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春爛漫の京都御苑周辺・新たな魅力を探る

過去にも史跡ウォークで訪れていますが、2年前に発掘調査がされた豊臣秀吉のいわゆる「京都新城」関連の話題、御所・御苑の「御門」や石垣に関すること、また御所周辺の各史跡など、新たな視点で京御苑とその周辺の魅力を探って歩きます。

  閑院宮家跡

東山天皇(在位:16871709年)の皇子直仁親王(なおひとしんのう:17041753年)を祖とする。1710年(宝永7)に新井白石(16571725年)が6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ:将軍在位:17091712年)に建白して創設された宮家である。
中世以来、皇太子以外の皇子皇女が出家して法親王になるならわしがあった。だから皇太子が早世すると、皇統断絶の危機が起こった。
このような状況をかんがみ、新井白石は「将軍家が栄え、朝廷も栄えるのが一番の得策である。将軍家だけ栄えることを望んでもよいことだろうか。皇子皇女が増加すれば出費もかさむという意見もあるが、金はなんとかなる。大切なのは道理である。」という意味の建白書を将軍家宣に提出した。家宣は新井白石の建白を受け入れ、東山天皇の皇子秀宮(ひでのみや)を直仁(なおひと)親王として新しく閑院宮家が創設された。


  信長の二条城

永禄11年(1568年)足利義昭は信長の武力を後ろ盾として京に上ってきた。将軍就任後は六条本圀寺を居所としていた。義昭は永禄12年(1569年)1月三好三人衆に襲撃を受けた。(本圀寺の変)この時は京都にいた信長家臣団と義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防御の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城することを決めた。場所は13代足利義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。
信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、建物の多くは本圀寺から移築された。さらに屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれた。築城は70日間という短期間で終え、その年の4月には義昭はここに本拠地を移した。この城の石垣に京都中から集められた墓石や石仏も使われた。当時は「武家御所」、「武家御城」、「公方様御構え」などと呼ばれていた。


  白雲神社

通称御所の弁天さん。主祭神は妙音弁財天と称する市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、西園寺家が琵琶の宗家であることから音楽の神として祀られてきた。
白雲神社は旧西園寺家の鎮守社であり、元仁元年(1224年)に西園寺公経(きんつね)が北山の別荘に建立した妙音堂に由来するとされる。後に赤八幡京極寺(鞍馬口駅北)にも鎮座され、明和6年(1769年)西園寺邸とともに御苑内に移った。明治以降西園寺家が東京に移転し、「白雲神社」と称されるようになった。


  蛤御門

正式には「新在家御門(しんざいけごもん)」。もともと開かずの門だったが、江戸時代の大火の際、逃げ惑う京の人を避難させるため、門が開かれた。火にあぶられて口を開く蛤になぞらえて蛤御門と呼ばれるようになったと言われる。
元治元(1864)年719日、長州軍と薩摩・会津連合軍が御所で衝突した「禁門の変」は、「蛤御門の変」ともいわれ、戦は長州軍の惨敗で、戦火で民家38000戸余が焼け、負傷者700人、死者340人以上の被害を出した。畿内における大規模な戦いは、1615年に起きた「大坂夏の陣」以来約250年ぶりのことで、現在でも門柱に命中した弾痕を確認することができる。


  道喜門

粽屋(ちまきや)川端道喜は1503年創業で、現在も16代目が北山駅近くで営業されている。当時の第104代後柏原(ごかしわばら、1464-1526年)天皇は応仁の乱後の財政難で、1500年に即位後21年もの間「即位の礼」を行うことができないほど困窮状態にあった。
天皇は日々の食事にも事欠くほどで、見かねた川端道喜はお腹を空かした天皇のために球状の餅を塩餡で包んだ現在のおはぎの元になるような食事「お朝物」を毎朝献上していた。待ち焦がれた天皇は「お朝はまだ来ぬか」と女官に聞くほど道喜を待ち焦がれたと言う。
その後信長や秀吉の寄進により財政状況が改善し、食事に困ることはなくなったが、「お朝物」は『朝餉(あさがれい=天皇の朝食)の儀』として儀式化した。代々の川端道喜は、建礼門すぐ東横の道喜門と名付けられた穴門を通して明治2年に明治天皇が東京に移られる朝まで、300年以上にわたって「お朝物」を献上し続けた。


  京都新城跡

京都新城は、1595年に聚楽第を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として1597年に京都御所南東に構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。現在の京都御苑東南に東西約400m、南北約800mの敷地を有したとされる。翌年8月に秀吉が伏見城で亡くなると、家督を継いだ秀頼は新城には住まず、秀吉の遺命により大坂城に移った。城は秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。その高台院が1624年に亡くなると、徳川幕府が解体し、同所に後水尾上皇の仙洞御所を造営した。
2020年、京都仙洞御所内での発掘調査で石垣と堀跡の遺構や金箔が付いた瓦が見つかった。「京都新城」の遺構が発見されたのはこれが初めてである


  藤原道長邸

土御門殿は、平安時代に平安京左京1416町に建てられた寝殿作りの邸宅。
邸宅の名前は上東門に至る土御門大路に面していることに由来し、土御門院、京極殿(院)、上東門殿(院)等と呼ばれた。
藤原道長の主要な邸宅で、道長の姉である東三条院詮子(せんし)や娘の藤原彰子(しょうし)の御所となり、特に彰子は出家後、この邸宅にちなんで上東門院を院号とした。

元々この建物は源雅信によって建立されたと言われるが、雅信の弟源重信とする説もある。源雅信の娘倫子(りんこ)と藤原道長(当時従三位左京太夫)が結婚した際に道長の居所となり、雅信の死後道長に継承されてその邸宅になった。道長の姉である詮子は正暦2年(991年)に院号宣下を受けて東三条院となった後、主に土御門殿をその御所とした。又、道長の長女、一条天皇の中宮藤原彰子が里邸として、ここで敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)を出産した。このことは「紫式部日記」に詳しく、後に「紫式部日記絵巻」に絵画化されている。彰子の妹嬉子(きし)もここで後冷泉天皇を出産しそれぞれの天皇の里内裏となり、道長の栄華を象徴する邸宅であった。
「この世をば 我が世とぞ思う望月のかけたることも無しと思えば」
の歌はここで詠まれている。


  桜松

もともとは老松の空洞に“寄生木(やどりぎ)”していた桜だったが、その松は 1996 年の嵐で倒れた。しかし桜は枯れずに松の空洞を通して地上まで根を下ろして根付いた。倒れた松を撤去しなかった御苑を管理する人々の粋な計らいのおかげで、松は倒れたままで朽ちているが、桜は今も春には花を咲かせている。
☆皇女和宮生誕の地
公武合体政策で第 14 代家茂に嫁いだ仁孝天皇の第8皇女和宮は、誕生前に父が崩御したので14才まで母の実家である橋本家で育てられた。和宮は孝明天皇の異母妹で、母は橋本家の娘で仁孝天皇の典侍(ないしのすけ)の経子(つねこ)。


  猿が辻

鬼は災(邪気)を持って北東からやって来るとされる。京都御所の鬼門である猿が辻の築地塀は角を欠いてある。ツノ(角)を取って鬼封じしてるわけだ。平安京の鬼門封じの比叡山日吉大社の神猿(魔が去る)も、屋根下に鎮座している。ここでも見上げると夜な夜な逃げ出さないように張られた金網の奥に御幣を担いだ猿がいる。
 猿が辻(朔平門外)の変
事件は1863年(文久3)5月20日、夜11時過ぎに起こった。長州の代弁者・幕府に攘夷を迫る尊攘激派公卿の姉小路公知は、会議を終え帰路に朔平門・猿が辻で3人の男に襲われた。瀕死の姉小路は5町離れた自邸に運ばれ、夜明け前に24歳の生涯を終えた。現場に薩摩の「人斬り新兵衛」の刀が残された。犯人は、孝明天皇・幕府・薩摩・長州??。


  近衛邸跡

近衛家は、藤原北家嫡流の藤原忠通の四男基実(1143-1166年)を祖とし、その子基通以来近衛氏を称した。基実の孫の家実の子、兼経(かねつね)の時に弟の兼平(かねひら)が鷹司(たかつかさ)家を興し、近衛家は2家に分かれた。
もともと近衛家の邸宅は今の護王神社があるあたりにあり、その後室町時代に現同志社大学新町校舎内に「御霊殿」として移転後、並行して天正年間(157392年)に今出川御門南に新邸が建てられ、明治維新までここが居宅となった。明治維新で明治天皇が東京に移ると近衛家も東京に転居し、現在跡地には池しか残っていないが、寝殿造りの政所御殿は奈良の西大寺に、数寄屋棟と茶室棟は愛知の西尾市に、大玄関は東福寺塔頭の勝林寺にそれぞれ移築され現存している。
近衛邸跡には早咲きの糸桜(枝垂れ桜)の大木が約30本植わっており、約1ヶ月にわたり楽しめる。現同志社大学新町校舎内にあった近衛邸は通称「桜御所」とも言われ、その様は洛中洛外図屏風にも描かれている。


  一条邸跡

◆ 縣井
「縣井(あがたい)」は昔、井戸のそばに縣宮という社があり、地方官吏として出世を願う者は井戸の水で身を清めて祈願し、宮中にのぼったという。井戸と付近の山吹の風情は後鳥羽院などの歌にも詠まれている。明治天皇の后となった一条美子の産湯にも使われたという。現在は枯れている。
◆ 一条家と函谷鉾の稚児人形
天明8年(1788年)の大火で消失した函谷鉾は天保10年(1839年)に復興を果たしたが、当時の函谷鉾町は町人の家は少なく、稚児を出せる家もなかった。町内では生き稚児の代わりに人形でもって稚児とする旨を願い出て許可された。ダメもとで左大臣一条忠香に事の顛末を話ししたところ、一条殿下の長男の実良君(さねよしぎみ、)をモデルにすることを許可され、人形を製作した。これが鉾に稚児人形が乗せられるようになったきっかけとなった。
実良君をモデルとした稚児人形が完成したとき、一条忠香卿は稚児人形に嘉多丸(かたまる)と命名され、御神号「祇園牛頭天王」の御筆掛軸と下着、襦袢、振袖、差貫(さしつらぬ)、狩衣(かりぎぬ)の稚児衣装一式を函谷鉾町に寄贈された。


  明治天皇誕生の地

 明治天皇は御所直近の母親の実家で誕生
公卿中山忠能の娘、慶子は、孝明天皇の側室として1852年(嘉永5年)に、実家の中山邸で皇子祐宮(さちのみや。後の明治天皇)を出産。祐宮(さちのみや)は4年近くを中山邸で過ごす。

 中山忠能、中山忠光
明治天皇の外祖父の忠能は、公武合体派として徳川家茂と和宮の縁組に関わり、江戸下向に随行。しかし、蛤御門の変では長州を支持、孝明天皇の怒りを買って失脚。明治天皇即位で復帰し、岩倉具視とともに討幕・王政復古の流れを作った。忠能の七男、忠光は過激な尊壌派で、長州藩士と親交があり、天誅組の変の首謀者。

 孝明天皇 明治天皇
孝明天皇は、幕府による通商条約破棄・攘夷を望むが、討幕に組しない公武合体派であったが、反幕府過激派の薩摩・長州にとって、幕府との権力争奪戦に天皇の権威は必要であった。

1866年1月薩長同盟、12月徳川慶喜、将軍宣下、同月孝明天皇崩御。翌1867年2月明治天皇即位。10月大政奉還、11月坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺、12月王政復古の大号令、翌年1月鳥羽伏見の戦い。孝明天皇の崩御が、幕末から明治維新への歴史の時計を早く進めた。


  相国寺七重大塔

1399年、室町幕府三代将軍足利義満により父義詮の33回忌を記念して高さ109mの七重の塔が相国寺東南の地に建立された。(*東寺の五重塔:55m、京都タワー:131m
しかし1403年には落雷で炎上。その後北山(現在の金閣寺境内)に移して新築するも義満の死後1416年に再び落雷で炎上した。七重の大塔は相国寺東南の旧地に戻されて再建され、1470年に3度目の火災で灰燼に帰すまで京のシンボルとして君臨した。
 塔からの眺めはすばらしく、16世紀初めの都を鳥瞰した「洛中洛外図屏風」の歴博甲本(町田本とも。重文)は、この七重塔からの眺望をもとにして描かれたという説もある。 現在七重の塔の跡は残っていないが、相国寺の近くに、「上塔之段町」、「下塔之段町」という地名が残っており、その付近に七重の塔があったといわれている。


  幸神社(さいのかみのやしろ)

794(延暦13年)年の平安京造営の際、平安京の鬼門の東北にあたる現在地より北東300mの鴨川岬に祀られた。応仁の乱によって焼失、のち再建。かつては広大な神域を誇っていたが、豊臣秀吉の命により社域が縮小される。
幸神社の位置は京都御所から見ると丁度「鬼門の方角」北東に建てられている。鬼門の方角を一直線に結ぶように猿ケ辻~幸神社~赤山禅院~比叡山延暦寺~滋賀の大津坂本の日吉大社が並んで建っている。これらが御所の表鬼門で都を守っていると言われている。
平安京造営時には、社名を「出雲路道祖神」といったが、江戸時代、天和2年(1862)、現在地に移された際に「幸神社」と改められた。また、もともとは「塞の神」と記した。 「塞の神」とは道祖神のことで、疫病や災害などをもたらす悪霊が侵入してくるのを防いでくれる守護神で、「塞」がやがて「幸」に置き換わり、縁結びの御利益があると言われるようになったともいわれる。
幸神社は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)をまつる。猿田彦大神は日本神話に出てくる「道の神(道祖神)」であり「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされている。天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が神々を連れ立って、天界から日向の高千穂へ向かう際、分かれ道で道案内をしたのが猿田彦大神。その後、天鈿女命と結ばれた。

  冷泉家

幕末維新期、公家の数は140家余りあったが、多くは明治天皇に従って東京に去り、京都の元の場所に今も屋敷を維持しているのは冷泉家のみ。上冷泉家の当住宅は、寛政2年(1790年)の建築で、現存する最古の公家住宅として重要文化財に指定されている。住宅の座敷では七夕の乞巧奠をはじめ代々伝わった伝統行事が綿々と受け継がれ、蔵には、定家筆の「古今和歌集」や日記「明月記」、定家の父、俊成の「古来風躰抄」などの国宝をはじめ、多くの私家集など、日本文化を語る上で貴重な古典籍や古文書などが納められている。
上冷泉家の25代当主(現当主)冷泉為人(ためひと)は、古典籍多数を伝え研究する財団法人冷泉家時雨亭文庫を設立した24代当主冷泉為任の娘婿で、同文庫の理事長である。為人は、近世京都画壇研究の第一人者で、現在同志社女子大学客員教授を務めている。旧姓名は松尾勝彦だったが、為任の長女貴実子の婿として25代当主を継承するために、家庭裁判所の許可を経て改名した。貴実子は、同文庫事務局長である。


  薩摩藩邸跡

幕末の薩摩藩は公武合体派を推進する中心的な藩の一つとして京都における様々な事件に関係した。藩主島津忠義の父久光は,文久2(1862)に上京して,尊攘過激派らを鎮撫(寺田屋事件)。その翌年818日の政変や元治元年(1864)の禁門の変では,幕府や会津藩などと連携して長州藩を中心とする尊攘勢力を一掃した。
当薩摩藩二本松藩邸は、慶応2(1866)1月、それまで犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が坂本龍馬と中岡慎太郎が仲を取り持ち、軍事同盟を結んだ薩長同盟締結の舞台となり、長州藩士の桂小五郎と薩摩藩士の西郷隆盛、小松帯刀(たてわき)らが会合を重ねた。会合が始まった最初の頃は話しが進まず、10日ほど過ぎたころにようやく龍馬が到着し、龍馬が隆盛と小五郎の間をとり持って、最終的には二本松藩邸ではなく、付近(1km)にあった小松帯刀の屋敷で同121日に薩長同盟は締結されたといわれている。


  花の御所跡

室町幕府3代将軍足利義満が造営した足利家の邸宅の通称。
元の室町家の花亭(2代将軍足利義詮が公家の室町季顕から買上げて別邸とした後に崇光上皇に献上したが、しばらくして使用されなくなった)と今出川家の菊亭の焼失跡地を併せて1つの敷地とした。また南北に通る室町小路(現在の室町通)に正門を設けたことから室町殿また室町第とも呼ばれた。
義満はここを邸宅とするとともに、ここで政治を行った。後の世に室町幕府と呼ばれた政庁。その敷地の広さは現在の通り名でいうと、東西は烏丸通〜室町通、南北は今出川通から上立売通という範囲になる。敷地だけでも当時の御所(内裏)の2倍にも及ぶ規模の将軍邸となっており、公家社会に対する義満のデモンストレーションを兼ねていたと思われる。庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれた(崇光上皇御所時代の通称を起源とする説もあり)。義満はここに後円融天皇や関白二条師嗣などを招いて詩歌や蹴鞠の会などを催した。
1394年、足利義満は子の足利義持に将軍職を譲ると北山第(後の金閣寺)へ移った。足利義満の死後、義満と不和であったとされる4代将軍足利義持は別の居所に移ったが、6代将軍足利義教や8代将軍足利義政はここを居所とした。その後、応仁の乱で焼失した(上杉本『洛中洛外図』には〈公方様〉と記され、焼失前の様子が描かれている)。以降、何度か小規模なものながらも再建が繰り返されたが、13代将軍足利義輝が1559年に三管領家の斯波武衛家邸宅跡に二条御所を造営・移転したために廃止された。


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