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ウォークの地図

新緑の岡崎エリアを歩く

岡崎界隈の白川沿いの史跡を歩き、平安期の六勝寺跡や明治以降の産業振興、琵琶湖疏水関連の史跡を会員30人と賛助会員や一般参加者115人で青葉の岡崎を歩きました。

  子弟愛の碑

知恩院東門横の「師弟愛之像」の台正面には吉井勇が詠んだ「かく大き愛のすがたをいまだみずこの群像に涙しながる」の歌碑がはめ込まれている。裏面には「師弟愛の像」再建によせて、という京都市長高山義三が記した碑文がある。碑文には「室戸台風(昭和9年9月21日)で失われた162名の学童とこれら学童を守って殉職した 4 名の教員の悲しみを永遠に記念するために師弟愛の像が建てられた」とある。像は淳和(現西院)小学校で児童をかばい亡くなった松浦寿恵子先生を顕彰したもの。第二次世界大戦の折には金属供出され、昭和35年(1960)に再建。先生は31歳だった。


  知恩院

浄土宗の総本山で山号は華頂山。法然上人が1175(承安五)年に吉水の地に草庵を結んだことが起源とされている。法然の没後は、1234年(文暦元年)に弟子で第2世源智が    再興した。第87代四条天皇から寺号「華頂山知恩教院大谷寺」を賜る。その後火災や応仁の   乱で焼失したが、江戸時代前期の1608年(慶長13年)に徳川家康が諸堂を    建立し、2代将軍徳川秀忠、3代将軍   徳川家光が引き継いだ。
国宝の三門(※)は元和7年(1621年)、徳川2代将軍秀忠の命を受け建立。高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦  約7万枚。その構造と規模において、 わが国最大級の木造の門。「華頂山」の額の大きさは畳2畳以上。(第百十二代の霊元天皇の筆による)
知恩院の三門は、南禅寺と山梨県にある久遠寺と並ぶ日本三大三門の一つ。



  瓜生石(うりゅうせき)

知恩院七不思議のひとつで、知恩院が建立される前からあるといわれる。瓜生石という名には、この石には誰も植えたおぼえがないのに瓜のつるが伸び、花が咲いて瓜が青々と実ったからという説と、八坂神社の牛頭天王が瓜生石に降臨し、一夜のうちに瓜が生え実ったからという説がある。また  石の下を掘ると二条城まで続く抜け道があるという話や、隕石が落ちた場所である等、さまざまな話が言い伝えられている。


  得浄明院(ちくじょうみょういん)

1894年(明治27年)に善光寺の京都別院の尼寺として建立された。
「関西の近くで善光寺如来とのご縁を結ばせたい」との思いから建立されたのが得淨明院のはじまり。山号は本覚山、本尊は一光三尊の善光寺式阿弥陀如来。
本堂には善光寺に倣って一光三尊阿弥陀如来像を安置し、本堂脇の階段を下りて「戒壇巡り」ができるようになっている。戒壇巡りとは、本堂の床下にある真っ暗な回廊を巡り「極楽の錠前」に触れることで、真上の御本尊と結縁を果たす道場のことをいう。一光三尊の善光寺式阿弥陀如来像の一光三尊は、中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が大きなひとつの光背の中に立っていることからこの名がある。
善光寺式の阿弥陀如来は印相に特徴があり、 下げた左手は「刀印」という人差し指と中指を伸ばし、他の指を曲げる珍しい形を取る。
通常非公開だが、アヤメ科のイチハツの花の  見頃に合わせて「戒壇巡りと一初鑑賞会」と称して特別公開を行っている。史跡の説明4


  一本橋

本橋は、比叡山延暦寺の千日回峰行を終えた行者が、粟田口の尊勝院の   元三大師に報告するために京都の町に 入洛する時に最初に渡る橋だったことから行者橋、または阿闍梨橋とも言われている。
一本橋はいつ架けられたかは明確ではない。千日回峰行を達成した行者が渡ったとされていることから平安時代には架かっていたとも言われている。一本橋が最初に文献に登場するのは1786年(天明6年)で、橋本経亮(はしもとつねすけ)が記した「橘窓自語(きっそうじご)」に見える。また 一本橋は江戸時代に粟田神社の祭礼・粟田祭の際、剣鉾が差して渡る曲渡りが呼び物だったとも言われている。現在の一本橋は1907年(明治40年)に架け替えられたもの。御影石造り。日本百名橋の番外に選ばれている。


  明智光秀の首塚

山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹薮で農民に襲われて自刃、最期遂げた。光秀の首は家臣によって知恩院近くの山麓に埋められたが、すぐに発見され、粟田口に数日間晒された後、近くに埋められて光秀の首の上に塚が築かれ、五重の石塔が立てられたという。
江戸中期頃、明智光秀の子孫によって現在地に移された。1780年の「都名所図会」には、木が茂った塚の様子が描かれている。(府内には、亀岡・谷性寺、宮津・盛林寺にも光秀の首塚があるが、真偽は不明)
五重石塔は、拝むと首より上の病に霊験(ご利益)があるとされ、また、首塚の路地の入り口にある和菓子屋「餅寅」の店主は首塚を守る「梅光会」の中心メンバーで、名物「光秀饅頭」を販売されている。


  三条白川橋道標

340年前の延宝6年(1678)に建立された京都市内で最古の道標(京都市登録文化財)。
北面には「三条通白川橋」、南面の上部には「京都為無案内旅人立之」(東海道を下って大津方面から京都に不案内な旅人のために建てた)と書かれている。東側には「是ゟ[より]ひだり/ちおんゐんぎおんきよ水みち」(是(これ)より左/知恩院・祇園・清水道)と書かれており、三条大橋の手前のこの道標で左の方向へ行くと、知恩院、祇園、清水寺に近道だということを教えてくれているものになっている。
また、南面の下部には「白川橋道標 延宝六戊午三月吉日/施主/為二世安楽」と記されており、道案内をして人を助けることが、現世と来世の安楽につながり、功徳になるという考えが 記されている。残る西面には文言は刻まれていない。20016月に当て逃げされて折れたが、 修復されている。


  並河七宝記念館

並河靖之は川越藩京都留守居役京都詰役人の三男として京都で生まれ、子供のころに門跡寺院青蓮院の坊官職の家に養子に入る。1873年ごろに副業として東山三条の白川沿いで七宝業を始め、1878年に専業にした。1889年のパリ万国博覧会での  金賞など数々の賞を受賞し、日本を代表する七宝作家として名声を得た。
靖之が制作する花・鳥・蝶や風景を優美に表す花瓶や皿などの典雅な趣は、青蓮院門跡へ仕える傍らで靖之が身につけると共に、久邇宮家にゆかりある美的感覚の現れとも言われる。
庭園は隣同士で親しかった七代目小川治兵衛が、「無鄰菴」で名を上げる前に手がけた最初期の庭園である。琵琶湖疏水を利用した「水の庭」で、大部分をしめる池から急激に浅瀬へ向かい、棗形(なつめがた)の手水鉢で二手に分かれる流水は、躍動感に富む斬新な構成となっている。


  七代目小河治兵衛旧邸

「植治」(うえじ)の屋号でも知られる七代目小川治兵衛(源之助)は明治から大正期の名庭園を数多く手がけた近代日本庭園の先駆者とされる作庭家。乙訓郡神足村(現長岡京市)生まれで、1877年小川家の養子となり、1879年七代目小川治兵衛を襲名した。
七代目小川治兵衛の作庭は、自然の景観と躍動的な水の流れを組み込んでいるのが特徴。並河庭園と同じく琵琶湖疏水を引きこんだ無鄰菴(山縣有朋別邸)、平安神宮神苑、円山公園、清風荘(西園寺公望別邸)などが国の名勝に指定されている。他に住友家・三井家・岩崎家庭園、藤田小太郎邸(後に洛翠庭園。現ユニクロ柳井会長邸宅)、高瀬川二条苑(角倉了以別邸跡・山縣有朋別邸。現がんこ二条苑)などの作庭と、修学院離宮、桂離宮、二条城、清水寺、南禅寺、妙心寺、法然院、青蓮院、仁和寺等の復元修景などを手がけた。


  白川の付替え

1890年の鴨川運河開通により、それまで現在の南禅寺船溜まりから現在の無鄰菴(1896年 完成)を突っ切って西に流れていた白川が、仁王門通りの慶流橋(大鳥居南の橋)西すぐから南に分岐する流路に付け替えられた。現在の白川の水はほとんど琵琶湖疏水の水と言える。この付け替えにより、鴨東運河の分岐点で白川の水量をコントロール出来るようになり、洪水の心配がなくなったので河川改修の必要がなくなり、一本橋など白川に掛かる橋がそのまま残されることになった。


  三谷(水車)稲荷と竹中製麦所跡

三谷(水車)稲荷は、1890年に完成した琵琶湖疏水を利用した水車動力による製麦工場内にあった水路と、周辺一帯の安全祈願のために祀られた神社。祭神は「稲荷大神」。
水路は琵琶湖疏水の鴨川運河から直接取水して白川と平行に流れ、この近くで白川に合流していた。当時、竹中精麦所の5代目竹中亀吉が水路によって直径4.5mの大水車を24時間回して精麦を行った。水車は三条通からも眺められ、「水車の竹中」と親しまれた。前の小道は「水車の竹中径」と呼ばれた。
鳥居には、竹中家の名前が見られ、左右にある蝋燭立てには、それぞれ2ヶ所、猪目(ハート)形にくり抜かれた窓がある。猪目は魔除けの意味とされるが、若者たちにより隠れた恋のスポットとされているとのこと。


  白川児童プール跡

白川児童プールは昭和33年(仁王門通南側にプール開設15周年石碑がある)に始まった。   30年代前半の小学校にはプールは殆どなく、   鴨川は浅く不向きだったので白川を堰き止めて 夏の間だけプール代わりにした。 
高度成長期により小学校にプールが出来、  川の水質汚染が問題となったため、昭和40年代に疏水沿いの水泳施設はその役目を終えた。 白川を堰き止める2か所の杭、降りるための3か所の梯子等が残されている。琵琶湖疏水沿いには他に、諸羽船溜まりプール、若王子プール、   南禅寺児童プール(インクラインのねじりまんぽ 東側)、夷川船溜まりプールがあった。



  鴨東運河掘削土捨場

運河掘削工事では掘削容積の約1.8倍の残土が発生する。この残土をどこに捨てるかが大きな問題となる。    鴨東運河の北側には幕末に薩摩藩や加賀藩などの広大な藩邸があったが、明治 維新で撤去されて空き地が   広がっていた。鴨東運河を掘削した  残土は、土地買収の容易な北側に積み上げられた。そのため北側は南側より   2~3m高くなっている。


  ワグネル博士顕彰碑

明治3年(1870年)、現在の銅駝(どうだ)美術工芸高校あたりに化学技術の研究・ 教育、および勧業のための理化学工業研究所であった舎密局(せいみきょく。舎密は、オランダ語のchemie(「シェミー」=  化学)に対する当て字)が開設された。
舎密局では、外国人教師としてドイツ人ゴットフリート・ワグネルを招聘し、(1878年から3年間)陶磁器・織物・染色の改良実験・七宝焼・ガラス・石鹸・顔料・ガラス・氷砂糖・ラムネ・ビール・合金・旋盤・電気メッキ技術など、さまざまな工業製品の製造と普及に関わるとともに、初代島津 源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発展に大きく貢献した。
1924年、博士の功績をたたえ岡崎府立図書館北側に武田五一設計によるワグネル博士   顕彰碑が建立された。


  六勝寺跡

六勝寺とは、11世紀後半頃 から始まる院政期に天皇や中宮の発願で 鴨川東岸の白河(現左京区岡崎エリア)の地に建立された法勝寺・尊勝寺・ 最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺の6つの寺院で、いずれも「勝」の字がつくので六勝寺と総称された。この頃平安京右京の衰退が進む一方で左京は繁栄し、鴨川の東にも数多くの邸宅が軒を並べた。白河の地は、六勝寺のほかにも院や女院の御所や仏堂が多数建ち並び、洛南の鳥羽殿(鳥羽離宮)とともに院政の拠点になった。1176年建立の白河天皇御願の法勝寺には、81mの八角九重の塔があった。その位置は現在の京都市動物園の観覧車辺りに当る。


  橋の親柱の決まり事

橋の四隅にある親柱には、「橋の名前(漢字)」、「橋の名前(ひらがな)」、「河川名」、「竣工 年月」が刻まれている。「漢字表記の橋の名前」の向こう側(対角線)は必ず「ひらがな表記の橋の名前」、「漢字表記の橋の名前」の右側には「河川名」が書かれている。反対側の「ひらがな表記の橋の名前」の右側には「竣工年月日」が書かれている。
橋の名前をひらがなで表記する場合は、川の水が濁らないようにという意味を込めて「○○橋」は「○○はし」と濁点をつけずに書く。
橋には入口と出口があり、「漢字表記の橋の名前」側が 入り口で、ひらがな表記側が 出口であった。昔はすべての道路の起点は江戸日本橋とされていて、日本橋に近い方を起点(入り口)、遠い方を終点(出口)としていたが、現在はこの限りではない。

  第4回内国博覧会跡

明治28年(1895)、現在の平安神宮南で平安建都1100年の記念事業の一環として第四回内国勧業博覧会が開催された。178,000㎡の敷地に工業館、農林館、器械館、水産館、美術館、  動物館や各府県の売店、飲食店などが建てられ、出品点数169千点、41日~731日の  会期中の入場者は113万人を超えた。
開催にあわせて京都電気鉄道会社が開業し、日本最初の市街電車が走った。七条停車場 (京都駅)~伏見油掛間(同年21日))、七条停車場~博覧会場を経て、南禅寺船溜り(同年41日)が開業。道路・電力・宿泊設備などインフラ整備も進んだ。
博覧会は、京都府の勧業政策の進行状況を“見える化し、人々の産業知識を向上させるとともに、インフラ整備に大きな役割を果たした。また、京都人の“新しいもの好き”で、“進取の気性に富む”性格を呼び覚まし、近代化推進のモチベーションを引き出すとともに、起業意欲を盛り上げた。


  得長寿院跡

1132年、平清盛の父忠盛は この地に1001体の聖観音像 (手が2本、顔も1面)を安置する得長寿院を建て、鳥羽上皇に 寄進した。164年に忠盛の子清盛が建立し後白河法皇に寄進した現存する三十三間堂と同規模であったという。この得長寿院は1185年の文治地震で倒壊したが、  平安期末期の11641185年には、京都には平忠盛・清盛父子それぞれが建てた二つの三十三間堂があったことになる。


  三谷伸銅所工場跡

疏水起工趣意書の第一は「水車動力で新しい工場を動かす」となっていた。三谷伸銅は、明治24年(1891)夷川船溜まり南側に新工場を建設した。伸銅は銅や銅合金(真鍮など)を板、管、棒、線などに加工することを言うが、それまで職人が金槌で叩いて伸ばしていたのを水車動力を利用して機械化した。疏水完成とともに市街地にあり、原材料や製品の搬入出も容易な冷泉通に  水車動力を使用する近代伸銅工場や精米・製粉工場が林立した。現在も製粉に関連する製麺店が 残っている。


  夷川水力発電所・夷川船溜まり水泳場

大正3年(1914)に建設され、今も300キロワットで標準世帯100世帯の電力を送電している。 我が国最初の事業用発電所の蹴上発電所に続き、第2疎水の利用計画として墨染発電所と共に建設された。常時使用水量毎秒9.5㎥、落差は3.4m。所有物は京都市から関西配電会社を経て 現在は関西電力株式会社(昭和26年)と代わり、戦前まで長きにわたり京都市財政を潤した。 水車動力に固執し、水力発電に転換しなければ、琵琶湖疏水は大失敗事業となっていたと思われる。



  大蓮寺

明治初期の神仏分離政策によって、明治まで八坂神社本殿の西(大国社の場所)にあった 観慶寺の本尊薬師如来立像が十一面観音立像、夜叉神明王立像とともに本寺に移されている。
大蓮寺には「走り坊さん」こと新田常治(1872-1918年)という一風変わった僧侶がいた。常治は寺のお堂修理の勧進や、安産の御利益で有名な寺のお守りや腹帯を走って信者さんに届けた。
毎月1回、未明に起きて比叡山、横川、鞍馬山を経て愛宕神社に詣でて帰ることを習慣としていたという。富裕な檀信徒から布施を受けても、帰りに貧しい人々に施したためその頭陀袋の中は常に空であったという。ゆえに、いつとなく「今一休」と呼ばれるようになった。


距離や時間、場所など説明があればここに書いてください

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