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地図

『源氏物語』の世界へようこそ

千年も前に書かれた『源氏物語』ですが、モデルとなった場所や人々が今も残る街並みを歩きました。

河原院跡

光源氏の邸宅六条院のモデル河原院といわれ、モデルといわれた源融は、南は六条大路、北は六条坊門小路、東は東京極大路、西は萬里小路に囲まれた4町の広大な敷地で、陸奥国塩竃の風景を模して庭園を作り、尼崎から毎月30石の海水を運んで塩焼きを楽しんだと謂われる。融の死後は子の昇が相続し、昇は宇多上皇に献上して仙洞御所となった。跡地の一部に江戸時代は渉成園が作られたという説もある。
「河原院址」の石碑の一帯は、河原院の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没したと伝えられる「籬の森」の跡で、石碑の隣にある老木の榎は森にあった木の最後の1本だという。







本覚寺

この地は、嵯峨天皇の皇子源融の河原院跡と伝えられ、院内で陸奥国塩竃の景を再現して楽しんだ。境内に源融像と本覚尼像を安置する塩竈神社があったが、第二次大戦中に撤去され、今は本殿に移されている。
仏性寺と号し、1222(貞応元)年に源実朝夫人本覚尼が、西八条にあった遍照心院内に創建した。文明の乱で荒廃し、細川政元によって高辻烏丸に再建され、1591年に現在地に移った。






鉄輪井

火鉢や囲炉裏に置いて鍋や薬缶をかける三本足の五徳のことを鉄輪と呼んでいました。能にも『鉄輪』(伝・世阿弥作)の謡曲があります。下京に住む女が、自分を捨てて後妻を娶った事を恨み、貴船神社に丑刻詣をしていますと、鉄輪を頭に載せ三本の足に火を灯し、怒りの心の心を掻き立てると鬼に成れるとお告げがありました。夫はそれ以来悪夢に苦しみ安倍晴明に占ってもらうと。今夜、命を失うと告げられ、調伏の祈祷を受けていると、女の鬼が現われ、夫を連れていこうとしますが、三十番神(毎日交代で民を護る神)に追われ、苦しみながら去って行った。
多くの文学や歌曲などに影響を与えてきたのが、鍛冶屋町の「鉄輪の
井」です。鉄輪の女が安倍晴明に調伏され、この鉄輪の井のあたりで息絶えたと伝えられ、それで霊を弔い「鉄輪塚」を築いた。



夕顔の墳石碑

夕顔の巻 扇子で白い花 夕顔(常夏)は光源氏が連れ出した廃屋で物の怪に取りつかれて亡くなる。 頭の中将 雨の夜の品定め
※保昌山 和泉式部がねだり、藤原保昌が御所の梅枝を盗むシーンの山鉾
寺町通京都市の南北の通りの一つ。北は鞍馬口通から南は五条通まで全長約4.6km。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており真っ直ぐではない。石川五右衛門が三条河原に行くのに通った。
平安京で紫式部の頃は、東京極大路は堤邸から河原院へ続く道。





錦天満宮

元は源融の河原院にあった歓喜光寺(六条道場)の鎮守社元は源融の河原院にあった歓喜光寺(六条道場)の鎮守社として祀られていた。歓喜光寺は、宗祖一編の弟子聖戒が開基。初めは八幡に善道寺として建立され、正安元年(1299)に関白忠教の外護を受け源融の河原院に建立されていたが、秀吉の町割りで移転し、錦天満宮の南にあった。
歓喜光寺は、明治5年に神仏分離で東山五条(現在は山科区大宅)に移転,さらに時宗法国寺を吸収して昭和50年に山科区に移転したが、天満宮は残った。
本殿、御輿社や末社に源融を祭る塩釜社、床浦社(小彦名神を祀る。疱瘡除けの信仰),日ノ出稲荷社(鳥居の額束の山形が珍しい)がある。





安養寺

横川僧都のモデル源信(恵心僧都…浮船と比叡山)妹の寺浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。寛和年間(985987)に恵心僧都が開創し、その妹安養尼が住持して寺名になる。元は大和国当麻にあったが、西本願寺の西に移り、さらに四条西洞院へ、そして秀吉の町割りで現地に移った。
『往生要集』平安中期の仏教書。天台宗の僧源信(げんしん)(恵心僧都(しんそう))の著。43歳の984年(永観211月から書き始め、翌年4月に完成したもので、310章からなる。
濁世(じょくせ)末代の人にとって極楽に往生する道を示す教えこそもっともふさわしいものであると説き。地獄(補足に記入)の恐ろしい世界を知らしめ、念仏を勧め、極楽往生の道を広めた。現世で悪行を行ったものは、死後その報いによって地獄で責め苦を受ける教えで、紫式部や藤原道長は大いに影響された。





誠心院

藤原道長が和泉式部に与えた法政寺の東北にあった東北院という三昧堂(小御堂)から始まる(蘆山寺辺り)。ただ寺は荒廃し、一条小川の誓願寺の南に移るが、秀吉の町割りで、現在地に移る。
和泉式部の墓所 誠心院が誓願寺と共に移ったことによる。和泉式部は越前守大江雅致の娘(母は平保ヒラ娘)・恋多き女。多くの歌を残す。
橘道貞の間に小式部内侍の百人一首

大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
恋多き女性で63代冷泉天皇(即位967967)皇子為尊親王と関係し、新王の死後はその弟敦道親王とも関係するが、この親王も亡くなる。
その後、66代一条天皇(即位9861011)中宮彰子に再出仕した時は、一年ほど紫式部と同僚女房。やがて藤原保昌と再婚して丹後に赴任する
和泉式部塔 高さ3.4メートルの花崗岩の宝篋印塔。正面に阿弥陀三尊の梵字を刻み。塔身背後の基礎には発願者12名の僧尼の名前と正和2年(1313)の銘がある。川勝政太郎博士の説では、鎌倉時代に盛行した念仏信仰によって建立された供養塔という。北の梅の木が軒端梅(のきばのうめ)で和泉式部手植えというが、東北院にもある。






誓願寺

清少納言が出家し往生を遂げた
誓願寺は京都の中心地、新京極通りのど真ん中にある「浄土宗西山深草派」の総本山です。創建は、はるか飛鳥時代まで遡り、その長い歴史の変遷の中、「法然上人」「西山国師」「立信上人」と続く浄土門の聖地として…、また深い山間ではなく、「街の中にあるお寺」、「暮らしに密着した信仰の場=念仏道場」として人々に愛され続ける。
そのためか誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も大変多く、ことに「清少納言」「和泉式部」「松の丸殿」といった女性たちからの深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称され、そのほかにも落語の祖と呼ばれる「策伝上人」や謡曲「誓願寺(世阿弥作)」に謡われるなど、落語発祥の寺、芸道上達の寺としても広く信仰を集めている。




山本富士子邸跡

鴨沂高校在学時の住まい 
浮船(中の君妹)を演ずる、相手は長谷川一夫(薫)と市川雷蔵(匂君‥光源氏の孫)

(沢田研二…鴨沂高校2部中退、光源氏を演ずる






革堂行願寺

藤原道長の三男顕信が剃髪出家した寺
寛弘8年(101110月に右馬頭に任官。翌寛弘9年正月19日(1012219日)、世を儚み行願寺(革堂)の行円の許を訪ねる。その教えに感銘を受けてそのまま剃髪し、比叡山無動寺に出家した。その将来に期待していた両親は、大いに嘆き悲しんだと言われる。その後、無動寺から大原に移って仏道修行に励んでいたが、余命短い事を悟って延暦寺の根本本堂に2週間籠った後に無動寺にて病死したという





下御霊神社

平安時代に冤罪を被った貴人の霊を祀る 本殿は内侍所移築
荒魂の伊予親王と母藤原吉子、祟道天皇、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、火雷天神(菅原道真)、和魂の吉備聖霊(吉備真備)の八所御霊を祀る。上御霊神社と御霊が異なる。
下出雲寺(廃寺:中京区)の鎭守として仁明天皇(833850)の創建で、上御霊神社の南にあった。後に新町近衛に移され社殿は、足利義持が寄進したと伝えられる。神階は南朝99代後亀山天皇(南朝:13831392)により正一位が贈られ、御所の産土神となる。その後、豊臣秀吉の町割りで現在地に移転した。
現在の社殿は寛政2年(1790)、光格天皇内待所を寄進。門は旧建礼門を移し、檜皮葺を瓦葺にした。





鴨沂高校北側グランド

「従是東北 法成寺址」石碑 
法成寺…藤原道長建立・九体阿弥陀堂 五重塔 遺構は見つからず
道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」(『小右記』)の歌でも知られるように栄華を極めたが、晩年浄土信仰に傾倒し、病に苦しんだことから、寛仁3年(1019年)に出家し、土御門殿に隣接する地に、九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に完成して無量寿院と号した
道長は法成寺で暮らしていたが、1027年、死に臨んで東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれている。




盧山寺

式部の邸宅跡 堤邸
日本廬山天台講寺、圓浄宗 比叡山延暦寺中興の祖良源(元三大師)により938(天慶元)年に北山に創建。1243年に船岡山南麓に再建。天正年間に豊臣秀吉が現在地に移す。
紫式部の祖父権中納言藤原兼輔が邸宅を構える。境内に紫式部顕彰碑、本堂南庭に白砂と桔梗の「源氏の庭」
東北院…和泉式部が初代住職 蘆山寺陵(慶光天皇―光格天皇の父)の前の雲水井戸あたり法成寺の東北院があった。道長の死後、長元3年(1030)に上東門院(藤原彰子)により創建されている墓地東端は御土居で、伝仏師定朝の墓がある。
明智光秀の念持仏(天皇が光秀に比叡山焼き討ちから外すように頼む)
地蔵菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天の岩窟型厨子、地蔵菩薩を陣仏
元三大師良源 「厄除け大師」、おみくじは良源が始めたとされる。
清淨華院 境内に法成寺跡から出土した大きな礎石の展示あり






梨木神社

帚木の巻・中川のわたりの候補地 方違 空蝉や花散里
1885年に久爾宮朝彦親王の令旨で明治維新に貢献した三条実万(さねつむ)と実美父子を三条家邸宅跡に祀る。地名から梨木神社。
染井は京都3名水(醒ヶ井、縣井、染井)、ハギの名所





道長の土御門邸跡

紫式部が源氏物語を綴る
「紫式部日記」100811月1日の条に、藤原公任が「失礼ですが、この辺に若紫はいませんか」の問い。式部は「光源氏に似ていそうな人もおみえにならないのに、あの紫の上が、ここにいらっしゃるでしょうか」と聞き流した記述がある。
また日記に藤原道長が紫式部の部屋を訪ねた記述。
紫式部日記の別の箇所では「夜に寝ていると、道長が部屋を訪ねてきて一晩中戸を叩かれた」「戸を開けていたら後悔していたでしょう」と記されており、それからどういう状況に至ったかは、書かれていません


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