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ウォークの地図

旧渋谷街道を辿る
(山科から京・馬町へ)

京から東山を越えて山科へ入る道は、五つあった。五街道の内、渋谷街道は、東国から平安京(洛中)に至る古くからの街道(東国路)であり、大津へ抜ける最短の間道として、平安時代から中世にかけては軍事的に重要であった。

  五条別れ道標

宝永4年(1707)に沢村道範により建てられた道標で、東海道と渋谷越えから五条大橋へと分岐する三叉路の五条別れ交差に佇む。
右ハ三条通 左ハ五条橋 ひがしにし六条大弗 今ぐ満(ま)きよ水道 この三叉路を左(南)へ行くと五条大橋で、そこから東西六条(本願寺)、大仏、今熊野、清水寺への道程が示されていて、当時は京都大仏が健在で、観光名所だったことが伺えるが、相次ぐ火災で現在は国立博物館となっている。
道標が設置されたころは、伊勢お陰参りが盛んで、京見物や西国三十三カ所巡りが盛んだったことを物語っている。開発の著しい山科地域だが、この付近には街道筋の風情が残り、出窓、格子戸、虫籠窓の街並みが残り、往時を偲ばせる。


  厨子奥児童公園(四手井城跡)

土豪四手井氏代々の居城。築城時期は不明だが、永禄年間の城主に三好氏被官「四手井家保(いえやす)」の名が確認できる。『言継卿記(ときつぐきょうき)』によると、1558年の三好長慶と足利義輝の争いでは義輝方5,6千人に攻められ、周辺を放火された。
その後は足利義昭・織田信長に仕えるも、山崎の戦いで明智方に与したために没落。
同時期に廃城になったと考えられる。現在では宅地化され、城の遺構はなにも残っていないが、城の西には旧安祥寺川が流れていたことと、わずかに厨子奥矢倉町の名が残り、一角が城域とされ、
一応、西側と東側はやや落ち込むような地形となっている。その後、四手井氏は郷士として現在も子孫が存在する。



  元慶寺(西国33か所・番外)

天台宗の寺で、本尊は薬師瑠璃光如来。貞観10年(868)、藤原高子の発願により、定額寺として桓武天皇の皇孫である遍照僧正により建立された。遍照は、六歌仙の一人で元慶元年(877)には勅願寺となり、元慶寺と改めたとされる。
寛和2年(986)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた(寛和の変)。花山法皇の宸影を安置する寺で花山寺(かさんじ)とも呼ばれ、寺格も高く多くの寺領で栄え、昨年12月の史跡ウォークで訪れた現大徳寺塔頭 雲林院は元慶寺の別院でもあったが、応仁の乱で罹災し、伽藍は消失し、以来境内は小さくなってしまった。
現在の建物は、安永年間(1772-81)の再建といわれ、花山法皇ゆかりの寺として、西国三十三カ所番外札所となっている。
遍照の墓
 僧正遍照は、桓武天皇の皇孫で寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家し、天台宗の僧正となる。六歌仙の一人で「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」という歌が百人一首に撰定されている。この和歌は出家される前の殿上人であったころに詠まれている


  北花山水路記念碑

山科村の西北の五つの大字(日岡・北花山・上花山・川田・西野山)は潅漑用の水利に乏しく苦しんでいたので、山科村長柳田謙三と各字水利委員は、明治23(1890)に完成したばかりの琵琶湖疏水から日岡で分水するために長さ5.4キロメートルの水路を開くことを計画し、明治24年に着工し翌年竣工し、この功績を記念するためにこの碑が建てられた。同時期に完成した四ノ宮音羽方面に分水した「洛東用水路」と区別するため、「東山用水路」とも呼ばれている。


  花山隧道(花山洞)

明治36年(1903)渋谷街道の渋谷隧道(渋谷トンネル)として開通。長さ142mで幅4m、高さは3.4mある。南に並行する国道1号の開通に伴い、歩行者、自転車専用のトンネルとなる。
山科区側(東側)の抗口には「花山洞」のが扁額が架かり、煉瓦を模したタイルによって修景されているほか、内部もコンクリートによって補強されている。また、建設当初の面影を残す東山区側(西側)の坑口には「方軌通門」の扁額が架かっている。
「方軌」の意味は、轍を並べて二台の車(中国では牛車、日本では荷車が通れることを指し、「通門」は、普段使いの門。通用門で、正門とは違い関所や門番がない門である。最近トンネル内部の補修工事が行われた。
トンネルのある阿弥陀ヶ峰周辺一帯は、北の「蓮台野」、西の「化野」と共に京都三大葬送の地の一つ、東の「鳥辺野」として知られ、平安時代は風葬の地、中世以降は墓所・火葬場が存在した。現在もトンネル南側に京都市中央斎場(旧花山火葬場)がある。また、天文年間には阿弥陀ヶ峰城があったと言われ、慶長3年には秀吉が亡くなり、翌年ここに埋葬された。
また心霊スポットとしても知られています。


  三島神社

社伝によれば後白河天皇中宮建春門院(平滋子)は皇子のないのを憂い、摂津国の三島神社に祈って高倉天皇を出産されたが、その報恩のため、平重盛に命じてこの地に社殿を造営させ、三島神社を勧請したのが起こりと伝える。
治承2年(1178)、高倉天皇中宮建礼門院(平徳子)もまた、安徳天皇の誕に当って当社に安産祈願をされた。平家一族の没後も安産守護の神として信仰され、祈願をするものは「うなぎ」を禁食し、お礼に「うなぎ」の小絵馬を奉納するならわしになっている。「うなぎ」は祭神の使者といわれるが、一説にはむかし氏子は一代のあいだ、「うなぎ」を禁食したからだともいう。これに因んで毎年5月・10月の各26日には「うなぎ祭(放生会)」がおこなわれる。
三嶋神社は、皇室の信仰も厚く、 20164月に秋篠宮殿下ご夫妻も参拝され、後に悠仁(ひさひと)親王殿下がご誕生されたとか。
〔影向石〕(えこうせき)本殿前にある。高さ2m余り、赤味をおびた岩石で、木花咲耶姫が影向した石とつたえ、古くは安産石とも誕生石ともよばれ、安産を祈る信仰があった。
また社伝によれば、牛若丸は当社に参籠し、平家追討を祈願中、夢中に老翁が現われ、「汝のこころざし久しくすべからず、早々に奥州にくだるべし」との託宣をこうむり、この石の前から奥州へ旅立ったとつたえている。これに因んでこの石を遥向石とも称する。


  佐藤嗣信・忠信塚碑

この地には十三重石塔が建ち,佐藤継信・忠信の塚であると伝えられた碑が建立されている。
佐藤継信(1157?85)忠信(1161?86)兄弟は、藤原秀衡の郎従であったが治承4(1180)源義経が頼朝へ参陣の折、秀衡の命により義経に属し行動を共にし、義経四天王に数えられ平氏と戦った。継信は文治元年(1185)屋島戦で戦死。忠信は,義経が頼朝に背いた後も行を共にしたが別れて京都にいた時、糟屋有季(かすや ありすえ)に襲われ自殺した。1295年の銘がある十三重石塔が二基あり,現在京都国立博物館に移され、敷地内に復元されているが、墓かどうかは定かでない。
反対側に佐藤兄弟の末裔とされる「佐藤文襄翁之碑」と「佐藤政養(まさやす)招魂之碑」が建立されている。
政養(庄内藩農民)は文襄の子息であり、勝海舟門下の逸材で、土木、測量の技術をもち、近代日本の建設に貢献。新橋・横浜間の鉄道敷設に尽力し、「日本鉄道の父」と称される人物であった。


  馬町空襲記念碑

1945116日午後1123分、米軍のB29爆撃機1機が京都市東山区馬町上空に侵入し、寝静まった市民の頭上に約20発の爆弾を投下。死者41人、負傷者48人、家屋破壊141戸を数えた。地名から「馬町空襲」と戦後呼ばれるようになった。
京都に空襲があったことで、国民の戦意低下を恐れる当局が緘口令を引いたこともあり、戦後「京都は文化財があったから空襲から守られた」という噂が 広がった。だが、京都市への空襲は馬町空襲を含めて5回ある。626日には西陣が標的になり、50人もの犠牲者を出している。
それでも大阪や東京などと比べて空襲被害が少ないのは、京都市が原爆投下の候補地だったからだともいわれる。
空襲69年後の同日に地元住民らが被害の実相や資料を残したいと「馬町爆撃を語り継ぐ会」が奔走し、白河総合支援学校東山分校(旧修道小学校)に石碑を建立した。
設置された石碑は二つでいずれも自然石。高さ1メートルの石に「馬町空襲の地」と刻まれており、高さ60センチの石には空襲の概要が刻まれている。
なお、19453月に馬町北側にある五条通りは防火帯形成のため南側の建物疎開が行われ大幅に拡張された。



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