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上京の尼御所と通称寺を巡る

上京は多様な信仰に基づく寺々があり、それららが重層的に存在します。今回は尼御所と通称寺などを巡りその面白さを探って歩きました

  玄武公園

足利義満の管領細川の屋敷跡を没後に寺院岩栖院とした。江戸期に後藤長乗が所有する。岩栖院を小堀遠州が擁翠園として作庭した。昭和12年に皇太子誕生(上皇陛下)にあたり、記念事業として公園整備を行った。


  宝慈院(千代の御所)

樹下山(じゅげざん)と号し、「千代野御所」と称する尼門跡寺院の一つで、無外如(むげにょ)大尼によって創建された景愛尼寺の支院である。寺号は、はじめ資樹院と称したが、応仁の乱の後、宝慈院と改められた。臨済宗寺院。


  光照院門跡(常盤御所)

浄土宗単立の尼門跡寺院。
1356
(延文元)、後伏見天皇の皇女進子内親王が22歳の時に泉涌寺の無人如導によってご落飾、御名を自本覚公と改められ、同年室町一条北の地に一宇を興して寺号を光照院と定められた。33歳の時には、律を基本に天台・真言・禅・浄土の奥義を究められ、光照院は四宗兼学の寺院となり明治五年までは禅宗であった。
応仁の乱の後、1477年後土御門天皇から持明院殿跡に寺地を賜わり、それが現在の光照院の地である。この持明院殿は、御父後伏見天皇が崩御せられ、御開山の宮が生誕せられた仙洞御所でもあった。
代々皇女が入寺された尼門跡寺院で、江戸時代には光格天皇より常磐御所の称号を賜った。

庭園の歴代門跡お手植えの樹齢五百年の五葉松は他に類の無い美しさである。


  報恩寺(鳴き虎)


前身は定かではないが、室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。天正年間(157392)現在地に移った。豊臣秀吉が寺宝の虎の図を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。「鳴虎図」に四明陶いつの署名があり、宋か明の時代に中国で描かれたと推定される。門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。国の重要文化財の梵鐘は平安時代末期の作で撞かずの鐘という。客殿に黒田長政が死去した部屋があり、長政の位牌と、その父・官兵衛(如水)の位牌が安置されている。観世流家元歴代や、志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。


  宝鏡寺(人形寺・百々御所)

中世京洛に栄えた尼五山の一つであった景愛寺の法灯を受け継ぐ宝鏡寺は、光厳天皇皇女華林宮惠厳禅尼公が、伊勢二見浦で漁網にかかった聖観世音菩薩を奉じて創建・開山。臨済宗単立の尼門跡寺院。百々御所(どどのごしょ)の御所号をもつ。孝明天皇遺愛の人形をはじめ、多くの人形を所蔵、‘人形の寺’として有名。ふだんは非公開だが、春と秋に人形展が開かれる。
建立は1370年頃(南北朝時代)また隣接する百々橋、小川(こかわ)は史跡。


  慈受院(薄雲御所)

正長元年(1428)、室町幕府4将軍足利義持の正室である日野栄子が皇室代々の菩提を弔うために創建したと伝えられる。院号の由来は、日野栄子の戒名である慈受院 淨賢竹庭尼大禪師から。(日野栄子は足利義持の正室で義量の母)
創建以来、皇室足利将軍家摂関家より住持が入山している。応仁の乱宝永5年(1708)の大火によって焼失し移転を重ねた。大正8年(1919)に同じく日野栄子が開基の総持院を併合して、現在地に再興した。臨済宗。


  本法寺

永享8(1436)年日親上人の創建。日蓮宗。本阿弥家の菩提寺。もとは四条高倉にあり一条戻橋辺に移ったが、天正15(1587)年にこの地に移った。光悦の寄進状を添えた紫紙金字法華経(重文)、長谷川等伯の釈迦大涅槃図(同)など貴重な寺宝がある。
 庭園「三巴の庭」は本阿弥光悦作、国の名勝。奥深い部分に枯滝石組(三尊石組)は室町時代の手法を巧みに再現され、一段落して配置された縦縞模様をもつ青石により水流の落ちる様相を表現している。又十本の切石で縁どられた蓮池と半円を二個組み合わせた円形石とともに図形的意匠を見せている。
 涅槃会館にて宝物展示あり。境内諸堂のうち、本堂、開山堂、多宝塔、庫裡、書院、大玄関、唐門、鐘楼、経蔵、宝蔵、石橋等、京都府有形文化財に指定されている。


  水火天満宮

923(延長元年)、醍醐天皇勅願により水難火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅命があり、菅原道真の神霊を勧請し建立された。以前は同じ上京区の上天神町にあったが、堀川通の拡張に伴って1952に現在の場所に移転した。
境内には、末社六玉稲荷をはじめとし、道真の霊が降り立ったといわれる登天石、近年出世した人が寄進した出世石眼病に効くといわれる井戸水「金龍水」や安産の石「玉子石」がある。


  妙蓮寺

日蓮の孫弟子日像が開基。天正15年(1587)この地に落ち着くまで幾度かの移転を繰り返した。収蔵庫に長谷川等伯一派の筆になる障壁画、松尾社一切経など多くの文化財を所蔵。観賞式石庭で「十六羅漢の石庭」と呼ばれる。奥書院の四間に現代絵画家幸野楳渓筆の「四季の襖絵」がある。本門法華宗。創建:1294(永仁2)年。移転建立:1587(天正15)年。


  称念寺

1606年(慶長11)獄誉上人が浄土宗(総本山知恩院)に属す松平信吉公の帰依をえて創建。猫をかわいがった第3世還誉上人のころの「猫の報恩」の伝説が猫寺の由来。還誉上人が愛猫をしのんで植えた松は20メートルも横に伸び、猫が伏したさまに似ている。又、動物専用の観音堂がある。愛犬・愛猫等の供養塔があり。


  石像寺(釘抜さん)

弘法大師が唐から持ち帰った石を刻んだとされる地蔵を祀る。この地蔵が、人々の身体や心の苦しみを抜き取るということから苦抜き(くぬき)地蔵、そして釘抜地蔵と呼ばれるようになった。お堂の周りには、釘や釘抜きが付いた絵馬が数多く掲げられている。石造阿弥陀如来及び両脇侍像・石造弥勒菩薩像は重要文化財また藤原家隆の屋敷があったため墓地に五輪塔がある。ちなんで山号は家隆山。


  浄土院(ちゃくれん寺)

天台宗の般舟院(はんじゅいん)の隠居所として宗印が開基したとされる。本堂に安置されている本尊阿弥陀如来像(重要文化財)は永長元年(1093)の銘をもつ木彫漆箔で僧・寂能の作である。
豊臣秀吉が天正十五年(1587)に開いた北野の大茶会の途中に立ち寄り、庵主に茶を所望したところ、二杯目も所望されたため、庵主は自分の未熟なお茶を出し続けるのは失礼と考え、この寺に湧き出る銀水の白湯を出し続けた。秀吉は庵主の思いを悟り、「お茶を頼んでいるのに白湯ばかりだし、お茶をくれん」と笑ったといわれており、その後「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられている。本堂屋根には、安土桃山時代の陶工で楽家初代の長次郎作の寒山・拾得像の焼物が据えられている。


  大報恩寺(千本釈迦堂)

大報恩寺(だいほうおんじ)は、京都市上京区にある義空上人によって1227年に開創された真言宗智山派寺院山号は瑞応山(ずいおうざん)。本尊迦如来[1]。千本釈迦堂と通称される。霊宝殿は新西国三十三箇所16番札所で本尊は定慶作の「六観音、快慶作の「十大弟子像」、「おかめさんの物語」や、12月の風物詩である「大根焚きで知られる。また、智積院能化の隠居所として護持された。
国宝の本堂は度重なる戦火からのがれた京都市内最古の建造物、本堂正面は五間とも蔀戸を構えていて和洋建築の特徴をよく残している。


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