきびしい詰問を受けたのがここであり、
 また白拍子祇王・祇女や仏御前の物語の舞台となった所でもある。
  しかし、寿永二年(1183)七月の平家都落ちに際し、すべてが焼き払われ地上からまっ たく姿を消してしまった。
 今は、花の咲きほこる公園の一角に京都市の立てた平家邸跡の駒札で往時を偲ぶだけで ある。

  梅小路公園を出て七条通りを西へ、JR山陰線ガードをくぐると松尾神社朱雀御旅所、
  朱雀御坊、権現寺、源為義墳墓が続く

          
源為義墳墓

 源為義は世に六条判官と呼ばれ、源氏の棟梁だったが「保元の乱」の戦に敗れ、
長男義朝の臣・鎌田政家によって朱雀の地で切られた、61歳だった。
この塔は五輪の石塔を寄せ集めて七輪の塔とし、その傍に京都府が建立した石碑がある。
 碑文によれば、もとこの墓は葛野郡大内村大字朱雀小字堂口22番地(今の中央卸売市場)
にあったものを、明治45年京都駅停車場拡張のため、ここに移したとある。



     七条御前通りを下り松尾神社御旅所を訪ねながら少し歩き、御前西小路通りを西に入り水薬師寺を訪ねます

        水薬師寺
              境内弁天堂の床下に岩井水(薬師井)があり、近年まで清泉を湧出していたが今は枯れている。
              かって平清盛が熱病を患って、この水を汲んで浴したところ、水はたちまち湯となって快癒したと
              言う伝説があり、江戸時代にはこの水に浴し、または服用すれば病気は平癒すると信じられた。
              水から発した薬師信仰の一遺跡である。

            御前通に戻り、少し下がると、通リをはさんで東に梅林寺、西に円光寺がある

梅林寺・円光寺
この一帯は陰陽師阿倍家の所領地であったと伝え、土御門家の屋敷跡であったところである。
梅林寺境内墓地には、阿倍仲麻呂一族の墓および土御門家の墓がある。
土御門家は阿倍清明の20代後裔の泰重のときから土御門の称号を許され、陰陽道をもって
朝廷に仕えた。
円光寺の庭には、阿倍清明が天文台に使用したと伝える台石があり、自由に見学させてくれる。。



   さらに御前通りを下がり、JRの長いガードをくぐり抜けると右側に西寺がある。この寺は平安京造営時に建立された西寺でなく、
   後に出来た西方寺が西寺に改称され、門前に「守敏塚」の石碑を置き、僅かに往時を偲ばせている。
   ここから東寺道を東に入り一筋目を下がると「西寺跡公園」に出る

 西寺跡
  西寺は桓武天皇により平安京造営時に、東寺と共に建立された官寺である。
  羅城門から大内裏までの朱雀大路(今の千本通)を対称軸に東寺と同じ
規模で建立されたが、地上に往時を偲ぶ遺跡は何一つ無い。
  昭和35年以来4回にわたって発掘調査が行なわれ堂宇の基壇や
礎石の一部が確認された。
  公園中央土壇にある3個の礎石は発掘された金堂の礎石である。

   

九条通に出て東進すると千本通上ル角に、矢鳥地蔵、羅城門跡がある

 矢取地蔵
  平安初期、東寺の空海と西寺の守敏が神泉苑で雨乞いの法力を競い、空海が勝った。
  破れた守敏は空海の名声を妬んで、空海の帰りを待ち伏せて背に矢を射掛けたところ、
  地蔵さんが現れて、矢は地蔵の背に当り、空海は救われた。
  それより矢取地蔵と呼ばれ、この地の伝説となっている。

羅城門跡
平安京の正門として朱雀大路の南端九条大路に面して建ち、はるか北の朱雀門と相対していた。
門は重層、瓦葺、棟の両端に金色燦然たる鵠尾を上げた堂々たる大門だったが、
天元3年(980)の台風で倒壊し、その後は再建されることは無かった。
 江戸時代までは礎石が残っていたと言うが、今は公園中央に「羅城門跡」と記した石碑以外に
何も残っていない。




羅城門跡横の通りを北に進み、JR線手前を東に入ると六孫王神社がある

 六孫王神社
 清和源氏の祖と仰がれる源経基(みなもとつねもと)を祭神とする神社。
父が清和天皇の六番目の皇子(貞純親王)で清和天皇の孫に当り六孫王と言われる。
この地は源経基の邸宅のあったところで、経基の死後、嫡男の満仲が社殿を造営したと伝える。
現在も社殿のうしろに神廟があり石基壇の墓がある。
 また境内の石灯篭数基は、松平吉保をはじめ徳川譜代の大名が寄進したもので、江戸時代に
おける武家の信仰のほどが偲ばれる。


  
壬生川通りを下り、西門から東寺に入り今回のウォークは終りです

      教王護国寺・東寺
         桓武天皇が平安京造営に際し、国家鎮護のため、南の正面・羅城門をはさんで、朱雀大路の東に建立された官寺。
         同時期にに建立された西寺が、早期に衰退したのに対し、東寺は、しばしば兵乱に荒廃したものの
再建を重ね、現在の姿をとどめている。国宝、重文をはじめ事跡の山です。
ここはゆっくり時間をかけ、往時を偲んで下さい。