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源氏物語・宇治十帖の故地を巡る

光源氏の跡を継ぐ二人の貴公子、末子「薫」と孫で第三皇子「匂宮」とが叔父・甥の関係にある同世代の親しい友人であり、恋にかけてはライバルです。

① 京阪宇治駅(集合)

駅舎=平成7年(1995)6月に完成(北側へ移設)
デザイン=若林広幸(わかばやしひろゆき=南海特急「ラピート」のデザイナー)
宇治特有の近代的な工業地帯と風光明媚な風景との混在、そして茶畑に着想を得たデザイン。鳳凰をモチーフとした国内最大級のステンドグラスも備える。平成8年(1996)グッドデザインに選定=私鉄の駅として初。第1回近畿の駅百選に選定されました。


⓶ 東屋

50帖:浮舟、登場。匂宮との出会い、薫との結婚。
「さしとむるむぐらやしげき 東屋のあまりほどふる雨そそきかな」()
中君を訪ねてきた浮舟は、匂宮にばったり会ってしまいます。その美貌に一目で惹かれた匂宮は、即座に言い寄りますが周囲に邪魔され、名も身元も知らぬまま引き離されました。一方薫は、そんな経緯はつゆ知らず、浮舟を隠し妻にして宇治に住まわせます。そして大君に似た風情を愛しく思いつつも、教養や知性には幻滅するのでした。


③ 椎本(しいがもと)



46帖:薫と姫たち、絆を育む
「立ち寄らむ陰とたのみし椎が本むなしき床になりにけるかな」()
大君・中君の父が亡くなります。生前親しくしていた薫は、遺言により姉妹の後見人となり、急速に距離が縮まります。一方、匂宮も姉妹に恋文を贈り始めます。が浮気で有名な宮の求愛に、姫たちは警戒して受け流すのでした。



④ 太閤堤

豊臣秀吉伏見城築城に伴い、それまで巨椋池に流れ込んでいた宇治川を分離して、伏見城下に誘導するために築いた堤防のことである。
宇治から向島までの「槇島堤」、宇治から小倉までの「薗場堤」、小倉から向島までの「小倉堤」、伏見市街下流部から淀に至る「淀堤」の、総称として用いられている。「淀堤」には、桜などが植えられ庶民から親しまれたことから、これを「太閤堤」と称したとされる。
築堤の開始は、文禄3年(1594)のことで、宇治川から巨椋池を切り離して、堤を向島まで延長する宇治川左岸の「槇島堤」から工事が始まったとされている。


⑤ 莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)尊墓

日本書紀によると幼い頃から賢い方で応神天皇が寵愛していた。百済から貢人「阿直岐・あちき」・「王仁・わに」から論語典籍を学ぶ。
応神天皇が崩御された折、皇位を継承するのを辞退される。
異母兄・のちの仁徳天皇と皇位を譲り合い3年も空位になり国が乱れる。莵道皇子は等々自害されてしまったという経緯があった。
莵道雅郎子「うじわきいらつこのみこと」の名はこの辺り古くから莵道という地名でありその名がついたという説が有力である。宇治十帖に登場する姉妹の父君、八の宮の悲運な物語から彼のモデルになったと思われる。
・浮舟宮跡・この辺り一帯、浮舟の宮と呼ばれた古社があった。
榎の大木が茂り浮舟の森とも呼ばれた。宇治十帖の悲劇のヒロインを祀った社として里人に親しまれていた。江戸中期に廃絶し、三室戸寺により「浮舟之古墳」の碑が建てられた。


⑥ 手習


53帖:再び形代へ…そして尼に。
「身を投げし涙の川のはやき瀬をしがらみかけて誰かとどめし」(浮舟)
浮舟は生きていました。川へ着く前に行き倒れて僧侶の一行に救われ、尼寺で暮らしていたのです。しかし尼の一人に「死んだ娘の再来」と可愛がられ、その娘の夫だった人にも迫られて、全てを振り切るように出家します。一転明るくなり、修行の日々を送るようになった浮舟ですが、昔を思うと心が騒ぐのでした。



⑦ 蜻蛉


  52帖:浮舟、入水。
「ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えしかげろふ」()
浮舟の失踪は、残されていた和歌により、身投げと判断されました。匂宮は衝撃で寝込み、薫は仏道修行に専心して心を静めようとします。やがて匂宮は浮舟の従妹に当たる女性に興味を持ち、薫は葬儀や遺族の世話をして、日常が戻ってくるのでした。
※線刻 阿弥陀三尊の三角石・・・宇治市指定文化財
高さ206㎝、 平安後期に造立。
正面には定印を結び蓮華座上に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に合掌して座る勢至菩薩と往生者をあらわす十二単の女性像が刻まれている。



⑧ 源氏ミュージアム

平成10(1998)に開館した公立(宇治市)の専門博物館で、模型や映像により『光源氏』や「宇治十帖」の世界をわかりやすく紹介しています。また、源氏物語の幻の写本とよばれる「大沢本」など源氏物語に関する資料の収集及び保管を行っています。開館10周年にあたる平成20(2008)9月にリニューアルが行われました。
館内は、無料の情報ゾーンと有料の展示ゾーンに区分されています。

情報ゾーンには、体験コーナーや図書室などがあります。
展示ゾーンには、テーマごとに次の6つのエリアがあります。


⑨ 総角(あげまき)

47帖:中君の結婚、大君の死
「あげまきに 長き契りをむすびこめ おなじところに よりもあはなむ」()
薫はついに、大君に想いを打ち明けます。しかし薫を「仏教に真剣な清い青年」と思っていた大君は、それを「下心」と感じ、嫌悪したのでした。とはいえ身寄りのない姉妹二人、体面を保って生きていく術を考えれば、薫との結婚はまさに「良縁」です。大君は、自分が薫より年上であること、匂宮は浮気と評判で当てにできないこと、薫の誠実さは折り紙つきであること等を考え、「自分ではなく中君と結婚してほしい」と頼みます。大君に拒み通された薫は、(中君が縁づけば大君も気が変わる)と考え、匂宮と中君を取り持って結婚させてしまいます。二人の仲は良好でしたが、身分高い匂宮は宇治まで通ってくることがなかなかできません。中君の「妻としての悲哀」を見聞きした大君は、ますます結婚を厭い、この世に絶望して衰弱死しました。


⑩ 宇治上神社

応神天皇の離宮(桐原日桁宮:きりはらひげたのみや)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命の宮居跡と伝わる。延喜式神名帳に「宇治神社二座」と記録され、明治維新までは、宇治離宮明神(八幡宮)と呼ばれ、現在の宇治上神社と宇治神社は一体であった。
拝殿『鎌倉時代前期(1215年頃)の造営で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設ける。切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである』と本殿『神社建築としては最古の遺構で、年輪年代法では、1060年頃の建立とされ、流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並び、向かって右から菟道稚郎子(うじの わきいらつこ)、第十五代応神天皇(おうじんてんのう)、第十六代仁徳天皇(にんとくてんのう)を祀る』は、国宝である。桐原水は、宇治七名水の一つであり、唯一現存する。


⑪ 早蕨(さわらび)

早蕨(さわらび)=第48帖:薫、中君に惹かれてゆく
「この春は誰にか見せむ 亡き人の形見に摘める 嶺の早蕨」(中君)
姉の死に悲嘆する中君を、匂宮は京へ引き取り、妻として大事にします。薫は後見人として中君の幸せを喜びつつも、その面影に大君を見出し動揺します。


⑫ 宇治神社

御祭神である菟道稚郎子命は文教の始祖として、学業成就・受験試験合格の神様であり、宇治の氏神として古来より崇敬されている。本殿(国指定重要文化財)は鎌倉時代初期の建立で、三間社流造、檜皮葺屋根の建物であり、高床になっており、空洞部分の中央には、石の土台のようなものが現存し、神社の創祀(313年)の際の跡とされる。扉は三つあるが、中央にのみ扉の内側にもう一つ扉があり、御神体をお祀りする構造となっており、菟道稚郎子命の木造坐像もともに祀る。左右の扉内は一つの部屋であることから、同時期に作られたとされる木造の狛犬が奉安されていたと考えられる。


⑬ 宇治十帖の像

※浮舟(うきふね)=第51帖:破滅へと向かう三角関係
「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」(浮舟)
恋すると一途な匂宮は、浮舟を執念で捜しだし、薫のふりをして想いを遂げました。その情熱に浮舟は絆されてしまい、迫られるまま逢瀬を重ねます。やがて薫も二人の仲に気づき、怒りや幻滅、「いと憂し」という憂鬱さ等を感じつつも、とりあえずは浮舟を我が物にしておこうと考えます。一方匂宮も浮舟を奪取しようと計画します。浮舟はどちらの男性も選べず、スキャンダルになった場合の母・姉への迷惑を恐れ、「自分一人が消えれば」と死を決意します。


⑭ 朝霧橋

※宿木(やどりぎ)=第49帖:中君の安定、薫の孤独
「やどりきと思ひ出でずは 木のもとの旅寝もいかにさびしからまし」()
「荒れ果つる朽木のもとをやどりきと思ひおきけるほどのかなしさ」(弁の尼)
匂宮は親によって、政略結婚が決められてしまいます。悲しむ中君を薫は慰めますが、次第に恋情が抑え難くなり、ついに意を決して言い寄ります。が中君の気持ちは匂宮にあり、また、すでに懐妊してもいたのでした。薫の動きに気づいた匂宮は、嫉妬して中君から離れなくなります。さらに子がぶじ誕生したこともあって、夫婦仲は安定へ向かうのでした。



⑮ 宇治川先陣の碑

寿永8年(1184)120日、宇治川左岸から攻めるのは義経軍。後白河法皇から再三上洛を求められていた頼朝が派遣した。これに対し、右岸で迎え撃つのは木曽義仲の軍。後白河法皇を脅して征東大将軍となったため、形式的には官軍であった。義仲軍は宇治橋の橋板を外し、川底に大網を張り逆茂木を立て、義経軍と対峙した。そして義経軍の畠山重忠以下500機が正に渡ろうとしたとき、名馬磨墨(するすみ)に跨る梶原源太景季(かげすえ)と、同じく名馬生月(いけづき)に跨る佐々木四郎高綱が進み出た。梶原が先行したが、佐々木が梶原に「腹帯が緩んでいるよ」と声を掛け、梶原が気を取られている隙に佐々木が出し抜いて駆け出し、先陣の名乗りを上げた。


⑯ あじろぎの道

宇治橋上流の中の島付近は、古から風光明媚な貴族の別荘地として知られ、平安時代に権中納言定頼が百人一首(第64首)で詠んだ川面の網代木に由来。
『朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらわれわたる 瀬々の網代木』
(冬の明け方にあたりが徐々にあかるくなるころ、川面にかかる朝霧も薄らぎ、霧が晴れてくると川瀬に打たれた網代木が次第に現れてくるなあ)
網代木は、冬季に杭や柴で魚の通り道を網や簾に誘い込む川中の工作物で、冬季川霧が曙とともに徐々に薄れ、姿を現す網代木の景観を詠んだもの。




⑰ 橋姫

45帖:薫、宇治で美人姉妹を見初める
「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」()
主人公・薫は、宇治で大君・中君という姉妹に出会いました。彼女ら、特に姉・大君に惹かれる薫。しかし想いを素直に認められません。実は薫は、自分の出生に疑いを持っていたのです。かの光源氏の晩年の息子であり、皆に「源氏の君の忘れ形見」ともてはやされる自分、実は別の人の子ではあるまいか。その不安感から、仏教に深く帰依していた薫は、煩悩・愛執につながる恋を受け入れられないのです。それで薫は、兄弟同様の存在・匂宮に、「宇治の美人姉妹」の話をし、恋をけしかけます。美女に目がない匂宮はたちまちのぼせあがり、薫に仲介を頼んでヤキモキします。その様子を薫は眺めて楽しみ、想いの捌け口にするのでした。


⑱ 夢の浮橋

54帖:霧に包まれたかのような終結
「世の中は夢の渡りの浮橋かうちわたりつつものをこそ思へ」
「法の師と尋ぬる道をしるべにて思はぬ山に踏み惑ふかな」()
薫君は、小野の里に浮舟が住んでいることを聞き、山田僧都に案内を頼むが、僧都は、浮舟が今は出家の身であることを思い、仏罰を恐れて願いを聞かず、代わりに、浮舟宛に事情を知らせる手紙を書いて、薫君の浮舟宛の手紙とともに、浮舟の弟に持って行かせた。浮舟は、弟の姿を覗き見て懐かしく思うが、会わず、薫君の手紙も受け取らなかった。薫君は誰かが浮舟を匿っているのではないかと疑うのであった。
結局薫君は浮舟と会えないまま、物語は終わる。「夢の浮橋」の古蹟は、宇治川の流れが醸し出す雰囲気が、実らぬ恋の厳しさと辛さを感じさせる。


⑲ 宇治橋

宇治橋は、大化2年(646)に奈良元興寺の僧・道登によって架けられたと伝えられ、そのいわれは、橋の東詰にある橋寺放生院の「宇治橋断碑」に刻まれている。
大津市の瀬田の唐橋、大山崎町の山崎橋とともに、「日本三大古橋」といわれるが、宇治橋が最も古い。
現在の橋は、平成8年(19963月に架け替えられたもので、桧造りの高欄、青銅製の擬宝珠を冠した、伝統的な形状を有している。瀬田の唐橋と三条大橋の擬宝珠は、この宇治橋とともに「日本三大擬宝珠」といわれる。
宇治橋の上流側に張り出した欄干の三つ目の間の「三ノ間」は、橋の守り神である「橋姫」が祀られていた名残りとする説がある。



距離や時間

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