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・・・稲荷の山々を仰ぎつつ・・・

桜花爛漫の4月8日(日)に,深草界隈のウォークを次のように行いました。


 伏見稲荷大社
秦氏所縁のお稲荷さんは,平安遷都後全国の稲荷神社の総本社として発展した。社殿はもと稲荷山頂の三が峰にあったが,応仁の乱で焼失し,現在の場所へ移ったという。正面の向拝は,豊臣秀吉の建築したもので,桃山時代の豪華な彫刻が見られ,本殿南の御茶屋は仙洞御所のものを,御水尾上皇より下賜されたという。末社の白狐社の左横に狐の出入り口があった。



 ぬりこべ地蔵
お稲荷さんから石峰寺に至る路傍に歯痛封じで有名な地蔵さんがある。元は直違橋通の摂取院境外墓地に塗込めの御堂に安置されていたことが由来のようだが,今では歯痛のみならず病気治癒,良縁,就職などの礼状が全国(外国も)から寄せられるという。



 石峰寺
黄檗宗の単立寺院で,中国風の竜宮造りの門が目を引く石峰寺は,五百羅漢の石仏郡で有名である。これは江戸期の画家伊藤若沖の下絵をもとにつくらたもので,洒脱な風貌は微笑ましい感じがする。伊藤若沖は,鶏など動物画の独特の画風で知られ,晩年は石峰寺に庵を結び,生涯を終えた。南側墓地に「斗米庵若沖居士}の墓石が佇む。



 宝塔寺
日蓮・日朗・日像三代の遺骨を納める多宝塔によって寺名となった。多宝塔は京都市では最古のもので,また桃山時代に再建された本堂も日蓮宗本堂としては本格的な建造物で京都最古のものである。現在,京都府文化財保護課により解体修理中で,再び極彩色の伽藍が見られるだろう。



 瑞光寺
宝塔寺と同じく日蓮宗妙顕寺派だが,元極楽寺の薬師堂跡である。法華道場として再興した元彦根藩士の元政上人は孝心厚く,また出家前の江戸吉原の高尾太夫との悲恋物語も伝えられる。JR奈良線を挟んだ境内の一角に竹三本を植えただけの墓が残り,この笹の葉を縁を切りたい人の枕に入れると願いが叶うとか。



 深草十二帝陵
1304年後深草崩御の際,当地に葬られてから以後12代にわたり天皇と一人の親王の遺骨が安置された。南北朝頃から御陵も荒廃し,室町時代から戦国時代にかけて皇室も大変貧しく,お側の者がご遺骨を首にかけて運んだともいわれ,そんな時代を生きた天皇陵がJR線路脇にある。



 藤森神社
武神を祀るこの神社は,産土神でもあり,伏見稲荷や御香宮とともに洛南屈指の古社である。社伝では神宮皇后が朝鮮半島への出兵より帰国後,旗と兵器を納めたのが起こりといわれる。中世以降は,武神として崇められ,毎年5月5日の藤森祭には甲冑武者の行列が恒例であり,菖蒲の節句発祥といわれる。祭日に行われる驅馬の神事が残っているのは,上賀茂神社と藤森神社だけである。



 墨染桜寺
古今集に上野岑雄朝臣(かんつけのみねおあそん)が,藤原基経の死を悲しんで「深草の野辺の桜し心有らば 今年ばかりは墨染に咲け」と詠んだことから墨染の地名と薄墨のような墨染桜で名高い。寺宝として,長谷川等伯による豊臣秀吉画像がある。



 欣浄寺
小野小町との百夜通いで知られる深草の少将が住んでいたといわれ,庭に「小町姿見の池」や少将遺愛の「墨染の井戸}がある。本堂には,伏見義民一揆で亡くなった文殊九助以下九人の供養に発願された木造の伏見大仏がある。中央の池には,巨椋池にあった蓮が移植され毎年白い花を咲かすという。



 撞木町遊郭跡
江戸時代の撞木町は,京都・大津への分岐点に近く,人々の往来で賑わい一大繁華街であった。忠臣蔵の大石内蔵助が浮橋太夫と遊興を重ねたのは,一番大きな妓楼の笹屋清左衛門といい,内蔵助専用部屋もあったというが今は碑が寂しく残る。国道24号線の郵便局東側に撞木橋の石碑が佇む。今は暗渠となっているが当時はこの橋を渡って遊興したことだろう。