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ウォークの地図

京田辺の歴史遺産を訪ねて
…家康の伊賀越え道を辿る…

京田辺には弥生時代の高地性集落、越前からヤマト王権入りした継体天皇の筒城宮跡、木津川の水運を支配した豪族の古墳、平城京から地方へ繋がる官道の最初の駅家(うまや)山本驛跡があり、また家康最大の危機、本能寺の変発生後に家康主従が、飯盛山から尊延寺・甘南備山麓を経て草内の渡しに至るまで、伊賀越えの途中に辿った京田辺市内の史跡を巡ります。




  田辺天神山遺跡

普賢寺谷入口の北側、木津川流域を一望できる標高80メートルの丘陵地の南北90m、東西60mの平坦地に、弥生時代後期の集落跡が 残されている。倭国騒乱で水際から、川に沿って山を開き集落を形成していったといわれ、20軒以上の竪穴住居跡が発見されている。
また、出土品は土器や鍬先状鉄器、刀子、ヤリガンナ、鉄鏃、石斧、石鏃に類例が少ない半球形青銅器がある。居住形態の変化と合わせるように利器の素材も石から金属へと変わっていったことから、弥生時代から古墳時代ヤマト王権の確立への社会の変化をうかがい知ることもできる。出土品は同志社歴史資料館。
南山城地域における高地性集落の代表例として注目を集め、現在は同志社校地内に史跡公園として整備・保存・展示されている。


  筒城宮跡

この辺り(興戸・多々羅・普賢寺など)は、第26代天皇、継体天皇の筒城宮があったとされる場所である。 『日本書紀』によると、継体天皇は樟葉宮にて即位した後、511年宮を筒城に遷し、7年間この地で過ごしたという。2011年は、筒城宮がおかれてから1500年を迎える。
継体天皇は、応神天皇5世の孫で、近江国高嶋郷三尾野(滋賀県高島市)で誕生。幼少の頃に父が亡くなり、母の故郷である越前三国(福井県丸岡町高田高向へ移り住む。しかし、当時の武烈天皇に後継者がなかったため武烈天皇の姉手白髪皇女を皇后として58歳で即位。その後、弟国宮(乙訓)を経て大和に入った。晩年、九州で磐井との戦い(527年)があり平定に苦心したが、後継を安閑天皇にり、531その即位と同時に崩御した。
また『古事記』『日本書記』によれば、筒城宮は仁徳天皇皇后の磐之姫が崩御した宮ともいわれるが、考古学的な想定遺跡はない。



  山崎神社

御祭神の額田大中日子命は応神天皇の皇子。もとの鎮座地今の場所より西南約55メートルの所にあり、宝亀年間(770-780年)に現在地へ移された。 一説によると継体天皇の第8皇子・菟皇子を祭神とし、明治初期までは八王子社とも皇子神社ともいわれていた。また壬申の乱の大友皇子の墓所の伝説もある。
山崎2号墳の上に建立されていることから、古墳を神格化したことがわかる。縄文中期の石棒と異形石器をご神体としている。山崎2号墳は菟皇子の墓といわれ、境内に天井石が残っている。また玉垣に新国劇の島田正吾の名が刻まれている。山崎1号墳は山崎公民館付近で多くの勾玉が出土。  山崎3号墳は権現塚と呼ばれ、継体天皇御陵との伝承ある。


  寿宝寺

文武天皇の時代に創建されたと伝えられる。古くは「山本の大寺」と称せられ、七堂伽藍の備わった大きな寺であったが、度重なる木津川の氾濫により、享保171732)年、現在の小高い地に移転。明治維新に際し近隣の寺々を合併し、現在に至る。平成91997)年には大造営を行い、206年ぶりの改築となった。
重要文化財である十一面千手千眼観音立像は, 像高180センチメートル、一木造り。平安時代後期に作られたもので、藤原時代中期の様式をそなえた端正典雅な立像。衣紋や面相の表現が藤原時代の特色を示している。左右20の大脇手の前に、小脇手が扇状に配されている。目・眉・ひげに墨、口に朱が塗られる以外は檜の白木で造られており、清浄を喜ぶ神の御心にかなった仏として、神仏習合の先駆的な役割を担ったと考えられる。昼と夜と光線の具合で容貌が変化する。
また大きく造った四十手には、日輪、月輪、鏡、矢、雲、骨、剣など40の物を持つ。その他は掌を広げたように何層にも重なっており、すべての掌に眼が描かれ、千手千眼観音を表している。中央には六本の手があり、二本は中央で合掌、二本は中央下で定印して宝鉢をのせ、残りの二本は右手に錫杖、左手に戟を持っている。柳谷(乙訓郡)の観音と同木といわれ、これに因んで眼病平癒祈願に霊験があるといわれる。
この十一面千手千眼観音立像は、大阪河内の「葛井寺」と奈良「唐招提寺」の観音と共に、実際に千本の手を持つ観音として三大傑作のひとつである。


  山本驛跡石碑

和銅4年令で官道30里(約16km)ごとに置かれた驛家(うまや)の跡を記した石碑である。築地に囲まれた内部に厩舎、宿泊施設、駅長、役人の官舎、倉庫などがあった。山本驛は、平城京から山陽道、東山道、北陸道に繋がる交通の要所であった。


  穴山梅雪墓地

穴山信君は、武田信玄の二十四将に数えられる武将で、母は信玄の姉、妻に信玄の三女を持つ武田家の一門衆であった。信君は武田家の外交官として駿河進攻の際には今川との折衝にあたる。今川を滅ぼし駿河を手にした信玄は、西上作戦に取りかかる途上で死亡する。
後継の武田勝頼は、領土拡大策をとり織田・徳川と対決していく。天正3年(1575勝頼は長篠・設楽原の戦いに敗れ、武田家は劣勢に陥る。その後、勝頼の高天神城の救援がなかった事などから次第に家臣の離反してゆく。
天正8年(1580)信君は出家し梅雪斎と号する。天正10年織田信忠の甲斐侵攻に際し、梅雪は甲斐一国の拝領と武田氏の名跡継承を条件に、徳川家康の誘いに乗り、信長に内応した。続いて木曽氏、小山田氏など家臣の裏切りが重なり、武田勝頼は天目山で織田軍の追撃を受け討ち死にした。
戦いの後、梅雪は本領安堵の御礼のために、家康と共に安土城に信長を訪れ、堺への遊覧を勧められ赴く。堺から京に戻る途中、飯盛山辺りで家康一行は本能寺の変の知らせを受けたが梅雪は病(諸説あり)もあって一日遅れ、家康と同じ道筋で帰国を目指した。
しかし、飯岡のあたりで農民の一揆に巻き込まれたとか、落武者狩りで家康と見間違えられて討たれた。若しくは従者が道案内人を殺したことから土民により殺されたとか、または追われて自害したなど諸説ある。飯岡では悲運の武将として村人が手厚く葬った。


  飯岡車塚古墳

飯岡車塚古墳は飯岡古墳群中で最大かつ唯一の前方後円墳である。前方部 は茶畑、後円部は竹林の荒地となっている。 調査経過 明治 351902)年に後 円部が発掘された際には、「塚ノ全面ハ今開墾サレテ密柑畑トナリ」とあり、当時から開墾されていた様子が伺える。
その後、昭和 511976)年に田辺町教育委委員 会が道路拡張工事のための発掘調査を実施した。後円部東側墳丘裾部分で基底石、葺石および楕円筒 埴輪を検出している。前方部があまり開かない形状をしている。
副葬品等は、鍬形石1、車輪石4、石釧 24、管玉 26、勾玉4、小玉1、脚付小形坩破片1、合子1、 刀剣破片1が出土した。
墳丘の遺存状態が比較的良好で、 副葬品が判明している古墳として非常に高い価値を有している。
墳頂に三宅安兵衛の石碑があり、「上埴葉王(うえのえばのみこ)古墳・恵波王・椀子 宣化天皇皇子」と彫られている。


  薬師山古墳

平成5(1993)年に京田辺市の史跡として指定された。 現在は市有地であり良好な遺存状態を保っている。墳頂に薬師堂を置き、現在も信仰の対象とされて いる。 墳丘の形態・外表施設は未調査だが、古墳の北側で調査を行った際に掘割りの可能性がある溝 を検出した。
○ 家康の伊賀越え
本能寺の変を聞いた家康は、自らの首をも狙われている事を知る。一度は京都に上り自刃すると主張するが、家臣の説得で自国領・三河への帰国を決意した。
甲賀・伊賀を抜け海路を使って三河へ帰ることを決めた。しかしこのルートも危険をはらんでいた。行路は整備されていない山道で、あちこちに明智方の落ち武者狩りの一揆勢力が潜んでいる可能性があった。
後に家康の伊賀越えを記した『石川忠総留書』によると、62日は、飯盛山西麓から東に向かい木津川を越えて、宇治田原町郷之口の山口光広の館に泊まった。13里の行程であった。翌3日は宇治田原から甲賀に至り、土豪の多羅尾光俊が治める小川城で一泊した。この行程は6里でやや短い。4日は小川城から最短の桜峠を越えて伊賀の柘植に至り、関からは東海道の亀山・四日市を辿り白子の浜に着く。陸路17里の強行軍であった。ここで伊勢大湊の商人角谷七郎次郎の用意した船に乗り、知多半島の常滑を経て翌朝三河の大浜に着船し岡崎城に帰ることができた。
家康は、同行する三河以来の家臣団の懸命な働きと、信長の家臣長谷川秀一、土地勘のある服部正成(半蔵)や多羅尾光俊、旧知の商人茶屋四郎次郎・角谷七郎次郎等による行く手の経略を担う協力者によって、難路を切り抜けて三河に帰着した。家康は彼らの功績を終生忘れることなく、服部、多羅尾は旗本に取り立てられ、茶屋は幕府御用達の呉服商として朱印船貿易に携わり、角谷は廻船自由の特権を与えられ朱印船貿易に参入している。


  飯岡咋岡神社

建築年代など不詳。木津川の氾濫により、江戸中期の元禄8年(1695)に現在地に移され、その際に菅原道真が新に祭神に加えられ整備されたことが、文書と石燈籠銘文から判明する。元の位置は、飯岡の北端で木津川と普賢寺川の合流点の箇所であったと口伝されている」
 また、山城綴喜郡誌(1908・明治後期)には、
明治61873)年村社となり、明治101877)年に延喜式内咋岡神社と決定、今の社名にあらためたという。おそらく草内・飯岡の氏神であったが、木津川の氾濫により飯岡に遷され、また草内でも分かれて咋岡神社を祀ったのであろう。元の社地から2社はほぼ同じ距離に移転したものなので、どちらが式内社 咋岡神社かは決め難く、どちらも式内社 咋岡神社であると言えるかも知れない。本殿前の割拝殿には、八十八歳の米寿祝いに一升桝と掻き棒の額が奉納されている。
境内の巨木・スダジイは、平成31991)年に「京都の自然200選」に指定された。
〇萬葉歌碑 「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐなり」 柿本人麻呂 (訳)春草を馬が食う 馬咋山を通って 越えて来るらしい   雁の使いは 何の便りも無く 旅の宿りを過ぎていくことだ


  飯岡の渡し

飯岡の渡しは農業者のための「耕作通い舟」とされていた。穴山梅雪終焉の地かも?
〇 飯岡の東裾
東大寺大仏殿建立のおり、材木の筏をとめた木津川の岩山を、良弁(ろうべん)僧正が法力で砕いた片割れが、この丘になったという。
〇 飯岡横穴 2基あったが、現在は1基
〇 飯岡村用水路石碑
干害・水害を繰り返す水田に万年樋した豊田武兵衛の顕彰碑、三宅安兵衛の石碑
○ 山本の渡し
飯岡の渡しの上流にある玉水橋の付近に山本の渡しがあり対岸の玉水の渡しと結んでいた。山本の渡しは、河内から南山城の普賢寺谷を経て、近江や伊賀・伊勢へ向う商人や旅人にとって親しみ易い短絡路上の渡しで一般通行のための「往来渡し場」であった。


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