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ウォークの地図

「豊臣家ゆかりの東山を歩く」

東山の阿弥陀ヶ峰山麓には、豊臣家ゆかりの史跡が点在しており、初冬の冷え込みもありましたが、71名の参加者と歩きました。

  耳塚

豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した際、将兵が戦勝の証として耳や鼻をそぎおとし塩や酢に漬けて日本に送り、それをこの地に埋めて 供養を行ったものである。検分が終われば戦没者として供養し、その霊による災いを防ぐのが古来よりの日本の習わしであり、丁重に供養された。
また、塚のまわりを囲む石柵は大正45月(1916)に作られたもの。伏見の侠客で力士で  あった勇山こと小畑岩次郎という人物が発起人となり、歌舞伎・新派の俳優らが寄進したもので ある。玉垣には著名な歌舞伎役者の名が刻まれている。勇山は信仰心が厚く、各地の神社仏閣に寄進している。恋塚、耳塚、烏寺、千本えんま堂の玉垣や献灯など各地に勇山の名を残す。


  正面通

正面通は大和大路の豊国神社の前から始まり、西進するとまもなく鴨川の正面橋に出る。もともとは1591年に秀吉が敷地を寄進した西本願寺までまっすぐに延びていたが、1602年に家康が寺領を寄進した東本願寺で分断され、さらに1641年に家光からの寄進で造園された東本願寺の飛地である渉成園でさらに分断されている。西本願寺から西は大宮通から出直して千本通の一筋東で児童公園に行きあたる。地元の人は東本願寺~西本願寺間は、尊敬を込めて「御前通(おんまえとおり)」と呼んでいることもある。全長約1.6km
方広寺から東へは智積院の前身の祥雲禅寺、阿弥陀ヶ峯の豊国社、豊国廟へと直線状に並んでいた。秀吉は自信を神格化するため、阿弥陀峯山上の豊国廟から西方極楽浄土へ向かう道にこれらを並べたのであろう。秀吉が没した後にその野望を打ち砕いたのは徳川家康であった。家康は、豊国廟、豊国社を壊滅させ、祥雲禅寺を秀吉が破却した根来寺由来の智積院に与え、方広寺は妙法院の管理とした。



  大仏餅

大仏餅は、大仏建立の頃は誓願寺前にあった江島屋、江戸時代中期からは方広寺前の隅田屋が販売していた。江島屋の方は江戸時代中頃廃業、隅田屋は昭和初期まで営業していた。
1780年発刊の『都名所図会』には、「大仏餅は方広寺の大仏殿建立のときに始まり、味がよく、煮てもとけず、あぶると香ばしく、(中国の文人の)陸放翁の(絶品だと賞賛した)炊餅や東坡の湯餅にも負けない」とある。また滝沢馬琴の旅行記『羇旅漫録(きりょまんろく)』(1803年刊)には、 「江戸の羽二重餅に似て餡を内に包めり。味わひ甚だ佳なり」と絶賛している。現在は甘春堂が復刻して販売している。


  豊国神社

唐門は伏見城の遺構で、西本願寺、大徳寺本坊の唐門とともに「国宝の三唐門」と呼ばれるうちのひとつ。総欅(ケヤキ)造りで、創建当時は門全体が黒漆で塗られ、彫刻は極彩色に彩られて大量の金箔が施してあったと伝わる。
伏見城廃城後、二条城を経て南禅寺の塔頭・金地院にあったが売りに出され、明石博高(ひろあきら。明治初めの京都近代化の推進者のひとり)が買取り、移築再建費用も負担した上で、  明治311898)年、豊国神社に移された。
唐門正面に高く掲げられた「豊國大明神」の御神号は、後陽成天皇の御宸筆で、旧豊國社伝来の勅額。唐門の彫刻は左甚五郎の作で、正面欄間の鶴の彫刻は「目無しの鶴」と呼ばれ、目玉が入っていない。これは、鶴の出来があまりに良すぎたので鶴の目を入れてしまうと、本物の鶴に  なって飛んでいってしまうと考えられたためと伝わる。また、扉には「鯉の滝登り」の彫刻が施され、中国に鯉は竜門の滝を登って龍になるとの故事があることから、立身出世の関門「登竜門」を表わすものとなっている(通常は門の前まで。正月の三が日やご祈祷の場合のみ、くぐることができる)。
唐門の左右に並ぶ石灯籠は、有名な武将が寄進した阿弥陀ヶ峰にあった旧豊國神社の遺品で当時は、56基あったとされるが、散逸してしまい、現在は8基だけが並んでいる。石灯籠には、  寄進者である武将の名前が刻まれており、かすれてしまってよく見えないものもあるが、秀吉の  側室・淀殿の乳母の子である「大野治長」の名前は鮮明に確認することができる。


  馬塚

元和元年(1615年)、徳川家康により阿弥陀ヶ峰の豊国社と豊国廟が取り壊された際に秀吉を慕う京都の民衆により、旧方広寺内のこの場所に代わりの拝所として建立されたと伝わる五輪塔。
表だって秀吉を弔うことがはばかられたため、近くの地名「馬町」(東山通渋谷街道周辺)に因み、「馬塚」と名付けられたとされる。(秀吉の愛馬の墓とされたという説も)
塔には秀吉の名前は無く、代わりに梵字と「元和元年八月十八日」の祥月命日の日付のみが刻まれている。また、当馬塚は慰霊碑であり、秀吉の遺骸は阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されたままとされる。


  方広寺の梵鐘

大坂冬の陣が起こるきっかけになった「方広寺鐘銘事件」の梵鐘として見学に訪れる観光客や歴史ファンは多い。元来、寺院の梵鐘には鐘銘が刻まれていて、梵鐘の由来やさまざまな願を 込めた願文などが記されている。
徳川家康は、鐘銘の字句の「国家安康」は家康の名を分断して呪詛している、「君臣豊楽」は 豊臣を主君として子孫の繁栄を楽しむ、「右撲射(うぼくしゃ=右大臣の漢名)源朝臣(あそん)  家康公(※)」を源朝臣家康を射ると解釈、まるで子どもだましのような言いがかりをつけた。この銘文に言いがかりをつけ、家康にかわって詭弁をふるったのは、金地院の住職以心崇伝と儒学者の林羅山の二人である。

銘文の作者は、韓長老と呼ばれた文英清韓(ぶんえいせいかん)で東福寺・南禅寺の住職を歴任し、「洛陽無双の智者」といわれた博学能文の名僧である。

※ 家康の正式名は、「源朝臣 徳川 三河守 次郎三郎 家康」。「家康」は諱(いみな)といい、 実名のことで、主君と親以外は生前には口にすることをはばかられた名前のこと。ちなみに、秀吉の正式名は、「豊臣朝臣羽柴筑前守藤吉郎秀吉」で、「秀吉」は諱、「藤吉郎」は通称。


  大仏殿跡

天正14(1586)年,豊臣秀吉は奈良東大寺の大仏に匹敵する大仏を東山山麓に建立することを計画し、現在の豊国神社東側に高さ約19mの木製金漆塗坐像大仏を造営した。
大仏が安置された大仏殿は、高さ約49m、南北約88m、東西約54mという壮大なもので、   文禄4(1595)年頃に完成した。
境内地は、現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館を含む広大なもので、現存する石垣から  南北約260m、東西210mの規模であったと推定されている。
この当時奈良の大仏は1567年の松永久秀と三好三人衆の「東大寺大仏殿の戦い」によって 焼失したままで復興しておらず、「大仏」と言えば方広寺の大仏であった。江戸時代を通じこの  大仏は観光名所となり、多くの旅人で賑わったという。 


  妙法院

三千院、青蓮院とともに天台宗三門跡のひとつ。新日吉社の別当寺(神社を管理する寺)として比叡山延暦寺の内から洛中に移設された。その後に兵火で焼失した妙法院を秀吉が方広寺建立時の経堂として寄進し復興した。文禄3年(1595)、秀吉は大仏殿完成時に父母・先祖を弔うために、当時の日本仏教の八宗(天台宗・真言宗・律宗・禅宗・浄土宗・日蓮宗・時宗・一向宗)の僧を集め「千僧供養」を行い慶長19(1619)の大坂冬の陣が始まるまで毎月続いた。
豊臣家滅亡後は、妙法院は方広寺(大仏殿)、三十三間堂、新日吉社を管理下におき、家康が外苑破却にとどめた豊国社の社殿を取り上げ処分した。
文久3年(1867818日、「818日の政変」で敗れた七卿は、久坂玄瑞とともにここから長州に落ち延びた。翌年6月池田屋騒動、7月に禁門の変が起こる。


  新日吉神宮

永歴元年(1160)、後白河上皇が法住寺殿の鎮守として、新熊野神社が熊野の熊野権現を勧請したのと同様、近江の日吉山王社を勧請したのが始まり。酒造・医薬・縁結びの神として信仰を集めている。
室町以降は戦火で廃絶していたが、寛永17年(1640)、破却された豊国社・豊国廟の参道上に再建された。伝承では再建したのは後水尾上皇、直接関与したのは上皇の実弟の妙法院門跡と言われる。
豊国社・豊国廟への参拝を妨害するためのように見えるが、廃絶された豊国社の御神体を境内の樹下社(このもとやしろ)に祀るために再建したとの説もある。明治30年(1897)に豊国廟が再建され、参道確保のため本殿・社域を南西に移動した。


  智積院

真言宗智山派の総本山で、全国に約三千の末寺がある。成田山新勝寺・川崎大師平源寺・  高尾山薬王院も末寺で、関東三本山として有名。
慶長5年(1601)、家康は覚鑁(かくばん)が起こし1585年に秀吉に焼かれた新義真言宗の   根来寺再興のために、紀州根来寺の智積院玄宥僧正に豊国社の坊舎の一部と、秀吉が長男  捨松(鶴松)供養のために建てた祥雲禅寺を寄進した。総門、本堂、大書院は江戸時代のもの。
元和元年(1615)、幕府から智積院法度が下り、祥雲禅寺の建物、障壁画、豊国社の堂舎・  梵鐘を受け継いだ。のちに末寺の学生僧の教学専門学寮として繁栄した。
現在の金堂は、昭和50年6月15日に宗祖弘法大師生誕1200年記念事業として本尊の   大日如来像とともに再建された。
幕末の文久3年(1863)には、上洛した山内容堂・土佐藩の本陣となった。当時土佐勤王党の 武市半平太、坂本龍馬、岡田以蔵が京都を闊歩していたという。
明治2年土佐藩の弾薬が爆発し勧学院が焼失。土佐勤王党は翌年に7年間の賃料テキスト ボックス: 【桜図】(右)長谷川久蔵【楓図】(左)長谷川等伯を払い退所した。
書院前の庭園は国の名勝に指定されており、祥雲禅寺時代の庭を修築したもので、中国の廬山をかたどったと伝えられる。広い境内には、四季折々に桜、紫陽花、紅葉が見られる。
長谷川等伯・久蔵(きゅうぞう)による桜図と楓図(国宝)は、日本の障壁画を代表するものとして世に知られている。桜図は長谷川久蔵(きゅうぞう)25才の作で、日本の桜を中心に八重の花を蒔き散らし、画面の大胆な構図のもと、春爛漫の情景を描き出している。等伯は、久蔵が26才の若さで急逝した翌年、楓図を描いた。


  太閤塀

1595年に完成した初代の豊臣秀吉寄進の太閤塀は、翌年の1596年の慶長伏見地震で   大仏殿、伏見城天守などとともに倒壊した。
 現在の太閤塀は、1600年の豊臣秀頼による再建で、全長415mもあったという。京都国立   博物館構内の発掘調査で発見された秀吉による初代の太閤塀は、柱間が3.3mと現存する秀頼再建の柱間3mを上回り、初代のものはより大規模だった可能性があることがわかった。
 現存する太閤塀は三十三間堂境内の南端に位置し、高さ5.3m、長さ92mで、軒丸瓦に豊臣家の家紋「五七ノ桐」が付けられている。重要文化財の南大門がその入口になっている。
かつては西側にも続いていたが今はなく、西側にあった西大門は1895年(明治28年)に東寺に 移され、南大門(重要文化財)として使われている。


  法住寺

平安中期に創設され、その後院政期に後白河天皇が院の御所(法住寺殿)とした。かつては広大な面積を誇り、北殿上御所、北殿下御所、南殿の三御所が作られた。平清盛が寄進した    蓮華王院三十三間堂もその一部であった。木曽義仲の焼き討ちにあって焼失し、1192年に   後白河法皇が崩御すると、隣接する後白河上皇法住寺陵を守る寺として存続することとなった。
本尊は「身代わり不動」と呼ばれ、木曽義仲が攻め入ったときに身代わりになって法皇の命が 助かったというエピソードからこう呼ばれている。
大石内蔵助が討ち入り前に参拝したと伝わり、その縁から四十七士の像が安置されている。


  養源院

594年、浅井三姉妹の長女淀殿の父である浅井長政の追善のため創建された。養源院は 長政の法名(戒名)。
1619年焼失するも1621年2代将軍秀忠の夫人崇源院(浅井三姉妹の三女お江。淀殿の妹)によって伏見城の遺構を移築して再建された。以降、歴代将軍の菩提所として14代家茂までの位牌を祀る。
本堂の廊下の天井には伏見城落城時に徳川の家臣・鳥居元忠らが自刃した廊下の板が使われ「血天井」として有名。
本堂内の重要文化財の襖12面の松図と白象・唐獅子・麒麟を描いた杉戸絵8面は、血天井の英霊を慰める為に俵屋宗達の斬新な手法で描かれ、琳派の記念碑的なものとなった。狩野山楽の羽目板貼付け絵と左甚五郎作の鶯張りの廊下も有名。


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