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ウォークの地図

秦氏と日本映画のふるさと太秦今昔物語

太秦を語るうえで外すことのできない「秦氏」と「日本映画」を軸に史跡を巡ります。

  千石荘公園

ここにはかつて地元の実業家「篠田幸二郎」の別荘「千石荘」があり、「千石船」が見学できたと言われている。この千石船「長栄丸」は若狭国と北海道との間を定期運航していたものであり,転売されて大正141924)年に千石荘内の庭園に移された。その後、昭和141939)年に庭園と千石船が京都市に寄附され,庭園は児童公園となり,千石船は一般に公開されることとなったが、戦後、「千石船」は老朽化し、昭和251950)年の台風で壊れてしまい、撤去された。公園内には大正151925)年9月にスウェーデン王国皇太子夫妻が天塚古墳を見学された際に立ち寄られて千石船を観覧された記念碑や、明治天皇の歌碑もある。千石荘公園から100mほど北にある「長栄地蔵尊」や大酒神社の皇紀2600年(昭和15/1940)奉祝記念石碑も篠田幸二郎が建立したものである。


  天塚古墳

京都盆地西部、嵯峨野台地の南縁に築造された古墳。古墳時代後期の6世紀前半頃の築造と推定される。
周囲に堀をめぐらせた前方後円墳で横から見ると2段式に積み上げられていることがわかる。墳丘長さ約70m、前方部の幅約50m、高さ約8.5m、後円部の直径約40m、高さ8m。京都市内の古墳の中では蛇塚古墳に次ぐ規模で、墳丘、遺物塔が最もよく残っている。昭和531978)年に国の史跡に指定。
墳丘表面では円筒埴輪が検出されている。古墳の主体部の埋葬施設は、後円部に西から入る王室と、前方と後円の境目となる西南のくびれ部から入る陪室2基の横穴式石室からなる。古墳周囲では、北西に陪塚と推定される円墳1基がある。
現在石室内には伯清稲荷大明神が祀られている。



  車僧影堂

車僧は深山正虎和尚といわれ、最後に住んでいたのが嵯峨野の海生(かいしょう)寺という。太秦海正寺町の車僧影堂はこの地にあった海生寺の開山堂だという。海生寺は観世音菩薩を本尊とする古寺であったが、早くに衰退し元禄のころに廃寺となった。
堂内に海生寺の開祖深山禅師の像と位牌が安置されていた。位牌の裏には、建武元(1334)年55日と記されている。像は高さ62p、寄木造り、玉眼入り、椅子に座し払子を持った頂相で、室町初期の肖像彫刻とされていたが、近年の調査で江戸時代の仏師、初代清水隆慶の作と分かった(木像は平成28年より京都国立博物館に寄託)。


  東映撮影所跡・グランプリ広場

大映京都撮影所は、元々昭和3(1928)年日本活動写真(日活)の太秦撮影所として建てられたもので、昭和171942)年に戦時下の統制によって新興キネマ、大都映画、日活製作部門が合併し、大日本映画製作株式会社として誕生した。(現在のKADOKAWA
昭和461971)年12月に倒産後、昭和491974)年徳間書店傘下になることで再建し、撮影所は分社、大映映画京都撮影所(貸スタジオ)となった。しかし、昭和611986)年4月には完全に閉鎖され、59年間の歴史に終止符が打たれた。その後敷地の大半は京都市立太秦中学校や分譲マンションとなっている。太秦中学校北側のマンションの入口にも大映京都撮影所跡を示す石碑がある。
北側には「グランプリ広場」と銘打たれた一隅があり,金獅子像とオスカー像をモチーフにした記念碑が設置され,その由来が記されている。これらは大映京都撮影所で製作された『羅生門』が昭和261951)年のヴェネツィア国際映画祭グランプリの受賞を記念したものである。


  蛇塚古墳

67世紀(古墳時代後期)に築造された秦氏一族の首長クラスの墓と推測されている。古墳の形式は、横穴式石室「前方後円墳」である。古墳の盛り土が全部取り壊されてしまい、後円部の巨石を用いた横穴式石室だけが露出している。古墳の外形は附近に住宅ができて判らなくなっているが、古墳全長75mと推測されている。以前は周囲に堀もあったと地元の人は伝えている。
古墳規模は石室に限定すると、奈良県・明日香の石舞台古墳(蘇我馬子の墓)にも匹敵するスケール。全国では、石舞台・三重県高倉山・岡山県こうもり山に次いで4番目、京都府内では最も大きい。昭和521977)年5月4日、国の史跡に指定。

露出した石室に蛇が生息し、岩石の間から出入りしていたため、いつしか蛇塚と呼ばれるようになった。
溝口健二監督の「新・平家物語」(昭和30年・1955、大映作品)では市川雷蔵演じる平清盛が蛇塚古墳をバックに畑仕事をするシーンがある。


  三吉稲荷神社

正式には「三吉稲荷大明神・中里八幡大菩薩」
この付近は八丁藪といわれる竹藪が広がっていたが、昭和31928)年日活太秦撮影所が建設されることとなり、日活の関係者が竹藪が切り開かれ行き場を失った狐狸の慰霊のために、竹藪の中にあった「三吉稲荷大明神」と「中里八幡大菩薩」の二つの祠をまとめて昭和51930)年に一つの神社として創建したという。昭和561981)年に木嶋神社の境外末社になる。境内には日本映画の父マキノ省三の顕彰碑が立ち、周囲の玉垣には往年の映画スターたちの名前が刻まれている。


  東映撮影所

前身は「阪東妻三郎プロ太秦撮影所」。阪東妻三郎は当時その容姿だけでなく、凄まじい立ち回りを武器に松ノ助以来の人気を博した俳優であったが、東亜キネマを脱退し、自らのプロダクションを設立した。
その後、ここは「松竹太秦撮影所」、「帝国キネマ太秦撮影所」、「新興キネマ太秦撮影所」、「大映京都第二撮影所」、「大映京都分撮影所」、「東横映画撮影所」、とめまぐるしく変遷していく。そして最後には「東映京都撮影所」として22千坪の敷地に19のステージ、映画撮影の設備を備え付けた日本最大の撮影所となった。昭和501975)年には東映太秦映画村を開設、現在の京都の観光名所にもなっている。

この地では阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、中村錦之助ら人気俳優陣が活躍し、内田吐夢、溝口健二、伊藤大輔などの名監督が彼らと共に名作の数々を世に送り出していった。1960年代からは鶴田浩二、高倉健らの任侠物シリーズ、文芸路線ものも数多く製作され、これらは当時陰りの見えていた時代劇物に取って代わっていった。


  広隆寺

京都府下における最古の寺。その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像。
宝冠弥勒菩薩半跏思惟像
国宝第1号で、「宝冠弥勒」で知られる。この宝冠弥勒像(像高84.2cm、材質赤松)は韓国中央博物館所蔵の弥勒菩薩像と作様が類似していることから、同一の作風を持つ仏師により造像されたと推定されている。ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、この宝冠弥勒像の美しさを、「清らかさと円満さに満ちた、永遠の美の神」と表現している。
桂宮院八角円堂(国宝)
建長31251)年再建。この場所は、聖徳太子が仮宮殿・楓(桂)野別宮を建てられたところと伝えられ、広隆寺の奥の院と称されている。法隆寺夢殿と同型の優美な八角円堂。堂の中央に八角形の春日厨子があり、聖徳太子半跏像(重文)を安置。


  大酒神社

秦氏一族の祖「秦始皇帝」、「弓月王」、「秦酒公」を祀る。以前は、広隆寺桂宮院の鎮守として広隆寺内にあったが、明治の神仏分離令によって現在の場所に遷された。
「内宮源鳥居」と呼ばれる「八角柱」の鳥居がめずらしい。「木島坐天照御魂神社(蚕ノ社)」の「三柱鳥居」も八角柱である。

「太秦」の由来
『日本書紀』雄略天皇15年の条(450頃)に、秦酒公(弓月王の孫)が雄略天皇に献上した絹布や絹糸が「うず高く、さながら山の如く積み重ねてあった」ので、「禹都万佐(ウズマサ)」の号を賜りこの地を「うずまさ(太秦)」と呼ぶようになったと言われる。

牛祭
明治以前は広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に一時中断していたが、広隆寺の祭りとして復興し新暦1012日に行われるようになった。京都三大奇祭の一つ。(現在は再び中断)
『広隆寺大略縁起』によれば、三条天皇の御代、長和元(1012)年911日に比叡山の恵心僧都(源信)が声明念仏を行なっていたところ、仏法の守護神である摩多羅神から「この法会は末世まで絶やしてはならない」と夢告があり、恵心は翌日の12日に祭文を書き、摩多羅神の祭祀を行った。その祭祀は、神主が牛に乗っているので「牛祭」と呼ばれるようになったという。


  木嶋神社(蚕ノ社)

正式名は、木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
境内には鬱蒼と木々が茂り遠方より眺めれば、木の島のように見えるので社名となった。一般には境内摂社の「蚕養(こかい)神社」に因んで「蚕の社」として親しまれている。
祭神については、天之御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)外四柱となっているが、天火明命(あめのほあかりのみこと)を主神とするともいわれ諸説あり明らかでない。創建は古く、『続日本紀』大宝元(701)年43日条に「山背国月読神、樺井神、木島神等の稲を今より以後は中臣氏に給え」という勅があり、7世紀以前の鎮座であるとわかる。延喜の制には名神大社となり、特に祈雨の神として崇敬された。
三柱鳥居(みはしらとりい)
本殿西の森の中に、「八角柱」の三つ組み鳥居が建ち、その中央は宇宙の中心とされ、御幣を立てて三方から遥拝できるようになっている。三角形の頂点は、秦氏の聖地と云われる「稲荷山」「松尾山」「双ヶ丘」を指していて、この地が秦氏一族繁栄の中心地であったことを物語っている。
三柱鳥居が建つ池は「元糺の池」といい、四季湧水し禊の行場とされていた。社伝では下鴨神社の糺の名はここより移したもので、そのため元糺という。夏の土用の丑の日にはこの池に手足を浸すと諸病にかからぬという俗信がある(足付け神事)。現在は湧水は枯渇、土用の丑の日はポンプで地下水をくみ上げている。


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