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ウォークの地図

本阿弥光悦が作った鷹峯を訪ねる

本阿弥光悦が徳川家康から御土居の北、周山街道に沿った鷹峯一帯の土地を拝領し、光悦一族や彼を慕う人々が移り住み、鷹峯は芸術村(光悦村)と呼ばれた。

  鷹峯薬園跡

寛永17年(1640)幕府はこの鷹峯に薬園を設置した。政治の中心は京都や伏見から江戸に移って行ったが、京都は朝廷のある都として変わらず最重要都市であり、医学の最先端の都市でもあった。
この薬園の規模は60間(108m)四方で、徳川家に仕え、禁裏の御殿医でもあった藤林道寿の一族が明治維新まで管轄した。弘化4年(1847)の記録によれば、栽培された薬のうち95種が禁裏に献上され、73種が江戸に運ばれている。北薬園と南薬園があり、現在地は南薬園の藤林邸の表門跡にあたる。南薬園の左手中程に長く井戸が存在した。その奥にいまだ農地が残る。しかし、20207月住宅建設に伴い、「国や京都市の文化財=史跡に指定されていなかったから」という理由で破壊された。井筒のみ移築。そもそも地名が藤林町。
明治維新後、薬園は茶畑などの農地に転用され、跡地は石碑などで顕彰されることもなかった。これは、江戸に造営された小石川薬園跡が東京大学理学部に使用されたり、大名・民間が営んだ旧島原藩薬園跡(長崎県)・森野旧薬園(奈良県。6000u)・佐多旧薬園(鹿児島県)が史跡に指定されたのと対照的である。


  御土居跡

天正19年(1591)豊臣秀吉は、京都の周囲を土塁で囲った「御土居」を築いた。
東は加茂川西岸、北はここ鷹峯付近、西は紙屋川東岸、南は九条(東寺)を囲む地域で、総延長は22.5km。おおよそJR京都駅からJR草津駅までの距離になる。

土塁の高さは5m、頂上部の幅は5mで、基底部は20m、土塁の外側には堀を巡らし、堀の幅は20m、深さは4mの日本最大の“都市城壁”であった。
残っている長さ120130mのこの御土居は、西側は深い谷で、その奥に紙屋川が流れている。

現在、「史跡・御土居」として残されている場所は、9ヶ所(昭和5年指定1930))で、未指定の8ヶ所とあわせると、17ヶ所ほどが残っている。
鷹峯は、若狭街道の出入口で、若狭や丹波の国の海・農産物などが都に入る拠点であった。このため、都の北部地域の産業・商業の発展は、幕府の利益確保につながるため、北側の鷹峯まで御土居が広げられたのではないか?との説がある。



  本阿弥光甫邸跡

光甫は光悦の孫であり、屋敷は光悦村の南端にあった。
寛永14年光悦の没後、同じ年に息子の光嵯も他界し、この後は孫の光甫が一族を取りまとめた。
光甫は空中斎とも称し、家業の刀剣鑑定、研磨の他、陶芸、絵画にも才能を発揮。中でも信楽の土を用いた「空中信楽」と呼ばれる茶器は有名。ろくろを使わず手捏ねで形成し、自然降灰釉を生かした、趣のある器である。他にも掛け軸など沢山残っている。
光甫は僧位の法橋、法眼も授与されている。また、前田家から300石を与えられた。
松野醤油…松野家は安土桃山時代から鷹峯に居を構えていたが、文化2年(18057代松野新九郎の時御所に仕える傍ら、醤油の醸造を手掛け、以来鷹峯で代々の製法にのっとり京醤油を製造。現在、伝統醤油として高島屋などにも出品。建物は嘉永2年(1849)の建築。



  本阿弥光悦邸跡

〔光悦村以前の本阿弥家〕
本阿弥家の祖先は、伝えられる系図(真偽は不明)によれば、菅原高長の晩年の庶子で、長兄の養子として育った妙本(長春)が初代であり、家紋は菅原家と同じ梅紋である。刀剣の研ぎ・拭い・目利きを家業とし、本阿弥家は室町幕府の御用を勤めながら、商人として経済活動にも従事し、戦国時代には京の上層町衆として知られた存在だった。
7代光心の婿養子となった光二は、もとは今川義元、後織田信長に仕えたことがあり、光二と妻妙秀との間に嫡男光悦が生まれた。その後光心に実子が生まれると、光二は別家を立てた。

刀剣の製作工程には木工・金工・漆工・皮細工・蒔絵・染色・螺鈿などのさまざまの工芸技術と関係があり、光悦は光二のもとであらゆる工芸に対する高い見識眼を鍛え抜かれて行った。さらに京都の三長者(後藤・茶屋・角倉)と並ぶくらいの富を背景に、高度な教養と独自の書風(近衛信尹・松花堂昭乗と並んで、寛永の三筆の一人)を身につけた。そして若き俵屋宗達を見出し、一流の芸術家に育てた。

 一方、茶の湯を古田織部に学んだが、織部が大坂夏の陣で豊臣方に通じたという理由で自害させられたことがきっかけとなって、徳川家康が織部と親しかった光悦を京都の外に追い出したという説もある。
本阿弥宗家10代・光室の頃から、鑑定し優れたものには「折り紙」(鑑定書)を発行した。優れたものを「折り紙付き」と言うのは、これが語源とされる。
本阿弥宗家は、現在は光意系の18代光州が後継者として活躍している。


  光悦寺

光悦は生前、ここに草庵を結び、位牌堂(太虚庵)を建てた。寛永14年(1637)光悦は太虚庵で亡くなり、没後本法寺の日慈上人が開山となって、日蓮宗太虚山光悦寺となった。
明暦年間(1655-58)光悦の孫・光伝は、太虚庵の地の一部を寄進し知足庵を建立。明治12年知足庵は瑞芳寺と合併。今の瑞芳寺である。また明治17年(1884)光悦寺は、光悦が母妙秀のために位牌所に建てた妙秀寺と合併。

光悦寺の現在の建物は、すべて再建されたものである。
鐘楼は茅葺で、六角形の柱が珍しい。茶室があるがいずれも大正時代の建立。大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛寮、自得庵の7室。茶室は傾斜地に建ち、付近の景色を借景に各々趣がある。数寄屋大工の名工・木村清兵衛、七代目小川治平作庭の庭がある。
有名な光悦垣は、南へ行くほど低くなり、高さの変化に富む竹垣である。光悦が好んだので光悦垣と呼ばれるようになった。


  円成寺(岩戸妙見宮)

日蓮宗本満寺派。寛永7年(1630)本満寺の日任(にっとう)が創建。岩戸妙見宮の名は、日任が霊夢により近くの霊巌寺から移したという王城北方守護の石像・妙見菩薩像に由来する。後の山にこの一帯を領した儒者・三宅亡羊一族の墓がある。
廃仏毀釈・神仏分離の嵐によって荒廃していたが、地元有志によって明治21年普請修理された。

岩戸八幡宮は古墳状の石室作りで、内陣に妙見大菩薩の石像が鎮座している。現武神・鎮宅霊符神・尊星王とも称され、北極星と北斗七星わ神格化した菩薩である。

三宅亡羊 天正8年〜慶安2年(15801649)江戸初期の儒者で茶人。和泉国堺に生まれる。堺の有力町人会合衆の一人。秀吉のもとで堺五奉行をつとめる。
慶長4年(1599)京都に出て大徳寺に学び、藤原惺窩に師事した。千宗旦に儒学を教え、代わりに茶道を学んで宗旦四天王の一人とされた。歌・和歌・香にも通じた。油小路中立売付近に住み、二畳の茶室を楽しむ。
後陽成、後水尾天皇に進講、後陽成天皇から洛北鷹峯に四十町四方の土地を下賜された。いわゆる四十間四方塚(鷹峯岩戸妙見宮の後山)で、三宅家の墓所となる。
※境内は撮影禁止です。m(__)m


  源光庵

貞和2年(1346年)臨済宗?徳寺2代・徹翁国師が開創。卍山道?禅師が住持、中興し、以降曹洞宗の寺院となった。
本堂は卍?禅師に帰依した?沢の豪商・中?静家居?の寄進によって元禄7年(1694)に建?され、本尊として華厳の釈迦牟尼佛、脇?に阿難尊者、迦葉尊者を祀る。
本堂廊下の天井板は伏見城から移築したもので、166年(慶長5年)に徳川家家臣鳥居元忠らが石田三成に破れ自刃したときの跡が残り、血天井と呼ばれる。その脇に丸窓と各窓があり、それぞれ迷いの窓、悟りの窓と呼ばれている。
遣迎院 長屋門は備中高松城の遺構と言われている
本尊は、釈迦、阿弥陀の二尊である。これは娑婆世界から衆生を送り出す釈迦(発遣の釈迦)と、これを迎えて極楽へと導く阿弥陀(来迎の阿弥陀)であり、それをもって遣迎院と名付けられている。釈迦に送られ、阿弥陀に迎えられる人物の様子を劇的に描いた絵画は多いが、彫刻で二尊をあらわして本尊としている例は多くないと思われる。


  常照寺

吉野太夫菩提所 常照寺は吉野太夫ゆかりの寺とも呼ばれている。
常照寺のある鷹峯は、左大文字山の北、優しく緩やかな姿をみせる鷹三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)にあり、秀吉が築造した「御土居」の外側、京の七口・長坂口の北西部にある西に紙屋川が流れ、北丹波を結ぶ街道筋の情景の豊かな地です。
女性の寝姿にも喩えられる三山を望む、穏やかな佇まいの常照寺は市内より1週間ほど遅れて開花するという参道や境内の吉野桜をはじめ、太白桜・鬱金桜(うこんざくら)・紅枝垂桜など約100本の桜が咲く。また、初夏からの青もみじ・サツキ、紫陽花、蓮など、そして秋の紅葉など四季を通じて花の寺としても人気があ。境内の吉野太夫の好んだ吉野窓を配した「遺芳庵」では月釜の「吉野茶会」が催され、毎年行われている「吉野太夫花供養」では参道から特に賑わ
開山は日蓮宗中興の祖とされた寂照院日乾上人。日蓮宗の熱心な信者でもあった光悦は翌年には土地を寄進し、養子光瑳の発願で日乾上人を招じ、日乾上人は多いときには300人を越える学僧たちが厳しい戒律の中、修行に勤しんだと言うその明治まで常照寺は檀林の寺(だんりんのてら)と呼ばれ


  野間玄琢廟所

野間玄琢は、天正18年(1590)京都生れ。曲直瀬玄朔(まなせげんさく 漢方の名医で号を東井)の門下となり、儒医学を修める。25歳で朝廷の禁裏医となり、この地を拝領し薬草園を造る。寿昌院の号を賜り、法印(仏教の僧位で僧正に与えられる)に叙せられる。
寛永3年(1626)上洛した徳川秀忠から将軍家への出仕を請われ、10年間、秀忠、家光の侍医として江戸と京都を移動する。
寛永5年、家光が疱瘡となり診察する。京では東福門院(徳川和子)の診察のために帰京して寛永15年からは東福門院付となった。
正保2年(164556歳で逝去。
本阿弥光悦と交遊があり、この景勝地を愛でて「白雲渓」と称した。
八坂神社 ご祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)。江戸期までは神仏習合で牛頭天王
本殿は銅葺一間社流造で祇園から勧請されたもので、地域の産土神。


2時間くらいのコースでした。

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