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ウォークの地図

春光満ちる栗原岡から神楽岡へ

黒谷は栗原岡と呼ばれ「仏の岡」、吉田山は「神の岡」、岡崎の地名はこの二つの岡の先に位置するとともに近代建築物も点在し、春うららの中を仏、神、人を紬いで歩きました。

  満願寺

日蓮宗。山号は示現山(じげんざん)。もとは西ノ京にあって、菅原道真の乳母、多治比文子(たじひのあやこ)が道真追悼のために建立した堂宇を起源とし、天慶3(940)年に北野朝日寺の最珍を開山として創建されたと伝えられます(道真自作の天満自在天像を安置)。北野天満宮七保(しちほ)の御供所(ごくしょ)の一つであった五ノ保社でもありました。当初は真言宗でしたが、元禄101697)年に日蓮宗に改宗、同131700)年、東山天皇の勅願寺になりました。本堂は、現在地に移転してきた後まもなく元禄期末に造営されたもので、京都市内に残る日蓮宗の一般寺院本堂の中では古いほうに属します。本堂前に映画監督溝口健二の碑と制作中に死去した映画『大阪物語』の碑があります。
妙見さん 当初、法勝寺(ほっしょうじ)旧跡にあった本光寺に祀られていましたが、安永3(1774)年の大火で本光寺が焼失したため当山に移されました。洛陽十二支妙見めぐりの辰の寺。「岡崎の妙見さん」とも呼ばれ、妙見菩薩蟇股のヘビを見ることができます。
閼伽井(あかい) 法勝寺の井戸と伝えられます。満願寺は法勝寺の北限附近に建つと推定されており、後白河上皇の側近で岡崎法勝寺の執行であった俊寛僧都(鹿ヶ谷の陰謀にて流罪)の邸宅がこの付近にあったとされます。


  岡崎神社

御祭神は速素盞鳴稲田、三女五男八柱御子
延暦13(794)年の平安京遷都に際し、王城鎮護の為平安京の四方に建立された社の1つで、陽の出ずる都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称しました。貞観11(869)年に清和天皇勅命により社殿を造営し、播磨国広峰(現・姫路市)より祇園牛頭天王(速素盞鳴尊)等を迎え祀り悪疫の治まりを祈願しました。
ウサギ 御祭神二柱が三女五男八柱神ものたくさんの御子神をもうけられ子宝に恵まれた霊験あらたかな子授け安産の神です。また、往時境内を始め地域一帯が野うさぎの生息地で、多産なうさぎは古くから氏神様の神使いと伝えられました。治承2(1178)年には高倉天皇中宮も安産の祈願をされるなど安産の神としての信仰は厚く、腹帯を持ち込み祈願する慣わしがあります。
三善清行卿邸址  三善清行は延喜14(914)年醍醐天皇に上奏した政治意見書(意見封事十二箇条)などで知られる平安時代前期の文章博士公卿。菅原道真のライバルとしても知られます。また、一条戻橋でこの世に戻ってきた人としての言い伝えもあります。



  金戒光明寺

浄土宗鎮西義、山号は紫雲山。安元元(1175)年、浄土宗開祖法然坊源空が比叡山西塔の黒谷別所を出て、白川の地に庵室を結んだのが起源。室町時代には念仏と戒律の寺として公武の尊崇を受けましたが、応仁の乱で僧も四散。のち鎮西義の僧極誉理聖(ごくよりしょう)17世紀に招かれて再興、鎮西義の寺となりました。元正2(1574)年に織田信長は禁制を下し、同13(1585)年に豊臣秀吉は寺領130石を与え、慶長15(1610)年には紫衣の寺となりました。新選組発祥の地であり、本陣を置いたことでも有名な寺です。文久2(1862)年、幕府は暗殺や強奪が日常化した京都の治安維持のために、新しく京都守護職を置き、会津藩松平容保が14代将軍家茂からその職に任ぜられました。金戒光明寺が本陣に選ばれた理由としては、①城構え(自然の要塞で、特に西からくる敵に対しては大山崎、淀川あたりまで見渡せる)、②要所に近い(御所まで2km、東海道の発着点の粟田口まで1.5km)、③千名の軍隊が駐屯できる約4万坪の寺域が挙げられます。境内には一の谷の合戦で平敦盛を打ち取り鎌倉幕府成立に貢献した熊谷直実(くまがいなおざね)に関連した、蓮池(直実が兜を置いた)、鎧掛けの松、蓮池院(直実が出家し、法力房蓮生となり庵を結んだ)、熊谷直実供養塔(源平合戦で首を取った平敦盛の供養塔と相対)などの史跡が見られます。
三重塔「文殊塔」 徳川秀忠の菩提を弔うため、寛永101633)年に建てられ、近年まで文殊菩薩と脇侍像を安置(現在は御影堂に安置)していました。文殊菩薩は渡海文殊形式で運慶作と伝えられていますが実際の作者は不明です。日本三文殊の一つとして信仰されています。
法然上人御廟所  法然の遺骨が祀られています。
五劫思惟阿弥陀如来像 通称アフロ阿弥陀。全国でも16体しかない中、これは特に珍しい石像で江戸時代中頃の制作とみられます。阿弥陀仏がもろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし修行をされた結果、阿弥陀仏となられたが、その間に髪の毛が伸びてうずたかく螺髪を積み重ねた頭となられた様子をあらわします。ほかに崇源院(浅井長政の娘お江、秀忠正室で家光の母)、春日局(家光の乳母)の墓などがあります。
西雲院・会津墓地 西雲院は、元和2(1616)年、宗厳(そうごん)上人が法然上人ゆかりの紫雲石を賜り、そこに開創したのが始まりとされます。西雲院の東側には、幕末に活躍した会津藩の殉難者墓地があります(会津松平家は神道のため、約7割が神霊)。また、境内には幕末の任侠会津小鉄や、江戸時代文人画家池大雅(いけのたいが)の妻玉蘭(ぎょくらん)の墓もあります。


  真如堂


天台宗。正式名称は鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺。比叡山の常行堂にあった阿弥陀如来を、戒算上人が永観2(984)年に現在地近くの東三条院(藤原詮子)の離宮に移したのが始まり。堂宇は応仁の乱で焼失し、ご本尊や寺は各地を転々とし、元禄年間にこの地に落ち着きました。本堂は享保2(1717)年に再建。正面の宮殿(徳川綱吉と桂昌院の寄進)の中には、ご本尊阿弥陀如来(円仁作でうなずきの弥陀として知られる)・不動明王(安倍晴明の念持仏)・千手千眼観音(伝最澄作)が祀られています。安倍晴明の閻魔王宮からの蘇生を表した掛け軸や閻魔大王から授かったとされる決定往生之印(五芒星)もあります。紅葉の名所としても有名な境内には春日局が亡父斎藤利三(としみつ)の菩提を弔うために植えた「たてかわ桜」があります。境内墓地には、斎藤利三、海北友松(かいほうゆうしょう)、向井去来(むかいきょらい)の墓、三井家各家累代の墓所もあります。
京都映画誕生の地  真如堂では牧野省三により明治41(1908)年に日本初の劇映画「本能寺合戦」が撮影されました。その時に使われた「シネマトグラフ」カメラを模した碑があります。
善光寺黒如来  茶所の仏間に元禄7(1694)年6月下旬~8月30日に長野の一光三尊善光寺如来が出張ご開帳した際の分身が祀られ、お姿が黒いので黒如来と呼ばれています。元禄5(1692)年の江戸深川回向院、元禄7(1694)年の真如堂と大坂四天王寺のご開帳は大盛況で、その収入で宝永4(1707)年善光寺の再建がなされました。元禄7年は真如堂も現地での本堂再建に着手したところであり、善光寺・真如堂双方の利害が一致した出開帳だったかもしれません。堂横にはご開帳に参詣した向井去来の句碑があります。
鎌倉地蔵   九尾の狐が日本に渡り、美女玉藻前に化けて鳥羽上皇に取り入りましたが陰陽師に見破られ、那須野が原に逃げた果てに退治されました。しかし狐は殺生石となり毒煙を吐き続けたので、玄翁(げんのう)禅師が殺生石を叩いて割り、悪霊を成仏させ、割れた石片で地蔵菩薩を刻みました。当初鎌倉にあったこの地蔵はそれを篤く信仰した甲良豊後守(こうらぶんごのかみ)への夢告により真如堂に遷座されました。
新長谷寺   洛陽三十三所観音霊場第5番札所。吉田神社創建者・藤原山蔭が幼少期に大亀に助けられた伝説にまつわる長谷観音の模造の十一面観音像を祀っています。元は吉田神社の一画にありましたが、明治時代の神仏分離で真如堂に移築されました。


  谷川住宅群

谷川住宅群は、吉田山東斜面一帯を大正末期から昭和初期にかけて、実業家・谷川茂次郎が貸家群として建築していったものです。かつて岡崎と北白川を結ぶメインストリートであった神楽岡通から吉田山東面の傾斜地に石垣を築き、8ブロックに分けた階段状の造成を行い、家々を石段や石畳のある道で結んでいます。
これらは概ね二階建ての木造銅版葺きで、当初は銅板の屋根が赤銅色に輝き、赤銅御殿と呼ばれました。設計は前田巧。各建築の二階部分に大きく東側へ開いた窓から、下段の家の屋根の上に視線を通して必ず大文字を独占できるようになっており、おもに京都帝大や三高の教官が借りて住んだと伝えられています。
住宅群は29軒中22軒が残存し、うち14軒が国登録有形文化財()、京都市の景観重要建造物()、歴史的風致形成建造物(12)に指定されています。
NHKドラマ「太陽の子 GIFT OF FIRE」、映画「太陽の子」のロケ地となりました。
谷川茂次郎1864-1940)は八瀬大原生まれ。いくつもの事業を経て明治341901)年、大阪で谷川運送店(現谷川運輸倉庫株式会社)を創業し、新聞用紙の運送を専門に行い事業に成功しました。その後、取引先の製紙会社の社長のすすめで茶道を始め、裏千家に入門して本格的に茶道に親しみました。また裏千家を強力に後援し、流儀の発展に貢献したことから今日庵の老分(長老)として処遇されました。


  茂庵と茶室

谷川茂次郎は大正10(1921)年から吉田山北東側の土地の購入を始め,同15(1926)年までに8席の茶室や月見台、楼閣、食事棟、待合を築きました。このうち、現存するのは、食堂棟(現・茂庵)、田舎席、静閑亭、待合のみで、平成16(2004)年に登録有形文化財に登録されています。
食堂棟は、木造2階建、寄棟造,銅板葺、建築面積64㎡で、数寄者谷川茂次郎が営んだ吉田山茶苑の中に独立して基壇上に建っています。軸部,小屋組等全体に丸太で構成され,東側面1階は壁面を後退させ懸造のようにみせています。棟両端に鳥形の鬼瓦をのせるなど,趣味性の強い,かつ優れた意匠の建物で、特徴的な外観を有します。
主に茶会における食堂として使用されました。1階を厨房とし,2階は一室の板間で大きな窓を設け眺望を意識した空間となっています。「茂庵」は茂次郎の雅号で、この食堂棟を利用し平成13(2001)5月にオープンしたカフェの名称に付けられました。


  吉田山

東山三十六峰の第12峰。山頂標高121m。京都盆地を東側から作り出した花折断層(滋賀県今津町から京都盆地まで直線的に延びる全長約50㎞の断層)の南端部に位置し、白川が作り出した東から西に向かって緩やかに傾斜する扇状地が、第四期中期更新世(60万年前)以降断層帯の末端に集中したエネルギーにより隆起した「末端膨隆丘(まったんぼうりゅうきゅう)」と呼ばれる特徴的な地形です。太古は神座(かみくら)であったと考えられ、「神座の岡」が転訛して「神楽岡」と呼ばれるようになったといわれます。また天岩戸の前で八百万の神々が神楽を演奏し、そこが降ってきて山(神楽岡)になったという伝承もあります。また遊猟地・陵墓地としても登場します。中世にはしばしば戦場になり、『太平記』には足利尊氏の軍勢が神楽岡に布陣し南朝方と戦ったとあります。
明治になると、西麓に旧制第三高等学校(現京都大学)が開校し、周辺は学生街や住宅地となりました。現在は吉田山緑地として京都市の特別緑地保全地区に指定され、市民の憩いの場になっています。


  斎場所大元宮

吉田神社の末社で重要文化財、慶長6(1601)年の再建。吉田兼倶が唱えた吉田神道の根本殿堂で、天神地祇八百万神をはじめ、天照大御神、豊受大御神、全国の式内神3132座を祀っています。八角円堂で神仏習合、道教等の諸説を取り入れた特異な建築物は、もとは吉田家の邸内にあったものを吉田兼倶が移築したもので、この社に一度参詣すれば、全国60余州の神祇に詣でたのと同じ効験があるとして信仰を集めました。
吉田神道では本地垂迹説(神は仏の仮の姿とする説)を否定。日本の神こそが本体であり、他国へ行って仏の姿になっていると説きます。


  山陰神社

(祭神)藤原山蔭、相殿に恵比須神。創建昭和321957)年。吉田神社を創建した藤原山蔭は、光孝天皇の命で宮中料理の調理法や作法などを整えるとともに、あらゆる食物の調理調味づけた始祖として包丁の祖、料理飲食の祖として崇敬されています。例祭では、生間(いかま)流の式包丁が奉納されます。
菓祖神社(かそじんじゃ)(祭神)田道間守命(たぢまもりのみこと)、林浄因命(はやしじょういんのみこと)京都菓子業界の創意で昭和32(1957)年菓祖神社創建奉賛会が結成され、鎮祭されました。田道間守は垂仁天皇(B.C.60年頃)に命じられ、不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)を探しに大陸に渡り、10年後に持ち帰りましたが、垂仁天皇は既に亡くなっていて、非時香菓はその後「田道間花」と呼ばれ、「橘」と書くようになったそうです。古代の菓子は果物であったともいわれます。田道間守が祀られた神社は但馬国の中嶋神社であり(現・兵庫県豊岡市)、菓祖神社はここから分霊されました。
林浄因は饅頭の元祖。中国の饅頭(まんとう)には肉などが入り仏教のお供物として使えませんでしたが、室町時代に林浄因が小豆を煮詰めて甘く味付けした餡を入れた饅頭(まんじゅう)を考案し大評判となりました。


  吉田神社

(祭神)建御賀命・伊波比命・天之子八命・比売。旧官幣中社。神楽岡(吉田山)の西麓に鎮座し、東一条通の東端より表参道が延びています。
貞観年間(859−877)に元中納言藤原山蔭が自宅に春日神を勧請したことに始まるといわれ、寛和2(986)年には、洛西の大原野神社に準じて官祭として扱いを受けることとなり、藤原氏の京都における氏神、平安京鎮護の神として崇敬を集めるようになりました。元の社地は現在地の西南(左京区吉田二本松町付近)でしたが、応仁の乱の兵火で焼亡ののち、文明年間(1469−87)に当地に遷座されました。
本殿4棟、中門、東西の御廊など9棟は府有形文化財。本殿は春日造で第一殿から第四殿までが横一列に並びます。社務は平安時代に卜部兼延(うらべかねのぶ)が祠官となってから代々卜部氏が継ぎ、室町初期の兼煕(かねひろ)が、卜部から吉田に改姓しました。
摂社に神楽岡社(神楽岡東側の産土神)、今宮社(神楽岡西側の産土神)、末社に若宮社(春日大社と同様に鎮座。吉田兼煕の創建と伝える)、神竜社(卜部兼倶を祀る。祖霊社とも)などがあります。
節分祭  2月2日の夕方6時から行われる「追儺式(鬼やらい神事)」は、邪気や疫病神を追放する、という行事で、古代中国から伝わり、平安時代の宮中で旧暦の大晦日に行われていました。赤(怒り)、青(悲しみ)、黄(苦しみ)の3匹の鬼と、疫病退散の力を持ち、顔に目が4つある鬼神「方相(ほうそう)氏」が子供を従えて、3匹の鬼を追い、最後に、上卿(上級の公卿)が桃の弓で葦矢を放って追い払うと、今年も怒り、悲しみ、苦しみから解き放たれるというものです。


  京都大学時計台

時計台は大正14(1925)年に建てられました(設計:武田五一)。時計はドイツのシーメンス社製で、日本初の電気大時計です。以来80年近くにわたり京都大学のシンボルとして親しまれ続けてきましたが、平成15(2003)年、創立百周年記念事業の一環として、観や内装の雰囲気はそのままに、最新の免震構法を取り入れた改修工事を終え、記念ホール、会議室、歴史展示室などがある百周年時計台記念館として生まれ変わりました。レストラン「ラトゥール」は、一般人も利用できます。
時計台を正面に見る本部構内正門は明治261893)年第三高等中学校正門として建設され、登録有形文化財に指定されています。


  尊攘堂

尊攘堂は明治20(1887)年、品川弥二郎が吉田松陰の遺志に基づき、幕末の尊攘運動で倒れた志士を祀る為、自邸内に創設した建物にその名が由来します。弥二郎氏の没後、京大に松陰の遺墨類を寄贈する事となり、それらを収蔵する為、明治36(1903)年に新築寄贈されました。平成10(1998)年、国の登録有形文化財として登録されています。
寄贈された遺墨類は松陰のものが中心ですが、松下村塾に集まった長州の志士たちの遺墨、遺品もあります。現在それらは、京大附属図書館に保管されており、尊攘堂の建物は文化財総合研究センター資料室として活用され、大学構内の発掘調査により出た遺物を展示しています(通常非公開)。
尊攘堂石碑   昭和151940)年10月に皇紀2600年を記念して建てられ、昭和201945)年8月21日に撤去されました。石碑の正面に「尊攘堂」、側面に「皇紀二千六百年記念」と刻まれていることから、「尊攘」「皇紀」の記述がGHQに問題視されることを当時の人々が危惧したのでは?と推測されています。その後、長い間所在不明となっていましたが、平成25(2013)年に大学構内で発見され、尊攘堂の沿革を知る上で重要な文化財であるとして、翌年12月に、元あった場所に近い位置に復旧されました。


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