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西陣界隈の史跡と町家を訪ねて

・・・機の音を偲びつつ・・・・・

新京都シティボランティアガイド協会では,3月18日に第18回市民ウォークを下のように行いました。

山名宗全邸跡

当地が西陣と呼ばれるようになったのは,室町時代末期の応仁元年(1467)年に始まった応仁の乱以降の事で,山名宗全がここに陣地を敷いたのにちなみ,「西陣」と呼ばれるようになった。町の名も山名町と町家の軒先に見られる。
応仁の乱は,将軍家と管領家の継嗣問題に始まったもので,細川勝元の東軍と山名宗全の西軍に分かれて戦われていたが,11年続いた大乱も山名宗全が70才で病没し,細川勝元も44才で病没,その4年後に終息した。
戦後,堀川通の工事の際,山名町付近の地下から,幅高さとも2メートル余りの横穴が発見され,山名邸の「抜け穴」だろうと言われた。


西陣織会館
西陣で織物が始まったのは,奈良時代の初期に渡来人が養蚕と絹を織る技法を伝えた事による。
延暦13年(794年)に平安京が開かれると,国営工場が設けられ天皇や公家らの消費する織物が盛んに織られた。その後,官の力が衰えるにつれ職人は自立して私業に励み,西陣織はますます盛んになった。江戸時代は町人文化の台頭を背景に,さらに西陣は発展してゆき,絹織物の一大産地となるが奢侈禁止令,大火により一時衰微する。
明治維新後,着物から洋服へと変化して行くにつれ,西陣織も存亡の危機に見舞われた。これを救ったのが当時の府知事で,フランスから輸入されたジャガード機によって仕事の効率を図る等,西陣織の復活を図る。

西陣織は,一つの織の技法をいうのではなく西陣で織られる織物の総称である。
主な織物は帯,ネクタイ,金襴,御守袋,法衣,相撲まわし,などがある。ちなみに,西陣織会館は,昭和51年村雲御所跡に建てられたものです。

晴明神社
平安時代の陰陽師安倍晴明をまつる晴明神社は,その邸趾であったと伝えられている。
晴明は,天文博士としてまた陰陽道の始祖として数々の伝説を伴うが,幕末の火災で社伝記録が失われており,神社の歴史は良く分かっていない。
今も易学の神様として信仰が厚く「せいめいさん」と親しまれ,命名や運勢判断などに訪れる人の姿が絶えない。

屋根瓦には,晴明桔梗紋(天地五行「木,火,土,金,水」を指す)が目を引くが,これは,陰陽道で用いる呪符で魔除けになるという。

鳥居をくぐると,元一条戻橋の親柱が目に入る。北寄りに晴明水井戸があり,病平癒の湧き水が出るという。

阿部晴明の母親は,狐だったという伝承がある。晴明の父は阿部保名(やすな)とい
い,保名は和泉国の信田(しのだ)の森で里人に狩り出された一匹の狐を救う。その狐が,女に変じて保名と夫婦になり,晴明が生まれたという。晴明の持っていた超能力ゆえの話しかと思われるが・・・。

一条戻り橋
阿部晴明法力争いをして敗れた兄蘆屋(あしや)道満が,殺した父親を晴明が祈祷によって一条戻橋で蘇生(しせい)させる。あの世から戻った命で戻橋の名の由来となった。など,諸説がある。
平安の昔,この橋はこの世とあの世をつなぐと考えられていた。戻橋は,晴明が鬼の使いである式神をかくし,さまざまな呪術を行ったり,渡辺綱の鬼女退治伝説などが残っている。また,源氏物語や和泉式部の歌にも詠まれている。

後生に戻ることを忌む橋として,いろいろな風習を生み出した。


冨田屋
明治18年(1885年)の創建。120年前より続く,西陣の商家特有の様式を残した京町家で,現在で13代目です。(九代目までは伏見で両替商をしていたが,鳥羽伏見の戦いでり災し西陣へ転居)調度品の素晴らしい離れ,武者小路千家九代家元宗守氏が「楽寿」と銘々した茶室などが,平成11年に国の登録有形文化財に指定された。

千両ヶ辻

西陣織が盛んになり,この一帯が織物の大産地となり,千両箱が行き交うほどの商い
が展開されていたことから千両ヶ辻と呼ばれ,その中心となったのが今出川大宮付近で,今も名残に多くの銀行が残る

三上家
西陣の雰囲気を残した町並みで,かつては西陣織の職人さんが多く住んでいた路地の一角です。現在は,外人などを含む若き芸術家達で賑わっている。

本隆寺
日真上人が開創した法華宗真門流の総本山で,日真は妙顕寺の日具上人に師事し,研鑚に努めたが,のち意見を異にして対立,西洞院六角に草庵を建て独立した。その後叡山の焼き討ちに遭うなど法難を受けたが,のちに今の地に再建された。

本堂祖師堂は,京都府指定有形文化財となっている。境内の「夜泣止の松」の葉を枕の下に敷くと子供の夜泣きが止むといわれる。「千代の井」は,無外如大尼ゆかりの井戸として知られ,西陣五名水の一つ。

またこの寺は,享保,天明の大火にも本堂が焼け残った。これは本堂に安置されている「鬼子母神」の霊験によるものと信仰されており,「不焼寺(やけずの寺)」とも呼ばれている。


雨宝寺
日本最古という象頭人身の歓喜天(聖天)を本尊とするところから,西陣聖天で親しまれている。

嵯峨天皇の病気のおり,弘法大師が等身大の歓喜天を彫って祈祷すると平癒したので,天皇から別荘を賜り,そこに雨宝堂を創建したことに始まるという。
境内には本堂をはじめ大師堂,不動堂,稲荷堂,庚申堂などがあり,千手観音立像は重要文化財となっている。また「染殿井」は西陣五名水の一つ。緑の花をつける「歓喜桜」,他に「時雨の松」などの名物がある。町名は,聖天町という。

巽家
創業嘉永3年(1850年)で,150年続く西陣の代表的な織屋さん。現当主(女性社長)で五代目である。

「吹き出物と機屋(はたや)さんは大きくなると潰れる」といわれ,4代〜5代続いているところは数すくない。

巽家は,数寄屋(すきや)造りの,織屋建と呼ばれる建築で,織屋を続けながら往年の姿を残している数すくない町家といっていい。

建築に関わった大工さんは,歌舞伎役者の先代中村雁治郎の家なども手がけた数寄屋造りの名人であったという。

織成館 (財)手織技術振興財団
「手織を中心とする染織文化・工芸文化」を付録一般に広め,その振興を図るために,開設された。
西陣の織屋建を生かして,西陣織や全国の手織物,能装束,時代衣装などを展示しており,西陣織の体験もできる。

隣の「須佐命舎」は,1995年に出雲地方の「東須佐小学校」の廃校に伴いその廃材を引き取って立て直したものです。アメリカ人の宮大工マイケル・アンダーソンがデザインしたもので,和風にも洋風にも使用できる特色を持っています。またコンサートや各種教室,披露宴にも利用されています。

石像寺(釘抜地蔵)
家隆山と号する浄土宗の寺で,本堂に安置する石造地蔵菩薩像が釘抜地蔵の本尊です

「くぎぬきさん」と呼ばれる石像寺には,堂本印象画伯の奉納になる大きな釘抜きが建ってる。
弘治年間,紀伊国屋道林という人が,両手の激痛が治まらず,ここの地蔵さんに七日の願掛けをすると,夢に地蔵尊が現れその手には二本の八寸釘が握られていた。その悩みは前世において人を怨み,人形に釘を打ち込んだ呪いによるもので,七日の祈願によって罪は消えたと告げられる。痛みは消え地蔵尊の前には,血のついた八寸釘があったということから「苦」を抜くという信仰があり,祈願者は,二本の釘と釘抜きの絵馬を奉納するならわしがある。
本堂の裏には,重要文化財の阿弥陀如来石像が安置され,また墓地には藤原家隆,定家,為家の供養塔がある。

大報恩寺(千本釈迦堂)
瑞雲山,真言宗の寺で,本堂は京都の旧市街地で奇跡的に焼け残った最古の建造物で国宝となっている。
重要文化財の行快作の木造釈迦如来像や快慶作の木造十大弟子立像は開創当時のまま伝えられ,霊宝館には観音菩薩像,一切経五千四十八帖なども重要文化財として収蔵公開されている。
おかめ塚で知られるように,西陣の町衆とともにあった寺であり,度重なる大火からも守り抜かれた。昔の住民意識がいまに受け継がれていることが良く解かる。

おかめ踊りの節分会(2/2,3)千本釈迦念仏(3/22)千本釈迦堂花供養(5/5)大根焚き(12/7,8)と行事も盛り沢山。

本堂建設のおり,大工の棟梁高次が,柱の寸法を切り誤って困っていたところ,妻の
於亀(おかめ)が枡組(ますぐみ)を用いることを教え,無事竣工させることが出来た。しかし,於亀は女が夫の仕事に口を挟んだことを恥じて自害したという。高次が於亀の冥福を祈って立てた宝篋印塔をおかめ塚といい,大工の信仰を得るようになる。上棟式のお多福の面はこれに因んだとされている。おかめ,お多福は,五徳を備えた福相で,この時代の美人の典型だった?。枡組は,方形に組んだ障子や欄間などの骨組みをいう。


上七軒界隈
文安元年(1444年)の室町時代,北野社殿が一部焼失し,時の将軍十代足利義植が細川勝元に命じて社殿の造営をさせた。その折の社殿修復の残材をもって,東門前の松原に七軒の茶店を建て,参拝諸人の休憩所とした。これを人呼んで七軒茶屋と称したのが由来という。
その後,秀吉の茶会のおり,名物の御手洗(みたらし)団子を献上したのを期に,茶屋株を公許され我が国最初のお茶屋の始まりとなる。
現在,上七軒の花街(かがい)が,五つ団子の紋章を用いているのは,この名物の御手洗団子に由来する。
西陣の旦那集の遊行,交際の場として栄え,最盛期には50余軒あったお茶屋も今は12軒と淋しくなったが,いまでも一帯は花街上七軒の落着いた佇まいをみせる。
「北野をどり」は,ここ北野会館(北野歌舞練場)で上演される。


東向観音寺
真言宗朝日山延暦25年(806年)建立,道真公自作と伝えられる十一面観音像を安置する本堂が東向きであるところから,東向観音堂と称される。元は西向もあったが,再興されなかった。

境内奥に,道真の母の廟塔といわれる高さ3mの五輪の石塔があり,忌明塔(いみあけとう)という。大伴家は大伴家持などを輩出した文人家系で,道真の母も優れた女性であったらしいが,道真28歳の時他界する。

その他,謡曲で有名な源頼光が退治した土蜘蛛の塚がある。

天満宮境内を少し北に行くと,神仏分離前に当寺のあった伴氏社の鳥居がある。この鳥居は,根元に蓮弁が彫られており,京都三珍鳥居の一つである。

北野天満宮
菅原道真を祭神とする北野天満宮は,21日の弘法さん,25日の天神さんと,京都に定着した縁日や梅の名所として知られる。

平安時代の政争で右大臣まで出世した秀才道真を妬んだ藤原一族の陰謀により大宰府に左遷される。道真が藤原一族でなかったことの不運もあったが,道真は延喜3年(903年)に太宰府で没する。

「東風吹かば におい起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」の句は有名です。ちなみに社紋は梅鉢となっている。
その後,道真の祟りとする災禍が度々発生,七条に住んでいた巫女の多治比文子(たじひあやこ)に神託があり,天満天神として祭られたのが始まりです。境内北端に文子神社として残る。
社殿は,慶長12年(1607年)の造営,権現造りの広大な建造物で国宝です。(現在修復中)絵馬所は,京都市指定有形文化財,梅苑,お土居などが有名で,境内の末社は,60社と全国でも尤も多いと思われる。
学問の神様,道真を祭る天神さんには,今も受験生の絵馬が全国から奉納されている。