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ウォークの地図

錦秋のきぬかけの路を歩く

〜宇多天皇ゆかりの地をたずねて〜

「きぬかけの路」はかつて「観光道路」と呼ばれていましたが、地元商業者が愛称を募集したところ、宇多天皇が夏に雪見をするために衣川山に絹をかけたことに由来するという。

  立命館大学国際平和ミュージアム

立命館大学の「平和と民主主義」の教学理念を具体化する教育・研究機関として、また社会に開かれ、社会に発信する社会開放施設として、平成4年(1992)5月19日に開館しました。過去の戦争の歴史から現代の戦争・紛争の実態、さらには貧困・飢餓、人権抑圧、環境破壊など、平和をめぐる今日の様々な話題を盛り込んだ、総合的な平和のための世界で最初唯一(当時)の「大学立の総合的平和博物館」です。
展示品は、過去の戦争と人々の関わりを示す歴史資料やパネルなど、大人から子供まで分かりやすく、戦争と平和の問題について学べるようになっています。改装のため休館していましたが、令和5年(2023)9月23日にリニューアルオープンしました。


  京都府立堂本印象美術館

堂本印象が昭和41年(1966)に「堂本美術館」として設立、外装から内装に至る隅々まで自らがデザインしました。外観は船をイメージしたというユニークな形で大胆なレリーフ(母の顔)が施され個性的な存在感を放ちます。平成3年(1991)年8月に所蔵作品と共に京都府に寄贈、翌年4月京都府立堂本印象美術館として開館しました。平成30年(2018)3月のリニューアルオープンに伴い、レリーフや外壁など当初に近い輝きを取り戻しエントランス周辺も開放的になりました。庭園も整備され無料の野外展示スペースとして、印象デザインの椅子たちが出迎えてくれます。
画壇デビュー作「深草」から生涯にわたる作品を所蔵し、60年に及ぶ芸術活動において一定の作風や対象に留まらず、変幻自在にその表現を変化させ続け、作品を並べてみるとその変遷をたどることができます。所蔵品は伝統的な日本画や抽象画をはじめ、洋画・彫刻・陶芸・染織・工芸品など約2600点に及び、企画展ごとにテーマを設けて紹介しています。またゆかりのある作家や作品が取り上げられ、幅広く京都の美術を鑑賞できます。



  朱山七陵

朱山の麓にある後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三條天皇の三天皇の陵墓、後朱雀天皇の皇后である禎子(ていし)内親王の墓と、山上にある一條天皇、堀河天皇の二天皇の陵墓、円融天皇の火葬塚の七つの皇族陵墓で構成され、地名を取って朱山七陵と呼ばれています。


  宇多源氏始祖追遠碑

宇多天皇の流れをくみ、臣籍降下により源姓を賜った宇多源氏の碑です。
明治天皇が明治9年(1876)に「華族の家系を分類しそれぞれの部類内で共通の祖先を奉じ相互に扶助し,家系がとだえないように配慮せよ」と命じられたことに起因して、碑が建立されました。
宇多天皇の皇子は、第60代醍醐天皇と10人の親王がおられました。親王の子供は臣籍降下により源の姓を賜与されていますが、都に留まったほとんどは数代で絶家しています。(背景として、臣籍降下後は皇室を頼らず自身にて生計を立てる必要があるが、藤原氏による摂関政治のため官職に恵まれなかったため)
その中で第8皇子敦実(あつみ)親王嫡男「源雅信(従一位左大臣)」は母親が藤原基経(宇多天皇関白)嫡男の藤原時平(左大臣)の娘であったこともあり、系統が今日まで存続しています。
源雅信の系統は多くの名族を輩出しておりますが、この中でも最も有名なのは近江の佐々木氏です。源成頼(なりより)が近江国佐々木に本拠を置いたことにより佐々木氏を名乗っており、佐々木氏族からは京極氏、六角氏など、更に京極氏からは黒田氏、尼子氏などの有名氏族を輩出しています。


  住吉大伴神社

住吉大伴とは古代の豪族大伴氏を祀る大伴神社に住吉大神を合せ祀ったことによります。はじめ大和国にあった大伴氏は平安遷都によりこの地に移住し、その祖先の神「天押日命(あまのおしひのみこと)」を祀りました。大伴氏は後に第53代淳和天皇の御諱である「大伴」をはばかり伴氏と改めますが、「応天門の変(貞観8866)」の伴善男の伊豆配流以降衰退し、伴氏神社の名も世に疎くなっていったと思われます。
伴氏の衰微と共に葛野郡に山荘を営む徳大寺家の領するところとなり、徳大寺家が和歌の神として崇めた住吉三神を祀ったことで、住吉神社として、以降龍安寺・谷口地区の氏神として崇敬されてきましたが、昭和17年(1942)、住吉三神及び大伴祖神を合祀、社名を住吉大伴神社と変更して今日に至っています。
路を挟んだ北側の「海ゆかばの碑」は、天平感宝元年(749)に祭神の子孫で歌人の大伴家持が作った歌(『万葉集』巻18)が刻まれています。この歌は昭和17年(1942)国民の歌に選定され、昭和19年(1944)、住𠮷大伴神社顕彰奉賛会により建碑されました。
海ゆかば水つく屍 山ゆかば草むす屍 大君のへにこそ死なめ かへりみはせじ


  転法輪寺

浄土宗 山号:獅子吼山 
東三本木の転輪寺の住持であった開基の関通上人(16961770)が弟子も増え堂宇伽藍が手狭となって新たな地での寺院建立を望まれていたところ、廃寺になっていた北野円通寺を譲り受け、宝暦8年(1758)4月に北野下ノ森に創建され、仏祖の法を説く寺として転法輪寺と名付けられました。その後大正時代になり、創建時には京の西の果てであった北野の地もその頃には既に町中となり、転法輪寺の阿弥陀如来は西方におられるべきとの声のもと、昭和4年(1929)に現在地に移転されました。
ご本尊の阿弥陀如来は坐像ながら2丈4尺(約7.5m)の大仏で、御室大佛と呼ばれています。通衣の御姿で金色に輝く尊像で五色に彩られた光背も特徴的です。史跡の説明6


  五智山蓮華寺

真言宗御室派別格本山 本尊:阿弥陀如来、不動堂に五智不動明王。
天喜5年(1057)御冷泉天皇の御願により藤原康基(やすもと)が広沢池近くに蓮華寺を開創し、やがて仁和寺の奥の院とされます。応仁元年(1467)応仁の乱の兵火にあい、鳴滝音戸山の山上に移されます。
その後荒廃しますが、寛永18年(1641)伊勢生まれの江戸の豪商、樋口平太夫家次翁(常信)が、五智不動尊の霊夢に導かれ、蓮華寺再興に当たりました。常信は、木喰僧・坦称上人に五智不動尊像の修理と五智如来の彫刻を依頼。坦称上人はこの彫刻にあたり信州・浅間・紀州那智三山で各百日の荒行を遂げて、現在の石仏を完成させました。
昭和3年(1928)住職慈海大僧正により寺院は現在の御室に移されました。昭和33年(1958)には、山上山下に離散し痛ましい御姿であった五智如来を始め、石仏群を収集し修復をして境内に遷座安置し、今日に至ります。


  仁和寺

真言宗御室派
宇多天皇父の光孝天皇が西山の麓に寺院建立を発願しましたが、翌年に崩御され、仁和4年(888)年に宇多天皇(22歳)が遺志を継いで創建しました。
宇多天皇は、寛平9年(897)に31歳で天皇の位を第一皇子の醍醐天皇に譲り、33歳で出家し法皇となられました。比叡山で天台密教の修行をされており、38歳でこの地に僧坊()を建てて住まれ、この地は法皇の「室」なので「御室」と呼ばれるようになりました。平安時代から明治時代まで、約1000年もの間、皇族が住職を務めた門跡寺院です。境内中門より北側は寺院、南側に位置する「御殿」は歴代の法皇、法親王の住まいでした。


  御室八十八ヶ所霊場

この霊場は文政10(1827)、仁和寺29世門跡済仁法親王の本願により、四国八十八ヶ所霊場の砂を持ち帰って仁和寺裏山の成就山参道に埋め、諸堂を建てたのが始まりです。江戸時代、四国遍路はガイドブックが発刊されるほど庶民に知られた存在となりましたが、京都から四国を巡礼することは簡単でなかったためこの巡礼道が整備されました。
全長約3キロ、見学や休息を含めて約2時間30分の行程です。結願成就すれば四国巡礼と達成したのと同じ御利益が得られるとされています。


  円融天皇後村上陵

寛和元年(985)に落飾して金剛法と号し、仁和寺の一院である御願寺・円融寺(円融院)に住し、和歌・漢詩・管絃など風流文雅の生活を送り、石清水八幡宮・石山寺などに御幸。正暦2年(991)に円融寺で崩御されました。
※ 祇園祭と円融天皇
円融天皇は天延2年(974)に前年の秋以来の痘瘡の御祈の為、祇園祭に奉幣・走馬(そうめ)などをし、「鴨川を渡って平安京に神輿渡御するよう」勅命したと言われています。
現在、祇園祭では7月17日の神幸祭・7月24日の還幸祭の際、錦の袋に入れられている円融天皇の勅板が矛・楯・弓・矢・剣・琴などの神宝奉持列を整えて巡行します。また、八坂神社で天延3年(975)に円融天皇の病気平癒を祈願したことに由来する舞楽奉納が11月3日に行われます。



  福王子神社

祭神は班子女王(はんしじょおう)。神社の名前の由来としては、班子女王は宇多天皇をはじめ3皇子、4皇女を生んだことから「福王子」となった説、末社「夫荒神(ぶこうかみ)」がもともとの祭神で「ぶこう」が「ふくおう」に転訛したという説があります。
班子女王は、光孝天皇の女御で、宇多天皇の生母です。創建は明らかではありませんが、班子女王は昌泰3年(900)年に没しており、この地は班子女王の陵墓とも言われています。宇多天皇はその前年に仁和寺にて出家していることから、仁和寺の鎮守神として建てられました。また近隣旧6村(福王子・御室・鳴滝・中野・山越・常磐)の産土神です。
社殿は応仁の乱で焼失後、寛永21(1644)年徳川家光と仁和寺法王覚深(かくしん)親王が仁和寺の伽藍とともに造営しました。本殿は一間社春日造、拝殿は桁行三間、梁行二間の入母屋造で、本殿、拝殿、鳥居は重要文化財に指定されています。
祭礼では、神輿が氏子地域である旧6村を巡った後、仁和寺に入り勅使門を通って宸殿前まで進みます。


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