>
ウォークの地図

桜花舞う伏見の古社寺を巡る


  西岸寺

法性寺小御堂(ほうしょうじこみどう)、法性寺は藤原忠平の建立で後に九条道家によって東福寺となる。九条兼実(かねざね)はこの地を愛したので花園御殿ともいわれていた。
後白河法皇もしばしばこの地に行幸されており、後に法皇の御製(ぎょせい)にちなんで西岸寺と号した。現在は浄土真宗本願寺派に属している。
玉日姫の御廟所親鸞聖人は兼実の娘、玉日姫を娶ったが、承元元年(1207)の法難によりこの地より越後に流された。以来玉日姫はこの小堂を守り、ここでなくなった。
法性寺街道(道長の通った道)伏水街道とも大和街道とも(秀吉が御所に牛車で参内した)


  直違橋


◆明治6年にそれまでの土橋から石橋に架け替えたもので、北白川の石工谷によるもの。
七瀬川は東北から西南方向に流れており、南北に橋を斜めにかけたことから
「直違橋」と呼ばれた。



  鴨川運河

鴨川運河は、琵琶湖疏水のうち京都市左京区冷泉放水口から伏見区堀詰町までの8.9kmの区間の呼称である。この区間の工事は大津-鴨川合流点(冷泉放水口)間の第1疏水の工事が1890年に完成した後、189211月に着工し、1894(明治279月に完成した。京と伏見を結ぶ伏見街道本町通)に沿って開削され、墨染にはインクラインが設けられるなど、当初は舟運にも利用されていたが、並行して走る京阪本線JR奈良線など周辺の鉄道交通網の発達によって次第にその役割を減らし、インクラインが撤去された現在は墨染発電所への送水が主な役割となっている。2019年に水路、数多くの橋梁や樋門三ノ橋放水路制水門、七瀬川放水路などは「琵琶湖疏水鴨川運河施設群」として、土木学会選奨土木遺産に選ばれる。橋脚の六芒星は水利局の紋章。五芒星は陸軍の紋章。



  墨染寺

平安時代前期、この近辺には貞観寺(じょうがんじ)があった。清和天皇の勅願により摂政 藤原良房が建立した広大な寺院があった。伝説の始まりは、良房の養子で太政大臣の藤原基経(ふじわら もとつね)が寛平3891に亡くなり、この地に葬られた時の事である。(基経の墓は宇治の木幡丘陵の方が有力)基経の死を悼んだ、友人の上野岑雄(かんつけのみねお)が「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け(古今集)」と詠んだところ境内の桜が薄墨色の花を咲かせたという。
その後天正年間(1573年~1593年)頃に大僧都・日秀上人が墨染桜の話を聞いた関白・豊臣秀吉の寄進により、日蓮宗墨染桜寺(ぼくせんおうじ)として再興したと言われており、秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに・村雲尼)が法華経に帰依していたとも言われている。江戸時代に現在の場所に移ったが、その後荒廃し、学妙上人が再興したと言われている。
見どころ「墨染井」は、明和51768歌舞伎役者・2代目中村歌右衛門が寄進したもの。
「桜寺」の扁額、ほかに雨水曹に桜のレリーフと軒丸瓦に「桜」の文字が見どころ。


  欣浄寺

◆真言宗から曹洞宗になり浄土宗になった後に清凉山(せいりょうざん)と号しまた曹洞宗に文化年間に改宗。
本堂には俗に「伏見の大仏」(木像で一部は張りぼて)と呼ばれる丈六の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などを安置している。(由緒由来は不明だが江戸時代初期のものか)
昔深草少将の屋敷があったところと伝えられ、池の東の薮陰の道は「少将の通い道」と呼ばれ、訴訟のある者はこの道を通ると願いが叶わないといわれている。なお池の畔には少将と小野小町の塚と「墨染井(すみぞめい)」と呼ばれる井戸がある。 
曹洞宗開祖の道元京都、乙訓郡久我村生まれ、京都で亡くなる(高辻西洞院西入る永養寺)


  関電墨染発電所

明治45年1912第二琵琶湖疏水完成に伴い、伏見インクラインの落差を利用し大正3年19145運転を開始した。鴨川運河深草に位置するため旧名称は伏見発電所。 2017現在は関西電力の発電所となっている。 2001に「琵琶湖疏水の発電施設群」として、蹴上発電所夷川発電所とともに土木学会選奨土木遺産に認定されている。認可最大出力2,200kw(蹴上発電所4,500kw


  出雲路橋

鴨川運河で桜が映える場所、昔は人が飛び込んで泳いでいた。大正12年竣工、現在は昭和49年に改修済み。


  栄春寺

 永禄11年(1568)開創の曹洞宗寺院伏見最古の曹洞宗寺院、道元禅師三十二禅刹の一寺。
伏見城遺構の総門と伏見城総構え(土塁)が唯一現存する。
長沼流兵法の祖、長沼宗敬(むねとし)の墓碑有。江戸時代初期の兵学者。
現本堂は、天保10年(1839の改築、本尊は伝泰澄大師作の釈迦如来座像であり、徳川家康の家臣であった酒井重勝が寄進したものである。
観音堂は文化11年(1814の建立で、西国十三所観音として聖観音を祀る
小畑勇山の墓


  津知橋

 ◆大正9年の竣工、上流部には船溜まりと荷上場があった。
昔は毎月1日と15日は
藻狩りの日で、船便も発電所も止めていた。


  本成寺

 妙栄山(みょうえいざん)と号する法華宗大本山本能寺の末寺である。天正10年(1582)の「本能寺の変」後、同寺の再建に尽力した、本能寺中興日逕(にちきょう)聖人によって、慶長2年(1597)に創建されたのが当寺である。
当初、現在の
伏見区上板橋中之町にあったが、その後、寛永13年(1636)、篤信者中村隆運が法華経千部読誦の心願成就を機に、伏見町奉行水野石見守忠貞の協力を得て、現在地に移した
「痰切り地蔵」として地域の信仰を集め、かつては縁日に夜店が出て賑ったとのことである。この蔵菩薩像は、もと伏見区三栖の薬師寺支配の大亀谷地蔵院にあったが、承応元年(1652)に隆閑寺学室に、更に明治3年(1870)に当寺境内に移されたもの。


  勝念寺

浄土宗知恩院末寺で、織田信長が深く帰依した聖誉貞安上人により天正15年(1587に開創された。
本能寺の変で信長は本能寺で、嫡男信忠は御池御所で自刃した。正親町天皇の勅命により貞安上人は信長・信忠父子の菩提を弔うため信忠自刃の地である御池御所を賜り大雲院を開創し、同時に時の天下人豊臣秀吉公の城下町である伏見丹波橋に一寺を開創して安養山勝念寺と号した。
釜敷地蔵尊は地獄で釜茹の責めに苦しむ亡者に代わり自ら釜の中で苦を受ける身代地蔵尊で、「かましきさん」として江戸時代より信仰を集めている。


  寒天発祥の地

冬場に薩摩藩主が宿屋でところてんを食べ残した。それが凍結・乾燥して寒天になった。
寒天が出来て羊羹の賞味期限が長くなった。蒸羊羹から練羊羹へ。産地は高槻になり、丹波に移り現在は長野県の諏訪地方。寒天と命名したのは隠元禅師。


  大黒寺

「出世大黒天」、もとは長福寺と称した。元和元年1615薩摩藩島津義弘が、薩摩藩邸からも近いこの寺を藩の祈祷所とすべく、伏見奉行山口駿河守に懇願したことで、本尊は大黒天となった。ただ、当時より一般には「薩摩寺」の通り名で呼ばれていたという。爾来、薩摩藩ゆかりの寺となる。
幕末期には志士達の密儀がたびたび寺内で行われていたという。寺田屋事件の九烈士もこの地に葬られており、遺品や書・歌などが今でも寺内に保管されているほか、西郷隆盛大久保利通らとの会談の部屋もそのまま残されている。
平田靱負(ひらたゆきえ)の墓所が移設されている1752年から1755年に薩摩藩が担当した木曽川・長良川・揖斐川の治水工事では工事途中で橋が流されたことなどの影響もあり300万両もの巨額な費用がかかった。その責任をとって薩摩藩家老の平田靱負は自刃した。


  金札宮

750に創建。 はじめは伏見九郷中の久米村に鎮座していた。 境内社の久米寺1355西方寺に名称が変わり、豊臣秀吉の城下町造成により、外堀の西方久米町の辺りに移転されたのをきっかけに金札宮は伏見城中に移された。 江戸時代になり、1615に鷹匠町に喜運寺を創建するに伴い、その鎮守社となるため現在地の鷹匠町に移転された。 明治元年に神仏分離により独立]


Copyright © 2000-2009 KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All Rights Reserved.