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ウォークの地図

京街道沿いの史跡を巡る

淀界隈は、桂川・宇治川・木津川の三大河川が集まり、かつては池沼の多い低湿地帯であったが水運と京奈良浪速を結ぶ交通の要衝として幾多の歴史に登場して多くの史跡を残しております。そんな街道に残る史跡や競馬場を訪ねました。。

  淀城

徳川2代将軍秀忠は、元和5年(1619)伏見城の廃城に伴い、松平定綱に命じ、桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの地に築城。元和9年(1623)着工、寛永2年(1625)竣工。二条城初代天守閣が移築された。
なお、淀君が住み、鶴松(秀頼の兄)が誕生したのは、北500m、妙教寺・納所小学校付近にあった古淀城である。文禄4年(1595)城主木村重慈が豊臣秀次事件に連座した年に廃城。

鳥羽伏見の戦いでは、正邦は老中として難局に対処する一方、家臣たちは藩主不在の中難しい選択を迫られたが、結果幕府軍、政府軍いずれにも与しない中立的な立場を貫いた。


  與杼神社

創建は応和年間に僧侶の千観内供が、肥前国佐賀郡河上村に鎮座する「與止日女(よどひめ)神社」から勧請、淀大明神として祀ったことに始まる。
祭神は豊玉姫命・高皇産霊神{タカミムスビノミコト)・速秋津姫命。豊玉姫命は、神武天皇の父を産んだ海の女神。社伝では神功皇后の姉であると伝え、一方、勧請元では神功皇后の妹が豊玉姫命と伝えている。
社殿は南東向き。古くは桂川右岸の水垂町にあり水垂社とも呼ばれたが、明治年間の河川改修工事のため、明治33年に移転した。水上運輸の守護神、豊漁をもたらす神として信仰されている。
拝殿は慶長12年(1607)豊臣秀頼が片桐勝元を奉行として再建した建築で、国指定重要文化財。柿茸、入母屋造、妻入り。
本殿は昭和50年(1975)中学生の花火遊びで焼失したが、同55年(1980)再建された。二間社流造、外の扉の奥に内陣がある。
境内社左から川上大明神、豊丸大明神、長姫弁財天。北向きに祀られている。
淀屋橋を造った豪商・淀屋が奉納。コメ相場で財を成し、初代がこの地の出身であったため寄進された。淀屋は幕府を凌ぐほどの財を成したが、宝永2年(1705)闕所となり、財産没収・所払いの処分となった。その後宝暦13年(1763)元の地で木綿問屋として再興を果たす(後期淀屋)が、その4年前所縁の者が高燈籠を與杼神社に寄進。



  稲葉神社

淀藩稲葉家の祖・稲葉正成(まさなり)を祀る。明治17年(1884)創建
稲葉正成は、元亀2年(1571)美濃国本巣郡の17条藩主林家に生まれる。稲葉重道の婿となるが、妻の死去により明智光秀重臣斉藤利三の娘・(重道の姪)を娶る。これが春日の局である。正成は秀吉に仕え小早川秀秋の家老となる(5万国拝領)。秀吉没後関ヶ原合戦の功により、松平忠昌に仕える。その後下野国真岡城主(2万石拝領)となる。寛永5年(1628)江戸で没。
享保8年(1723)初代から5代目正知の時、淀藩主となる。102千石で佐倉から入封。稲葉氏は16代正邦の時明治4年(1871)に廃藩となるまで、148年間淀藩主であった。
東向の拝殿は桟瓦葺、入母屋造、平入。本殿は唐破風の中門と瑞垣の奥にある。


  淀川渡し場道標

昭和3年春に三宅安兵衛が建立。京阪淀駅移築工事・高架工事のため一時撤去されていたが、平成267月元の場所とほぼ同じ場所に再建された。
北東面 淀川渡し場道。淀川(宇治川)は、明治期の改修までは今の淀駅の北を流れ、淀駅の北で桂川と合流していた。改修により、宇治川は淀の南を流れることになり巨椋池の漁村であった西一口ニシイモアライと淀が宇治川で隔てられることになったため、淀-一口イモアライ間に渡し船が運航された。この渡し船は昭和30年淀大橋を経由するバス路線の開設で撤廃。
南東面 安養寺はここから南15丁(1町は109m)、改修後の宇治川の南の一口村(いもあらいむら・久世郡久御山町)にあり、弥陀次郎が開基で本尊は十一面観音像。浄土宗知恩院派。
南西面 淀大橋道ほか。史跡の説明4


  伊勢向神社

祭神は天疎向津姫アマサカルムカツヒメ命(天照大神の別名。荒魂)。創祀は不明。元々淀小橋(改修前の宇治川に架かり、淀城下と納所を結んでいた)の東、宇治川の中島である浮田の杜にあり、和歌の名所であったという。浮田の杜が改修工事で埋没したため、現在地に移転された。伊勢は五十瀬イソセに通じ、水神様をお祀りしたとも言われている。
流造の本殿に庇形の幣殿がつく。鳥居は一応神明鳥居だが、笠木の断面が四角の板状で、屋根がついており、貫にも屋根がある。


  淀新町天満宮

京街道(大坂街道)に面した新町自治会館横の一の鳥居をくぐると狭い参道がある。一の鳥居の石柱には、329年前の元禄6年(1693)の刻印があるが、創祀年代、由緒や神徳は不明である。
二の鳥居をくぐると、石造の撫で牛、拝殿と本殿があり、本殿の鬼瓦には梅鉢紋があり、天満宮の名称から祭神は菅原道真と想像することができる。

菅原道真の天神信仰の天満宮(神社)は、全国に約12000社あるとされ、その一つの「天満宮」で、通称「淀新町天満宮」。
天満宮の摂社・末社として、稲荷大明神、吉峰大明神、開運弁財天が祀られており、この中の稲荷大明神の台座には、ユーモラスで天邪鬼のような彫り物があり、存在感を与えている。


  白龍龍王社

提灯の「三つ鱗紋」北条氏の家紋と同じである。北条氏は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。初代執権の北条時政(北条政子の父)は、江ノ島弁財天に子孫の繁栄を祈願すると、突如高貴な女人が現れ、たちまち大蛇に変身して 海に姿を消してしまった。しかし、その場所には“三枚の鱗”が残されていたので、北条時政はその鱗を大事にして、三つの鱗を三角形にデザインした「三つ鱗紋」を家紋としたと伝わっている。
社の外側の道路…社を囲むような形になっている。白龍龍王社の境内は、さほど広くはないが、東側の住宅開発の際に、地元の篤信者(酒造会社社長)が境内地の一部を寄進したので、社の移転は免れた。
昭和40年(1965)に建立された境内の石標にその経緯が刻まれているが、道路は、白龍龍王社を囲むように、大きくカーブしており、地元民の信仰心の厚さが“見える形”となって地域に溶け込んでいる。

台座の石…宝篋印塔の基礎部分(台座)と思われる篠原良吉氏の「京都府の石造拾遺」によると、基礎の側面には、四面輪郭付で蓮弁を図案化した格狭間(こうざま)を入れ、一面のみ近江式装飾文様の開花蓮を配している。
開花蓮を刻んだ面の左右枠には、618年前の応永11年(1404)申61日の銘文が刻まれている。
底面は、見ることができないが、深さ18cmの円形穴が掘られているようである。篠原氏は、「これは、運搬の際に軽くするためのくりぬきではなく、穴加工がとてもきれいなので、手水鉢として使われていたのではないか。」と推測している。


  涼森神社

祭神は、白髭大神(しらひげのおおかみ)、神速須佐之男命(かみはやすさのおのみこと)、大国主命、事代主命(ことしろぬしのみこと)、菅原道真を祀る。
仁徳天皇の御代、難波宮〜奈良へと水上交通の要衝地でもあり、行在所を造り、併せて神社を建立した。三川合流地で巨椋池に囲まれた地域の貴重な中継地点として利用されていた。
創建当時は水豆野神社・水豆森と呼ばれたが、木々が茂る森であり涼しく、涼森神社と呼ばれるようになった。菅原道真が、九州へ左遷されるときにこの地に立ち寄り鈴と自画像を寄進したことから「鈴身神社」から「涼森神社」になったとの説も残る。
江戸期に火災で焼失。第二室戸台風(S36年)で損壊するが、その後鉄筋コンクリート製で再建された。
美豆城
 室町時代、涼森神社西に接して美豆城があった。応永25年(1418)当国守護代の三方山城入道(範忠)が築城。永禄12年(1569)三好三人衆がこの城に陣を張った。・・・前年に足利義昭を奉じて上京した織田信長と対峙したものと思われる。大正時代までは堀跡が残っていたが、圃場整備で遺構は取り壊された。
山城八森
 涼の森は、糺の森・久我の森・藤の森などと並び山城八森のひとつ。


  木田醤油

淀大橋のあったこの辺り(現淀美豆町)には、古くから港が発達していた。延喜式では、山陽道や南海道諸国や大宰府からの物資運送の終点と記載されている。商家は浜納屋と呼ばれる蔵を設け、川船に直接荷物を積み込むことができる構造になっていたという。
木田醤油の創業は1855年。もとは清酒製造から始まった歴史を含めると、創業200年を超える。京都府内で珍しく麹づくりから製造。自社内で500?の木樽で発酵させる。蔵は200年のカビが生息しており美味しい?油造に一役買っている。美豆町の美豆は、水、または美味しい豆と?油にも通じる地名である。
木田醤油には、江戸時代から浜納屋という倉庫が残っている。浜納屋は、船からの荷揚げ、荷卸しに便利なように船着場から倉庫に直結している。


  八代龍王弁財天

弁財天は、仏教の守護神である天界に住む龍王などの天部の一つで、インドの古来の神が仏教に取り入れられて、貧困を救い財物を与える女神となったものである。
狭い境内に御神木の巨大銀杏がそびえ、付近のランドマークとなっている。
神社に面する街道は、往年の宇治川の土手にあたり、水運の神として祀られたものと思われる。
日本の弁財天は、
吉祥天などの様々な神の一面を吸収し、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視されることが多い。七福神の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。


  長円寺

浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。寛永14年(1637)淀藩初代藩主永井尚政が淀城の城下拡張のため木津川を付け替えて淀新町を造成すると、(北から)高福寺・長円寺・東運寺の3つの寺が移され、淀の3軒寺と呼ばれた。武家・町家の人の信仰を集め、正月16日、716日の閻魔様の縁日は賑わう(「淀真砂子」による)。近年河津桜の名所となった淀水路の水路沿いにある。
鳥羽伏見の戦いでは、淀での戦闘は最大級の激戦となり、新選組隊士の3分の1が戦死したと言われる。幕府軍の負傷者、戦死者は長円寺に運び込まれ、長円寺は野戦病院となった。政府軍が長円寺を攻撃できず、幕府軍の治療・戦死者の供養を続けることができたのは、閻魔堂に安置されている閻魔大王の守護があったからと言われている(閻魔様の前で戦はできない)。新撰組は敗北後政府軍の榎本武揚率いる軍艦・開陽丸で江戸に撤退するが、後日新撰組副長土方歳三は、幕臣榎本武揚に、長円寺が幕府軍を助けた寺であると語ったという。その榎本は明治40年山門左脇に書し「戊辰之役東軍戦死者之碑」を立てた。なお、一説には、文久3年(1863)の八月十八日の政変で朝廷から追放された長州藩士が途中で観音堂の足立観音(八幡大菩薩の化身とされる)に参詣したと言われており、政府軍が長円寺を攻撃できなかったのは、長州藩を含む政府軍が足立観音の恩に背くことを恐れたためともいう。
長円寺には、会津の刀工和泉守兼定・脇差が守護閻魔刀として奉納されている。土方歳三が使用した和泉守兼定・太刀は兄弟刀と言う。
閻魔堂横に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑、山門右脇に「鳥羽伏見の戦い幕府軍野戦病院の地」の碑。


  淀水路

淀水路…京都競馬場付近で宇治川から分岐し、淀の旧市街地を西に流れ、桂川に合流する短い川。秀吉の治水工事や寛永の淀川・木津川の流路変更によって生まれた(今はポンプで取水)。江戸時代は淀城の南側の濠として使われた。近年は不法投棄などで荒れていたが、2002年地域の町興しの一環として2本の河津桜が植えられたことから始まり、地元住民の植樹や美化活動によって整備された。河津桜が主で、上流部にはソメイヨシノも。上流部は一部久御山町。
淀川渡船場跡碑淀-一口イモアライ間の渡し船と渡船場に通じるこの道は、「淀下津と対岸は陸続きだ!」と言われるほどに利用者が多かったが、渡し船は昭和30年淀大橋(宇治川に架けられた)を経由するバス路線の開設により撤廃。淀側の渡し場跡の碑は、昭和50年大淀中学校の開校時に街道筋から校内に移設。巨人・レッドソックスで活躍した岡島秀樹投手は卒業生。
天皇御駐輦之趾碑(明親小学校内)明治天皇は明治10年(1877)関西に行幸。西南戦争勃発のため京都滞在は長期化した(128日〜26日、216日〜728日)。この間510日石清水八幡宮に行幸、途中淀下津の小学校(現明親小学校)にご休憩。現明親小学校の前身は万延元年(1860)開設された淀藩校の明親館。明治政府が定めた学校制度(学制発布)により、藩校が廃止され、明治105月小学校となった。天皇は小学校になった年に立寄り。


  光明寺跡

鳥羽伏見の戦いで、新選組を含む幕府軍は淀城に入れず、たくさんの死者が出たが、幕府軍の戦死者は、長円寺のほか、淀城の前にあった光明寺にも運び込まれ、供養された(「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑)。その後明治となって、廃仏毀釈により寺は壊され、土地は没収され、現在は一部の敷地を残し当時の面影は全くない。その中で幸い、幕府軍の戦死者の墓は取り壊されることなく長円寺に移されたが、その後長円寺の計らいにより、元の場所に戻ってきた。

供養地蔵(福掛け地蔵)…廃仏毀釈で寺がなくなる中、元の場所でゆかりの人の供養を願う地蔵。般若心経の前掛けを着け、それが服(福)のような前掛けであるところから、福掛け地蔵とも呼ばれる。


  淀競馬場

ライスシャワー碑
北海道ユートピア牧場生まれ。19893月5日〜1995年6月4日。経歴は25戦6勝。獲得賞金は7億9497200円。関東の刺客、黒い刺客、レコードブレイカー、などの異名がある。小柄で健康。馬体のバランスが良かった。外見は体が硬そうに見えるが、騎乗するとまるで雲の上に乗っているような柔らかさであった。
そして次の有馬記念で、レース中前のめりに転倒した。騎手は無事であったが、左足第一指関節脱臼、粉砕骨折した。予後不良でその場で安楽死が選択された。会場から馬運車で運ばれる様子が放映され的場騎手が見送りのため付きそう様子が映しだされた。
石碑には牧場主の姉が「疾走の馬 青嶺の魂(たま)となり」と、句が読まれ、ライスシャワーの遺髪とともに納められている。
馬頭観音碑
馬が活躍する所であるので馬の安全、健康など願いを込めて石碑がたつ。この場所ではないが、競走馬の蹄鉄は役目が終われば馬頭観音に納められるようである。
シンザン(神賛)像

北海道松橋牧場生まれ。1961~1996年。35歳で老衰死。当時最長寿馬。史上二頭目の三冠馬達成。その後も優勝し五冠達成。1915勝。現在も毎年一月に「GVシンザン記念」杯がある。幼馬の頃からずんぐりむっくりであったが豊かな骨量を見込み一目惚れした武田氏の元へ。シンザンの名がうまれる。シンザンはスタートが早く、逃げ馬を後方から追い抜くレース運びが多かった。無駄な走りをしない馬でレースが終わればすぐに止まる。それというのもシンザンは特別なシンザン用の蹄鉄で他の馬の蹄鉄の倍の重さであった。蹄鉄は他の馬なら三週間は持つがシンザンは一、二週間しか持たず移動の際は、常に予備を持参していた。重さに耐えるだけの脚力があった。又、重さの為に練習嫌いであった。レースが練習と豪語されるほどであった。走ると騎手の思いが以心伝心に電気のように伝わると言われる。
1964
さつき賞1964東京優駿菊花賞・スプリングS・1965年天皇賞、有馬記念、宝塚記念など、輝かしい成績を残す。レコード記録ではなく勝負で勝つスタイル。鼻の差でも勝は勝。引退してからは当時外国産の牡馬が好まれていたが、種馬として牝馬が三十八頭集まり数少ない国産馬として登録された。
淀競馬場・場内
開設は大正1412月(それ以前は、明治40年島原競馬場=現京都リサーチパーク。大正2年火災焼失のため須知=現京丹波町に移転)。当初の敷地10万坪。1600mの走路とスタンド・馬券売場・厩舎等で発足。巨椋池の排水路跡、沼地のような地盤に作られたこともあり、馬場に畳床を敷き詰めて改良したこともあった。昭和13年敷地は17万坪に拡張、4万人収容の新スタンド完成。
馬場中央に池は巨椋池の名残。白鳥・黒鳥を飼育。
公営ギャンブルの所管と目的
競馬       =農水省  …畜産振興と福祉事業
競輪・オートレース=経済産業省…産業の発展と福祉事業

競艇       =国土交通省…船舶の発展と社会事業

スポーツ振興くじ =文科省  …スポーツの振興

宝くじ      =総務省  …社会貢献


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