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地図

長岡宮と鶏冠井の法華寺院

長岡京は、延暦3年(784)に平城京から遷都され、延暦13年(794)に平安京に遷都されるまでのわずか10年間、桓武天皇の下で乙訓の地に営まれていた都で、鶏冠井は西日本最古の法華(日蓮宗)集落として知られています。


1 朝堂院公園

長岡宮の中心にある国家の政務・儀式を行う場所です。
朝堂院は南北に長く、長方形と正方形を重ねた形で、北側の長方形の区画を「大極殿院」、南側の正方形の区画を「朝堂院」と呼びます。東西に4つずつ、計8つの瓦葺礎石建物であった朝堂が置かれ、中央に太政官や八省の官人、親王らが政務や儀式に臨席する場の「朝庭」がありました。朝堂院南門「会昌門」の両側に平成17年(2005)に楼閣の遺構「翔鸞楼」跡が発見されました。翔鸞楼は唐の長安城にルーツを持ち、長岡宮で初めて導入され平安宮に引き継がれました。



2 大極殿公園

大極殿は、政務や儀式の際に天皇が臨御する建物です。昭和391964)年に国の史跡になりました。北側に控えの間の「小安殿(後殿)」があり、四方を廊下付きの塀(回廊)で囲われていました。石敷きの前庭には元旦朝賀に7基の「宝幢(のぼり旗)」が立てられ、現地にその柱が復元されています。宝幢の南に「閤門」とよばれる正門があり、その南側に朝堂院(太政官院)の区画がありました。



3 北真経寺

日蓮宗 山号:鶏冠山      本尊: 三宝尊
真経寺は鎌倉時代末期、日像が関西最初の日蓮宗寺院として創建したもので、江戸時代に南、北の二寺に別れました。北真経寺には日蓮宗京都六檀林の一つ「鶏冠井檀林」が置かれ、当時は100名を越える学僧たちが生活を共にしながら勉強をして、明治維新まで隆盛しました。
現在の本堂は当時の講堂にあたり、檀林の面影を残す貴重な建物として京都府の登録文化財になっています。また、北真経寺の境内北半部は、長岡宮の登華殿・弘徽殿・貞観殿・淑景舎など内裏後宮にあたり、南門を出た所には長岡京最大の建物であった内裏正殿(梁間3間、桁行9間、床面積約242坪)跡があったことが調査で確認されています。


4 旧上田家住宅

明治43年(1910)に建築され、旧国鉄時代の新線計画に伴い、昭和17年(1942)現在の場所に移転しました。敷地内には移築された主屋、内蔵、外蔵と移転後に新築された離れ、門、塀が並びます。
ここは長岡宮の第2次内裏「東宮(ひがしみや)」にあたり、旧上田家住宅の敷地では正殿を囲む内郭築地回廊が確認され、今も建物の内外に遺跡の一部〈築地回廊〉の柱や雨落ち溝などの位置を示す表示があります。



5 長岡宮築地跡(南内裏公園)

朝堂院のすぐ南東にあたる長岡宮の役所を囲む塀の跡で、幅2.1m、高さ4.5m、南北63mが保存され、昭和56(1981)に国の史跡に追加指定されました。発掘された木簡により、太政官関係の建物が宮域の南東部にかたまっていたと推定されています。長岡京のなかで唯一地上に痕跡をとどめる貴重な遺跡で、長岡宮内裏内郭築地回廊の真南・一直線上にあたり、長岡京の建物が規則的に建築されていたことを裏付けています。



6 石塔寺

山号:法性山 本尊:十界大曼荼羅
堂内に「南無妙法蓮華経」の7文字を刻んだ題目石(題目板碑)が安置されています。日像は、延慶3年(1310)に京の七口に通じる街道沿いに題目を刻んだ石塔を建てたと伝わり、東寺口に通じる西国街道沿いのこの地に建てた石塔がその題目石で、文明年中(146987)にこの石塔の傍らに日成が本堂を建立して寺院としたのが始まりと伝わります。江戸時代には、西国街道を挟んで西向かいの「御塔堂」に題目石が安置されていたようですが、明治時代以降に、東側に移転しました。周辺には、「御塔堂」にちなんだ「御塔屋敷」「御塔下」「御塔道」などの地名が残っています。



7 南真経寺

山号:鶏冠山 本尊: 三宝尊
日像により日蓮宗に改宗した真経寺は、承応3年(1654)日祥が真経寺を南北2寺に分割しました。南真経寺は「鶏冠井興隆寺」の境内を借りる形で移転して、地域住民の信仰の場としての役割を担いました。鶏冠井興隆寺は、天正末年(1590)前後に妙顕寺10世の日堯(にちぎょう)が開いたといわれ、豊臣秀吉が加護し、境内は東西約120m、南北約140mと広大で、周囲は高さ約3mの兵と堀で囲まれていました。付近では安土桃山時代の金箔軒丸瓦も出土しています。興隆寺は明治8年(1875)に鶏冠井村の石塔寺と合併して廃寺となり、現在は石碑と土塀跡を残すのみとなっています。南真経寺は最初に開山堂を建立し、その後本堂、梵鐘、鐘楼などが整備されていきました。開山堂は境内の中央に南面して建つ入母屋造瓦葺建物です。2本柱で支えた正面の一間の向拝をくぐると広い階段があり、五間四方で周りに縁がめぐらせ、木口に沿い軒支柱を配置しています。堂内は、北寄りに仏壇、お供物を置く内々陣(一間四方)、僧がお経をあげる内陣(三間四方)、参拝者の坐る外陣に分けられています。仏壇の後ろに脇仏壇が2つありますが、このような建物の使い方は江戸時代の日蓮宗寺院の特有のものです。内陣には十界曼荼羅と日像上人像が安置されています。棟札より寛永19(1642)に完成したことが分かっており、京都の日蓮宗寺院では2番目に古いものです。



8 説法石

鎌倉時代末期、日像上人が京都で法華経を布教中、他宗派からの迫害を受け、度々京都から追放されました。徳治2年(1307)年の追放で西へと向かう道中で、向日神社に立ち寄ったとき、そこに2羽の白いハトが飛んできて、日像の衣の裾をくわえて離さなかったそうです。そして鶏冠井村のお年寄りが日像に教えを請いました。日像は参道の木陰の石に座って説教をはじめ、人々の心をとらえました。評判を聞いて、村人が次々と日像を訪ねます。日像は熱心に仏の道を説き、法華経の信者はどんどん増えていったそうです。この「説法石」は大正10年(1921)参道から現地に移されました。


9 向日神社

もとは上下二社に分かれ、現社地は上社で「向日神」(五穀豊穣)が、別に下社として「火雷神(ほのいかづち)」(鎮火、祈雨)が鎮座され、延喜式の「乙訓坐火雷(おとくににますほのいかづち)神社」とも言われていましたが、下社が荒廃し建治元年(1275)に上社に合祀されました。現在の向日神社には向日神・火雷神に加え、火雷神の后という玉依姫命(たまよりひめのみこと)、下社を創建したという神武天皇も祀られています。そのため、上社の向神社は五穀豊穣の神として、下社の火雷神社は祈雨と鎮火の神として、朝廷からも篤く敬われました。また、鎌倉中期から南北朝時代には地域の有力者の寄合や一揆の集結地にもなるなど西山惣国の中心となりました。
本殿は応永291422)年に上棟され、室町時代の建築様式の三間社流造、檜皮葺のものですが、覆屋に納められているため、外から見ることができません。もとは南向きに建てられていましたが、天保年間に東の参道と向き合うように本殿の配置をかえたそうです。国指定重要文化財で明治神宮のモデルになったといわれています


10 元稲荷古墳

元稲荷古墳は3世紀末の「前方後方墳」で、「元稲荷」の名は、後方部頂上にかつて向日神社の稲荷社があったことに由来します。前方後方墳で乙訓地域では最古の古墳となり、全長約94m、後方部は一辺52m、高さ7m、「マツリ(死の世界への弔い儀式)」が行われる前方部の幅46m、高さ3mの規模となります。
後方部は三段築成で、中央には割竹形木棺が納められていた竪穴式石室があり、石室の全長は5.6m、幅0.9m1.3m、高さ1.9m。天井石は11枚(向日市文化資料館にあり)。副葬遺物として、刀剣、鏃(やじり)などの鉄製武器、斧、錐(きり)などの鉄製工具、土師器壺などがありました。後方部斜面の葺石(ふきいし)が、扁平で大きな礫をタイルのように一重に貼っただけであること、円筒埴輪と壺型埴輪の出土から古墳時代前期でも古いものであることとされています。


11 桜の園

桜博士と言われた植物学者笹部新太郎(ささべしんたろう)は、向日市に大きな土地を買い、昭和101935)年頃から桜の苗圃(びょうほ:苗木を育成するための場所)を設けて日本古来種のサトザクラ、ヤマザクラの保護育成に尽くしました。この苗圃は、水上勉の小説「櫻守」の舞台となりました。
しかし、昭和341959)年からの名神高速道路の整備に大量の土砂を必要としたことから、土取りのため苗圃が消滅してしまいました。
現在、桜の園まちづくり協議会が「桜ミュージアム桜の園」の実現に取り組んでいます。向日神社参道の桜も、笹部新太郎ゆかりの桜だそうです。



12 向日市文化資料館

常設展示「長岡京の歴史と文化」として、長岡京に関する資料を一堂に集めて展示しています。小テーマを付したコーナーを設け、各階層の人物像を中心にそれぞれの果たした役割、仕事内容を考古資料やパネルを使って説明しています。
  長岡京棄都
長岡京が10年間で廃止され、平安京へ移されることになったのは、突然やむをえない事情が起こったためと考えられます。その原因として,怨霊説と洪水説の二つがあります。怨霊説は,785年,長岡京の造営を中心的に進めた造営長官藤原種継が暗殺され,その容疑者として皇太子早良親王が捕らえられ,無実を主張して憤死した事件以後,桓武天皇の周辺に不吉なことが相次いで起こり,その原因が早良親王の怨霊によるものと信じられたためであるとするものです。洪水説は,長岡京が都としての立地が悪く,度重なる洪水,とくに792年の長岡京左京部分が冠水した大洪水により,桓武天皇に長岡京を捨てる決心をさせたというものです。さらに造都が計画通り進行しなかったことに対する焦燥感があったともいわれます。


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