>
ウォークの地図

鎌倉殿の13人に見る後鳥羽上皇

古の水無瀬殿を巡る
承久の変で破れ、隠岐に流された後鳥羽上皇が愛した水瀬離宮や庭園、水無瀬の滝、後鳥羽上皇の后妃修明門院が認めた位牌 や後鳥羽上皇を祀る椎尾神社などを会員27名、賛助会員含む参加者110名で歩きました。

  島本町歴史民俗資料館

国の登録有形文化財の講堂「麗天館」を改修し、縄文時代~中世時代~近代まで の島本の歴史を紹介する資料館です。「楠木正成」や「旧麗天館」などの資料の 他に文化財に関する紹介・展示、藤原定家の明月記の庭園跡が復元されています。 目玉は後鳥羽上皇の手形の展示があり、手の大きさが比べられます・ ・肖像と手蹟 2 ・「後鳥羽天皇肖像」(国宝・鎌倉)縦43×横30cm、伝藤原信実画 ・「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」(国宝・鎌倉)


  桜井の駅跡公園

 楠木正成ゆかりの駅跡、建武3年(1336 年)、足利尊氏(32歳)の大軍を迎え撃つため、新田義貞(36歳)は兵庫に陣を敷いた。楠木正成(42歳)は、和睦か、比叡山に籠って兵糧攻めを帝に進言するが聞き入られな、やむなく死を覚悟して兵庫に赴く、途中の桜井の宿(駅)で嫡子の正行に「お前を帰すのは自分の討ち死にした後を考えてこと。帝のため、お前は身命を惜しみ忠義の心を失わず、いつの日か必ず朝敵を亡ぼせ」の遺訓 を残して河内に帰らせたとあります。 この「桜井の別れ」は、絵や詩、歌「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐ」に多く取り上げられました。 桜井駅跡は、明治期から昭和10 年代にかけて整備され、石碑の建立や敷地 拡張などがおこなわれ、大正 10 (1921 年)には国史跡に指定されています。別れの銅像正行の手に巻物だが、『太平記』では正成は帝から下賜された菊紋入りの小刀を渡している。


  六条宮、蓮華寿院史跡

六条宮、蓮華寿院近習の屋敷 御所が池(トッパンの南側)奈良文化財研究所が大沢池と類似点 延暦年間桓武天皇の皇子円満院法親王が住まい、清和天皇の時、後鳥羽上皇の六条宮(雅成親王)の御所が、御所が池のほとりにあったとされ、併せて最愛の尾張の局の御願寺の蓮華寿院があって本尊は、等身大の阿弥陀如来像で、後鳥羽上皇が開眼された千体地蔵が並んでいた。 水無瀬殿のむささびの話毎夜かさほど光が飛ぶ、大神景賢という武士が射 落とした話が伝わる。


  矢納神社

本来の名は「八幡神社」、応神天皇を祀る。貞観3年(861)に離宮八幡宮の摂社の一つとして祀られ、桜井村の鎮守で氏 神。寛永12年(1635)織田尚長(島下郡味舌(ました)藩主・織田有楽斎 五男)が社殿を再建した。昭和49年に現在地に新築遷座する。 元は西国街道に面した場所にあった。楠木正成が正行に桜井の別れに際し、遺訓と菊水の旗と矢一筋を奉納したと伝えられる社があった。楠木の大木も あり 明治12,3年ごろまで周囲一丈五尺(約5.4m)があった。かつて石垣で囲われた井戸は楠木父子が別れの水杯をしたと伝わる。


  山上御所推定地

現在小野薬品敷地付近は、西浦門前遺跡 藤原定家の『明月記』に「建保5年(1217)2月8日 亜相、又水無 瀬殿山上に新御所を造営(眺望をなすのみ)。此の前後の土木、そうじて海内 の財力を尽くす。又北白川の白砂を引くと云々」とある。『増鏡』には、「おもしろき院」。『明月記』には、「展望の良い処に海内の財力を尽くす、山上に池あり、池の上に滝」などが記されている。なお小野薬 品ビル建築前の試掘3本のうち2本は地下にヘドロがあって、その池の可能性があり、西園寺公経の北山第と似ている。瓦は蓮華紋と剣頭紋が出土して平安〜鎌倉の寺の可能性がある。また島本町役場の東が鶴ヶ池五反田池跡という。


  新御所・南御所

後鳥羽上皇は正治年間(11991201)、水無瀬川の右岸に水無瀬殿(離宮)を造営され「皆瀬御所」と呼ばれた。史料では「水無瀬殿」と記され、水瀬離宮とは記されていない。また水無瀬殿は、複数の御所や御願寺(御堂)などの集合体・総称である。
建保4年(
1216)8月の大風水害で殿舎が流失し、翌年百山付近に新御所が造営された。 ここに後鳥羽上皇の刀鍛冶場、金井戸跡があって、上皇は作刀に用いたが、 鉄道施設のため破壊埋没されいまはない。
承久の乱では、河野通信(孫に一
遍上人)ら 500 余騎で離宮を護らせている。後鳥羽上皇が隠岐に配流され、亡くなられた後、仁治3年(1242)修明門院の沙汰で水無瀬殿は京都大原の法華堂に移し建て替えられた。
水瀬家の菩提寺粟辻神社は、惟喬親王を主神、在原業平を配祀して末裔で享禄4年(1531)に改称、鍛冶で後鳥羽上皇の刀鍛冶の相槌を務めたという。
また、
馬場跡競馬、笠懸、蹴鞠 馬場殿 長廊等があったという。


  水無瀬神宮

内大臣源通親の水無瀬別業を鳥羽上皇が、譲り受け離宮・水無瀬殿とした。上皇の菩提所で明治以前は、本殿(御影堂)に対して西殿(現存せず)があった。 表門に石川五右衛門の手形が残っている。菊紋刀を盗みに入ろうと神威に打たれて三日入れず、泥を掴んで門に手形を残す。(泥棒除けのご利益)
正治2年閏 2 月に上皇が行幸、この地を広瀬に改め、やがて広瀬殿と呼ばれた。
建仁
2 年(1202 年)5 月に大雨で水無瀬川が溢れて離宮の一部が流される。
現在の本殿は、明正天皇から御所内侍所を拝領した。客殿は豊臣秀吉が献納、 茶室は御水尾から愛好の茶室(燈心亭)が下賜された。
水無瀬川平地で伏流水となる川の普通名詞で、万葉以来秘めた恋にかけて歌われた。
見渡せば山もと霞むみなせ川 夕は秋と何思いけむ後鳥羽上皇(新古今集) <見渡すと山の麓に霞がかかり水無瀬川が流れている。夕べの景色は秋が一番 となぜ思い込んでいたのだろう 春の夕べのなんと美しいことか>


  水無瀬の滝

天王山より生じた高さ20mの滝、水枯したことがない。 嵯峨天皇も河陽離宮から水無瀬野遊猟で見られた。 藤原定家「明月記」によれば、建仁2年(1202)7月18日、後鳥羽上皇の 行幸が記されている。 「水無瀬山せきれし滝の秋の月 おもい出ずるも涙なりけり」藤原家隆 ただし、「せきいれし」から西浦門前遺跡の百山の滝が妥当と思われる 滝前の熊野権現社・石切剣箭命者は、戦後に建てられた。


  勝幡寺



後鳥羽上皇の勅願寺 真言宗東寺派 本尊は薬師如来立像で鎌倉時代の作、元は僧行基が薬師 如来を彫り、山中の空洞より光発する老樹の空洞に安置して洞薬師と呼 ばれ、若山神社の神宮寺であった。当寺に伝わる「勝幡寺縁起(永正 16 年・1516 奥書)に、養老元年(717)僧行基により開基、別の記録によれ ば天平勝宝元年(749)とも伝えられる。 寺内には僧房が建ち、後鳥羽上皇の行幸もあって勅願寺となり、中世まで は栄えていたが、永正 13 年(1516)兵火で焼失し、再建されたが次第に衰 退して、昭和になってまた再興された。
山崎カーブ 鉄ちゃん(撮り鉄)の撮影ポイント


  楽妙寺跡




山崎公民館は、楽妙寺があった。
絵図では左に十王堂・右に題目石) 西観音寺から伝来の後鳥羽上皇中宮修明門院(重子)筆と伝える「後鳥羽院(鳥の子紙)」の位牌と聖武天皇帰依仏伝承とある千手観音と御大師様が祀られる。
これらは山崎公民館の2階にあり、漆塗りの小厨子に納められている。


  椎尾神社・西観音寺跡

祭神は素戔嗚命・聖武天皇・後鳥羽上皇、明治元元年まで西観音寺であっ たが、神仏分離・廃仏毀釈で神社になる。 サントリー山崎蒸溜所の奥のあたりは、かつて慈悲尾谷と呼ばれていま した。ここには僧行基が聖武天皇の帰依仏である千手観音を本尊にして 開創したと伝えられる西観音寺がありました。「谷寺」とも呼ばれ、江戸初期には七間四面の本堂を中心に、堂塔が整然とたちならび12の僧房もあった。しかし、明治元年の廃仏毀釈によって西観音寺は廃寺となり、現社地より北東に移動になり、椎尾神社となります。建物や像は各 お寺に分散していきました。本堂は観音寺へ、閻魔堂は大念寺へ、閻魔 大王と眷属の五尊像は宝積寺へと、大山崎の寺に移されています。 当初の梵鐘は、「尾上鐘」で康暦元年(1379)の銘、神仏分離で大阪西浜の正昌寺に移された。


  関大明神

京都府・大阪府の境界線にある。本殿は室町時代中期の作一間社流造と云われる。疫病退散 菅原道真 ・関戸院 平家一門七千人の都落ち、安徳天皇の輿を据えて京都復帰を男山八幡に祈った。 京都府南西部、大山崎町にあった離宮跡。山城国と摂津国との国境にあたり、関所が置かれていた。石上家の焼け残り表門戊辰戦争の焼残り真木和泉が籠る天王山を砲撃 芭蕉の貞享4年(1687)句碑「ありがたきすがたをおがまむ 杜若」
森村家
は八幡宮の社家、山崎宗鑑の屋敷跡山崎宗鑑は、町時代の連歌師 近江国栗太郡志那出身、足利義尚に仕え、将軍の没後一休の門に入り、書道で宗鑑流の始祖、天文9年(1540に讃岐の興昌寺で81歳没。 宗鑑井千利休が妙喜庵でお茶を点てるときに使用した。


  離宮八幡宮

山崎国府や駅家(うまや)、山崎津、山崎橋があり、 平安京の外港として栄えていた。国家安泰・国土平安祈願所。
祭神:応神天皇、
姫三神(田心姫命・市杵島姫命・端津姫命)、酒解大神(又は大山祇命)
清和天皇が「太陽がわが身に宿る夢を見た」との告げから、僧行教が九州の宇佐八幡宮から神霊を奉じて山崎津に帰郷し、離宮八幡宮が 創建された。また命名は山崎津に嵯峨天皇の河陽(かや)離宮があったことによる。夜に対岸の男山に霊光をみたので、その地を掘ると岩間に清水が湧き出した ので、神霊が分祀され国家鎮護のため石清水八幡宮を創建した。
このことで、毎
年4月3日に、勅使が離宮八幡宮に詣ってから、淀川を舟渡りして男山に参拝する。これを日使頭祭(ひのとうさい)の起こりになっている。 やはり清和天皇の頃、離宮八幡宮の神主が「長木」という道具で荏胡麻を絞って油を採り、神祀りの灯火に用いた。
天皇の綸旨をはじめ、足利義満や徳川家康の書状、その他禁制・下知など30
0通の古文書が保存されている。足利義満の書状は、離宮八幡宮の神領は、水無瀬川から円明寺に及ぶ広大な地を「守護不入地」として自治を認めている。西の日光」と呼ばれるほど宏壮優美な社殿を構えていた。昔、淀川べりに建てられた 大鳥居の「離宮八幡宮」の額は、「三蹟」の藤原行成の名筆で、現在は拓本。


Copyright © 2000-2009 KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All Rights Reserved.