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幻の聚楽第を巡る

天正13年(1585)関白となった豊臣秀吉は、元平安京の跡地、内野(旧大内裏)に、同15年聚楽第造営した。周囲に大名屋敷が建てられた。関白職は養子の秀次に引き継がれ、たが、文禄2年(1593)秀頼の誕生後秀次は、聚楽第は破却した。わずか8年少しの短い歴史であった。

  村雲御所跡

瑞龍寺の正称は村雲(むらくも)瑞龍寺、通称は村雲御所という。山号はない。
安土・桃山時代、1596年に、豊臣秀吉の姉・瑞龍院(日秀尼)※が、1595年秀吉に追放され高野山で自害した実子・豊臣秀次の菩提を弔うために創建した。
当初は、嵯峨の村雲(二尊院付近)にあったという。第107代・後陽成天皇(在位1586-1611)により寺地、寺号、寺領(1000石)を贈られた。以後、有栖川宮家、伏見宮家、二条家ほか皇族などの子女が入寺し、尼門跡になった。
江戸時代、嵯峨より西陣に移転する。徳川家康は寺を保護した。徳川家光は、二条城の客殿2棟を移して増築。
1961年、11世・日浄尼(九条日浄)の時、堀川通の拡張工事に伴い、秀次の居城・八幡山城があった八幡山上(271.9m)の本丸跡に移転した。この時、本堂、庭園も移されている。


  千利休聚楽屋敷跡

聚楽第の晴明神社のこの地に千利休聚楽屋敷があった。千利休は、晴明神社にある晴明井の水を茶の湯に使ったとも伝えられている。
天正19年(1591年)、千利休は突然、豊臣秀吉から堺の自邸に蟄居(ちっきょ)を命じられ、前田利家、古田織部、細川忠興らの助命嘆願をも聞かず、天正19228日(1591421日)、この聚楽屋敷で切腹している。
切腹の前に、秀吉の勘気の元になったとされる大徳寺の利休像は山門から引き摺り下ろされ、一条戻橋のたもとで磔にされた。利休の首はその磔にされた木像の下にさらされた。

石碑は平成16年に建立されたもの。石碑の文字は武者小路千家家元 千宗守の筆である。



  黒田如水邸跡

黒田官兵衛孝高(よしたか)は、播州御着城主小寺家の家老に過ぎなかったが、確かな知識と情報収集力で、いち早く織田信長支持を表明して突破口を開いた。そして秀吉の側近として竹中半兵衛とともに活躍。半兵衛は若くして死去(35歳)するが、官兵衛はその後も秀吉の軍師として仕える。荒木村重の説得に失敗して長期幽閉され、足が不自由となるが、毛利攻めには鳥取城の渇え殺し、備中高松城水攻めなどを献策、本能寺の変では、毛利との和睦、中国大返しを成功させ、秀吉の天下取りを支え導いた。
しかし、文禄の役で宇喜多秀家の軍艦として遠征したが、思うように指揮が取れず許可なく帰国し、秀吉の怒りに触れて剃髪し、「如水軒円清」と号し赦免された。本能寺の変の一報に驚愕する秀吉に対して、好機到来と次々献策する才に恐れを抱かれたため、隠居したとの説もあり。
関ヶ原の戦いでは、九州で東軍として戦い最後の敵勢力島津との戦いの前に、家康と島津義久の和議が成立したことによる停戦命令を受けて撤退した。その他、生涯側室を持たず愛妻家であったことや、歌や茶を愛する文化人であったこと、キリシタン大名であったことが特筆される。晩年如水を名乗ったため、屋敷周辺は如水町と呼ばれた。


  上杉景勝邸跡

上杉景勝(1556-1623)は、32歳から豊臣秀吉の臣下になり、天正16(1588)、一条戻橋付近に屋敷が営まれたとされる。
しかし、町名の弾正町の由来は、五奉行の一人浅野弾正長政子息、浅野幸長屋敷跡との説もある。


  一条大路跡

一条大路は、平安京北端の道(北極大路)。道幅は30m。平安時代の加茂祭の祭列は、加茂斎院(大宮通賀茂御霊前あたり)を出発してから大宮通を南下、北上してきた勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東へ進み、下鴨・上賀茂神社へ向かった。皇族・貴族には桟敷が設けられ、物見車が立ち、地べたには民衆が座り込むなど、喧噪ぶりは枕草子などに描かれる。源氏物語・葵の巻では、一条大路を通る光源氏を一目見ようと、六条御息所と葵上の一行が見物場所をめぐって車争いをするエピソードの生まれる場所である。発掘調査では、路面や溝跡が検出された。


  一条院・名和長年戦死地

一条院は平安中期の里内裏の一つである。もとは藤原伊尹(これただ)の邸であり、次いで異母弟為光が住み、そして藤原詮󠄀子(せんし)の邸宅となった。詮子は兼家の娘。円融天皇(64)の女御となり、懐仁(やすひと)親王=一条天皇(66)の生母。一条天皇即位ののち、兼家は摂政となり、その子、道隆・道兼・道長らは、みな摂政となった。詮󠄀子は、後年、病気になり、出家して、東三条院と称した。
長保元年(999614日、内裏が炎上し、一条天皇は一条院に移り、里内裏とした。後新造された内裏に戻られたが、再三の内裏炎上で、天皇は以後在位中のほとんど※をここで過ごされた。一条天皇以後、後一条(68)・後朱雀(69)・後冷泉(70)の三天皇も、一条院を里内裏とした。
名和長利(生年不詳~1336)は伯耆国(現鳥取県)の海運業を行う豪族であった。1333年、後醍醐天皇が流罪とされていた隠岐の島から脱出した後、天皇に仕え、船上山(現鳥取県琴浦町)で幕府軍を破り、その戦功により伯耆守に任ぜられた。楠木正成らとともに後醍醐天皇による建武の新政を支え、「帆掛け舟」の家紋を賜った。後醍醐天皇に対抗する足利尊氏軍と洛中で戦い、この地(旧大宮通一条下ル梨木町?)で戦死した(1336)


  聚楽第本丸東堀石碑

平成4年(1992)、西陣公共職業安定所(ハローワーク西陣・大宮通中立売下ル)の建て替え工事の際に、本丸東堀の西肩部分が確認され、金箔瓦約600点が出土した。本丸側から投棄されたように層状に堆積していたため、本丸の建物に葺かれていた瓦と考えられる。本丸東堀は南の下長者町通まで続く。そしてここから300m西にある裏門通までが聚楽第の本丸である。平成14年(2002)国の重要文化財に指定された。


  聚楽第本丸西堀跡

聚楽第があったことを示す石碑。大正4年(1915)に地元の正親(せいしん)学区の有志の寄付で建立された。20083月から人目がつきやすい正親小学校の角地に移動。建碑当時の大正時代では、聚楽第の範囲が大まかにしかわからないため、「此附近聚楽第址」という碑文だが、最新の発掘調査(森島説など)に基づく聚楽第城郭推定範囲では、建碑場所は聚楽第本丸西堀にあたるため、20086月に石碑の東側に設置された駒札の表題は「此附近聚楽第本丸西濠跡」(石碑の碑文と駒札のタイトルが異なる珍しい例)。
石碑がある敷地が面する南北の通り(裏門通)の一条通から下長者町通間は本丸の南北。ここから東約300m先にある大宮通の「聚楽第址」の石碑までが本丸の東西とほぼ一致する。聚楽第本丸の広さを実感しやすい場所。


  東西方向の堀跡

千本中立売郵便局の北西は、2001年の調査で東西方向の堀(外堀)の南肩部分が確認された。道路が東に向かって下っているのは堀の跡かも。
聚楽第の遺構として、大徳寺唐門、妙覚寺大門などが考えられる。


  西陣京極

京都市上京区にある地域の通称で、その範囲は、西を千本通、東を浄福寺通、北を一条通、南を中立売通に囲まれた地域の商店街・繁華街である。
江戸末期から寄席や芝居小屋が立ち並ぶようになり、明治期(1900)頃にはかなりの数に上った。昭和に入ると映画界の活況にともない、芝居小屋から衣替えした映画館が多数立ち並び、西陣織の職人や労働者たちを中心に文化・娯楽を提供する歓楽街で、京都市内有数の興行地域であった。全盛期は昭和30年代で、「ゲタ京極」または「ゲタばき京極」とも呼ばれ、新京極や寺町京極に比べ、庶民を対象とした繁華街として親しまれた。
また、かつて市内を走っていた京都市電千本線の電停の名称でもあった。


土屋町通北は一条通から南は竹屋町通までで、元和元年(1615)に開通したとされている。おおむね聚楽第外郭西堀ののり面に沿って、距離約1.2㎞の道路である。現在でもこの辺りは低地である。中立売通をはさんですぐ南側は、高低差約3mの崖になっており、一般的には外郭西堀の遺構とみなされているが、発掘調査がされていないため、確証はない。現在、やや傾斜のきつい坂道であるが、1990年頃までは階段であったため、車両の通行ができなかった。
文禄4年(1595)秀吉が聚楽第破却後、すべてが埋め戻されることはなく、西堀跡は生活ごみの廃棄場所となった。そのため、肥沃な土地となり、とりわけごぼうが栽培されたことから、のちに「堀川ごぼう」の産地として知られることとなった。
また、この辺りでは「聚楽土」といわれる良質な焼き物用の土が多く採れたことから、土を商う者が多く居つくようになった。それが、「土屋町」という通り名の由来とされている。


  豊臣秀勝邸跡

ここには秀吉の姉の子で秀吉の養子となった豊臣秀勝の邸宅があったとされる。
秀勝は、永禄12年(1569)秀吉の姉の瑞龍院日秀と三好一路の二男として生まれた。  幼名は小吉(こきち)。小吉秀勝(または三好秀勝)とも呼ばれ、石松丸秀勝(秀吉の最初の実子と言われる)・於次丸秀勝(織田信長の第4子で秀吉の養子となった)と区別される。
天正13年(1585)浅井江を正室に迎えた。翌年小吉秀勝と江と間に完子(さだこ)が産まれた。文禄元年(1592)秀勝は壱岐島から朝鮮国巨済島に渡ったが、半年程滞陣していた間に病を発して、戦死した。秀勝の遺体は姉の瑞龍院日秀によって,嵯峨亀山の善正寺に葬られた。後に瑞龍院日秀は善正寺を上京区岡崎(現左京区岡崎)に移し、この時秀勝の墓も移された。しかしこれは豊臣秀次の墓として誤伝されているようで、豊臣小吉秀勝の碑銘の残った墓は無い。秀勝の妻江はその後徳川秀忠に再嫁したが、子の完子は同行せず、江の姉である淀殿に養育され、成長後は九条幸家に嫁いだ。完子の子孫は大正天皇の貞明皇后となり、現在の皇室・宮家に続いている。


  松林寺

山門前の道路(新出水通)から本堂にかけてなだらかな坂となり、さらに墓地にかけて一段と低くなっている。この落込みは、聚楽第の外郭南堀跡と考えられている、また山門前の道路から北の出水通までは3.5mの高低差がある。松林寺は,通称やす寺(安産の安から)と呼ばれる浄土宗のお寺で、本山は金戒光明寺(通称黒谷さん)。1608年開山の清印の母が重病となり、母の回復を祈願したところ、薬師如来が現れて婦人病や安産に効験あらたかな「蘇命散」の処方を伝授したという。この寺は元禄年間(16881704)に二条河原町から移転。太平洋戦争前まで、寺でも「蘇命散」を販売していたという。


  辰巳公園

平安京の大内裏(平安宮)の辰巳の方角(北東)にあるため、辰巳公園。
南外堀跡…この場所は聚楽邸南外堀があった。平成24年(2012)の発掘調査で、南堀北側の石垣が32mにわたって発見された。石垣の石材は非常に大きく、高度な技術で積まれていた。石垣は地下にそのままの形で保存された。この説明書きの下に歴史が眠っている。
西陣空襲1945626日 B29の爆弾投下があった。50キロ爆弾7発とも5発とも。上長者町通、大宮通、下立売通、浄福寺通に囲まれた400m四方。
警察発表によると、死者43名、重傷13名、全壊家屋71戸、半壊家屋84戸、罹災者850名。


  梅雨の井

太閤秀吉が茶の湯に使う水を汲ませた井戸の遺構との伝承がある。現存する聚楽第唯一の遺構、と言われたが、破却後に掘った井戸だという説もある。しかし、場所が確定しているわけではなく、江戸期の「都名所案内」に描かれている中に「梅雨の候には、水井筒より上に溢れて、出水通に流れ出す清涼なり、…天明8年正月、京師火災の後崩れて埋まり、今は水出ず。」(諸国年中行事大成)
「昭和25年(195014日早朝異音に気づいた近隣住民がその後地鳴りがして井戸内側の石積が崩落した。」…(駒敏郎・京洛名水巡り)。以後手押しポンプと駒札のみとなる。
平成2年(1990)この付近一帯で地上げ騒ぎがあり、「聚楽第の遺跡・梅雨の井を守ろう」との住民運動が発生し、京都市議会で遺跡の保全と復活の請願が全会一致で採択された。


  南堀鵲(かささぎ)橋の旧跡

石の碑文は判読しにくいが「聚楽城鵲橋旧跡」と書いてある。鵲橋という石の橋が聚楽第の南二の丸の池に架かっていたのではないかと言われている。中国の伝説で鵲は、陰暦7月7日の夜、年に一度だけ翼を並べ、天の川に橋を架けて牽牛・織女を通すという(淮南子(えなんじ))。この故事にちなみ鵲橋とは、男女の契りの橋渡しを意味した。男の側から詠んだ「彦星の行合いを待つかささぎの と渡る橋をわれにかさなん」(菅原道真)という歌がある。また、宮中の階(きざはし=階段)を鵲橋とも呼んだ。それを踏まえ、「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける」(大伴家持。小倉百人一首)という歌がある


  堀川団地と堀川商店街

戦前、現在の広い堀川通は存在せず、堀川(河川)と葭屋町(よしやまち)通の間に、西堀川通と呼ばれる南北の細い通りがあった(市電は、堀川の東側を走っていた)。
界隈は、16世紀の頃から京都最大の魚鳥菜果市場として栄え、明治中期頃から小売店舗や飲食店が軒を連ね、大正中期には私費舗装が施され、鉄骨アーチのテントがかけられた。最先端の娯楽施設など様々な種類の店が立ち、ピーク時には商店街を訪れる人で向かい側が見えないほどの賑わいをみせ、東の新京極に対して西の『堀川京極』と呼ばれた。


  直江兼続・上杉景勝邸跡

当地は、豊臣政権の五大老の一人の上杉景勝と、その重臣の直江兼続の屋敷が営まれたとされる。
歴史地理学者・中村武生氏の説明駒札では、以下のとおり記載されている。
『江戸中期の「京町鑑」は、当地の南隣の「直家町」を直江屋敷跡と伝承している。また、江戸初期に描かれた 「京都図屛風」をみると、当町はもと「なおい町」だった。「なおい」=「直江」と解すると、直江兼続屋敷跡の重要な参考地といえる。
直江兼続(1560-1619)は、「愛」の一字を兜の前立てに掲げ※、上杉家の重臣として力を尽くし、「兼続は上杉家の舵取りを任せられる、大きな器の持ち主」と、景勝から絶大な信頼を得ていたことが、上杉家文書に記されている。
また、兼続は、有能で忠義に篤く、秀吉は「天下の政治を任せられる一人」と絶賛している。一方、家康に対しては「直江状」を送り、毅然とした姿勢を貫き、一目おかれた智将であった。 
「直江状」
は、徳川家康から上杉景勝にかけられた謀反の嫌疑などの言いがかりに対 して、直江兼続が、一つ一つ、理をもって堂々と反論した書簡のことである。
この「直江状」が関ヶ原の戦いのきっかけとなる、会津攻めを家康に決意させたとする説がある。


史跡巡りコース

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