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ウォークの地図

牛若丸の歩いた鞍馬街道

平安遷都後の御所から鞍馬寺に通じる古道 日本の街道の一つ。平安遷都の頃からの古街道で、京都御所と鞍馬寺を結び、山城国から丹波国・若狭国まで延びていた。牛若丸も歩いた道である。


  更雀寺(きょうじゃくじ)

浄土宗西山禅林寺派の寺で、森豊山と号する。当初は中京区西ノ京の勧学院(平安時代の藤原氏が建てた私学)の址に建てられ、勧学院の廃亡後、鎮守春日社のそばで草庵を結んで社僧が守っていたが、寛永年間、浄春上人が再興し、四条大宮西入錦大宮町に移った。さらに昭和521977)年都市化による喧騒を避け、幡枝に移った。本堂には本尊阿弥陀如来像を安置する。
本堂の前庭にある五輪石塔を雀塚といい、これに因んで当寺を俗に「雀寺」という。
鳥山石燕の「入内雀」のモデル、奥州で客死した藤原実方の雀塚で平安中期の歌人藤原実方(さねかた)は、小倉百人一首「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」の歌で知られる中古三十六歌仙の一人。ゆかりの「雀塚」は東北に没した実方が、死後、雀に姿を変えて都に戻ってきたという伝承が残る。九九五年、天皇の面前で藤原行成と歌について口論となり、怒りのあまり持っていた笏(しゃく)で行成の冠を打ち落とした。行成は取り乱さず、事を荒立てなかった。このため、天皇は実方を奥州(宮城県名取市)・陸奥守に左遷した。三年後、実方は落馬し亡くなった。
ある日、藤原家の学舎(まなびや)である勧学院の住職観智上人の夢枕に一匹の雀が現れた。「我は実方なり。身は陸奥に没したが、魂は雀となって、都に戻ってきた。朝は台盤に遊び飯をついばみ、夕方には林の中で翼を休める。勧学院は藤原家の学校で、往時をしのんで止宿する。我がために誦経(ずきょう)せよ」と告げた。翌朝、上人が境内の林の中を見ると、一匹の雀が死んでいた。これより林(森)を「雀の森」、寺を「更雀寺」、雀を埋めたところを「雀塚」と称すると伝える。


  頼光橋

更雀寺の東、長代川にかかる橋。『古今著聞集』に源頼光が酒呑童子の子の鬼同丸に襲われたが、逆に鬼同丸の首を切り落とした処と伝わる。鬼同丸が市原野で放し飼いの一頭の牛を殺して体内に隠れ、鞍馬寺に詣でる頼光を待ち受けていた。しかし頼光は牛が動いたのを気づき、頼光の命を受けた四天王の一人渡辺綱が弓矢で牛を射抜いた。牛の中から鬼同丸が現れて頼光に斬りかかってきたが、頼光が一刀のもとに鬼同丸を斬り捨てた。江戸時代これをテーマにした歌舞伎「市原野」がある。


  木野愛宕神社

創建は文禄年間(1592-1595)葛野郡嵯峨の愛宕神社野々宮社で神職を勤めていた木野の土器師らが、木野山の麓に新宮を造営し、愛宕山より愛宕神社、麓の嵯峨より野々宮社を勧請した。
この地域は,京都の嵯峨天龍寺近くに住み,朝廷や幕府に土器を納めていた土器師一族が,原材料の粘土を求めて1572年(元亀三年)に嵯峨から移り住んだ所である。
維新前は原料の埴土を随所に採掘する特権を得、公事の諸役並に宅祖を免除される特典をこうむっていた。その製法はきわめて原始的でろくろを使わずすべて手作りであった。またその製品は素焼きであるが、はなはだ素朴味があって昔は皇室の御用を務めるかたわら、市中へもひろく行商販売を行ったといわれるが、今日では行われていない。
 当神社は,移住した一族が1600年頃に嵯峨野々宮神社から歓請したものと伝えられており,境内には愛宕本社,奥社,野々宮,皇大神宮,稲荷社,八幡社の六つの祭神が祀られ、毎年1023日に催事が行われる。

境内にはかわらけを製造するときに使われた円筒形の窯が復元されている。窯は直径1.3m、高さ0.85mの円筒形で、手前には半地下式の焚口が付属する。1回の窯詰めでおよそ12000枚の土師器皿を焼くことができたという。かつては村のあちこちにこうした窯が存在したが、現在ではこの復元窯と村の民家に保存の1基の、併せて2基だけである。


  妙満寺

妙満寺を創建した日什は、もと天台宗の学頭で名を玄妙と称した。68歳の時に上洛して、後円融天皇へ上奏し「二位僧都」の位と「洛中弘法の綸旨」を賜った。永徳31383)年、六条坊門室町に法華堂を建立し、康応元(1389)年寺号を妙満寺と号し、一寺をなした。応仁・文明の乱等でも度々焼亡、天文5年(1536年)、天文法華の乱により伽藍を焼失し、妙満寺は堺に避難。天文11年(1542年)、後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、寺は四条堀川の旧地に再建されるが、天正11年(1583年)、豊臣秀吉の命により、寺町二条(現京都市上京区榎木町)に移転させられた。現在地には昭和431968)年に移転した。
雪の庭 由来 俳諧の祖と云われる松永貞徳(15711653)の造営した庭。貞徳は寛永六年(16291125日 当妙満寺会場にして正式俳諧興行として「雪の会」を催した。これにより俳諧は、連歌から独立した文芸として認められ、後に松尾芭蕉や与謝蕪村などを輩出して確立した。妙満寺は俳諧(俳句)発祥の地といえる。
妙満寺の時の住職日如上人は、貞徳の門人でありその縁からこの「雪の庭」を造営した。清水の成就院「月の庭」、北野(一説には祇園)の成就院「花の庭」(現存しない)、いずれも成就院にあったことから成就院の三庭園と呼ばれていた。比叡山を借景。
※寺町二条の境内から、雪の庭の借景は方位が違うが、比叡山が借景。
安珍・清姫の鐘 和歌山県道成寺にあったとされる梵鐘で、安珍・清姫伝説ゆかりの梵鐘とされ、豊臣秀吉の紀州征伐の際に家臣の仙石秀久が京都に持ち帰ったが、鐘が重かった為に途中で廃棄し、近くの住民の手で奉納された。しかし寺の資料では仙石秀久が奉納したとある。
時は醍醐天皇の御代、奥州白河より熊野に参詣に来た安珍は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡真砂の庄司清次の娘(清姫)は宿を借りた安珍を見て一目惚れ、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は参拝中の身で困る、帰りにはきっと立ち寄るからと騙して、参拝後は立ち寄ることなくさっさと行ってしまった。騙されたことを知った清姫は怒り、裸足で追跡、道成寺までの道の途中(上野の里)で追い付く。安珍は熊野権現に助けを求め、清姫を金縛りにした隙に逃げ出し清姫の怒り遂に蛇身に化け安珍を追跡する。
日高川を渡り道成寺に逃げ込んだ安珍は、梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。
中川ノ井足利義政在世のころ、茶人能阿弥の選んだ洛陽七名水の一といわれ、茶の湯に愛用された井水である。寺の移転に伴い、今は井戸枠だけが移されている。
仏舎利塔 本堂の東南にあり、紀元前200年頃、釈尊成道の聖地にアショカ王が建立したインドブッダガヤ大塔をかたどり、昭和431973)年に建立された、我が国では初めての塔といわれる。1階正面に釈迦座像を安置し、最上階に仏舎利が安置されている。
※豊田佐吉以来の豊田一族(喜一郎・章一郎など)の遺骨が納められている。


  幡枝八幡宮・針神社

応神天皇と神功皇后を祭神とする幡枝村の産土神である。通称「城山」と呼ばれる丘陵地にあって、本殿と貴船社が並んでいる。創建当初は「王子山八幡宮」(おうじやまはちまんぐう)と呼ばれた。社伝によれば、宇多天皇の治世の894(寛平6年)に、新羅が日本に攻め入ろうとしているという噂が流れていた頃、幡枝(当時は「旗枝」)の地に「大地鳴動」が起こった。すると里人の間に神が現れ「皇都および人民守護のため、この地に鎮座する」との神告が下った。このことを里人が御所に知らせに行こうとしたところ、同じ夢を見て幡枝を訪れようとしていた勅使に出会った。互いにそのことを話し合い、揃って地鳴りの中心地に赴くと、山の麓に清水が湧き出しているのが見つかった。勅使はすぐに都へ帰り、このことを天皇に告げ、その山の頂上に新宮を造営し、男山より石清水八幡宮を勧請して「王子山八幡宮」と命名したとされる。王子山八幡宮は、旗枝・鉾枝・福枝の3地域の鎮守社となり、その内の「旗枝」は「八幡の枝別れ」として「幡枝」と称するようになり、王子山八幡宮も「幡枝八幡宮」と呼ばれるようになった。
「石清水」は当社南麓の崖下、八幡宮馬場のほぼ中央にある、雑草に覆われた井戸屋形がそれであり、この井水は創祀当時といわれ桃山時代の刀工界で活躍した堀川国広は慶長41599)年当社に祈願し、この井水を用いて名剣を鍛え、当社に奉納したと伝わる。
針神社 針の守護神、幡枝八幡宮の末社。本社の左に鎮座、金山毘古命(かなやまひこのみこと)、天麻旅命(あまのまろのみこと)、大牟須毘命(おおむすびのみこと)を祭神とし、刃物・金物、その他金属関係者からの崇敬を受け、また針の守護神として信仰を集めている。毎年128日に「針供養」が行われている。
古地図によると、かつては現在の幡枝八幡宮の二の鳥居の北西の境内に鎮座していた。当時は他の末社と同じく竪15寸・横25寸ほどの小祠であったという。しかし明治12(1879)に現在の位置に遷座し、商の針神社信仰者9名からの申し出により、間口2間・奥行2間半・高さ8尺の瓦葺鞘(上家)が増築された。現在の社殿は昭和46(1971)4月に改築されたものである。 創建については諸説あり、明確ではないが、もと京都御所にあったものを幡枝に移したといわれる。また、江戸時代、幡枝に下屋敷を構えていた綾小路家の息女が朝廷の女官であった関係上、屋敷内に安置されていた針神社を、当地へ遷座し再建したものとも伝えられている。


  栗栖野瓦窯跡

「栗」や「木工」の文字を持つ瓦の出土などにより、『延喜式』に見える「栗栖野瓦屋」に比定されている。栗栖野窯は木村捷三郎により1930に発見され、1934の京都府史蹟名勝地保存委員会による瓦窯2基の発掘調査を経て、国の史跡に指定された。しかし、その範囲は限られたものであり、窯は幡枝丘陵の「城山」(じやま)の南斜面一帯に築かれたが、宅地造成により、史跡指定地以外で人知れず姿を消した窯跡もある
栗栖野瓦窯を最初に発見報告した木村捷三郎は、「栗栖野瓦屋」を分布上、福枝・西幡枝・南庄田の三地区[† 2]に分けた。これらはいずれも丘陵裾の低い部分に立地しており、平地を挟んで向かい合う位置関係にある。現在、それぞれは栗栖野瓦窯跡・円通寺瓦窯跡・南ノ庄田瓦窯跡として周知の遺跡となっており、栗栖野瓦窯跡の一部は国の史跡に指定されている。栗栖野瓦窯跡は南ノ庄田瓦窯跡より北へ約200m進んだ位置にある。円通寺瓦窯跡は鞍馬街道の峠付近に位置し、南ノ庄田瓦窯跡から直線距離で約450m西方にある。栗栖野瓦窯跡が平安時代全時期を通して操業されているのに対し、南ノ庄田・円通寺瓦窯跡では主として平安時代後期の瓦が出土する。そのため、栗栖野瓦窯跡がその中核をなし、周囲の瓦窯は一時的に操業されたとみるのが一般的である
1992に行われた発掘調査では、平安時代前期の窖窯が発見され、中から釉滴が残る瓦や二彩釉の多口瓶の破片が出土した。岩倉盆地は瓦の生産地であるとともに、緑釉陶器の一大生産地でもあり、施釉技術も伝承された場所であった。平安宮大極殿の屋根を彩った緑釉瓦も、ここ栗栖野瓦窯周辺で生産されたのであった


  圓通寺

江戸時代初期の京都の庭園に欠かせない第108代目天皇・後水尾天皇。皇位を譲り上皇となった後の1639年に洛北・幡枝の地に山荘「幡枝離宮」を造営されました(幡枝茶園、幡枝小御所とも)。この地以外にも岩倉、長谷の地にも山荘を造られたとされており、幡枝離宮の約20年後に『修学院離宮』が完成した後はそちらに出向くことが多くなり、この幡枝御殿は公家・近衛家に下賜。さらに御殿は霊元天皇の乳母であった贈左大臣園基(そのもと)(とう)の息女、円光院文英尼公に下賜された。円光院文英尼公が開基となって、妙心寺の禿翁和尚を開山、妙心寺十世の景川宗隆を勧請開山として、臨済宗妙心寺派の圓通寺を開創した。本尊は聖観音菩薩坐像。延宝61678)年、霊元天皇の勅願所になった。
比叡山を借景とした客殿東前面に広がる枯山水庭園は、借景庭園の代表で、国の名勝に指定されている。庭園は後水尾天皇自ら指図して作庭されたものという。


  幡枝切通碑

鞍馬街道の幡枝切通しは急坂であり、石が突き出て、水が湧き出し冬は凍結、人馬が滑って転倒するなどの難路であった。
貞享21685)年、深泥池村の炭売吉三郎らが改修した。同年12月圓通寺の僧性通がこれを讃えてこの碑を建立した。
碑文には険路だった状況と、吉三郎が同村の次郎右衛門・勘三郎と改修工事を発起したことを記し、「難しい工事を一介の庶民が成し遂げたことは偉大なことである。感嘆のあまりその顛末を石碑に刻むものである」とある。笠付型石碑の上部にはつるはしを持った地蔵が浮き彫りにされている。


  深泥池貴船神社

貴船本宮洛中からあまりにも遠く、参詣が大変で、寛文年間70御分霊が行われ、深泥池の農民らが勧請し、鞍馬街道筋の当地に鎮座したと伝わる。農耕をはじめ、住民の安寧、除災招福の守護神として信仰されている。
池大雅生誕地ですぐき発祥の地、かつて深泥池は七つ森七軒村といわれ、その一番森を「消し山」と称し、火伏の神である秋葉神社が1200年前から祀られていた。しかし、神仏混交の社であったが故に、明治廃仏毀釈の令により、賀茂社の社家が社を打ち壊した。翌年の春、社の修復を怠った村に大火が起こり、村民らは家財農具の一切を焼失した。失意した人々が焼け跡を整理していると、どの家の跡にも漬け物桶だけが焼け残っていてすぐきになった。
池大雅生誕地 2018130日深泥池貴船神社で,「池大雅(いけのたいが)ゆかりの地記念碑」除幕式が挙行されました。江戸時代中期の南画家・池大雅は,上賀茂地域の偉大な文化人として知られているが,最近になって,深泥池の近くで生誕したという文献も発見され,深泥池地区と所縁が深いことが明らかになった。
池大雅(17231776)江戸時代中期の文人画家、書家。与謝蕪村とともに「日本の文人画の大成者」といわれる。妻の玉蘭(ぎょくらん)も画家として知られる。本来の姓は「池野」だが中国風に「池」と名乗った。幼名は又次郎、諱は勤、無名(ありな)、字は公敏、貨成、通称は池野秋平、号はほかに大雅堂、三岳道者など多数。京の銀座役人の下役の子として生まれた。生まれについては捨て子であったとも、御落胤であったともいわれ諸説ある。幼い頃から書を学び、7歳の時、萬福寺で披露した書に僧たちが驚嘆し、「神童」と絶賛された逸話がある。絵は文人画の先達・柳沢淇園に学び、大画面の屏風絵から小品まで、さまざまな作風で生涯に1000点を超える作品を描いた。代表作に川端康成の愛蔵品としても名高い与謝蕪村との合作で国宝「十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)」「陸奥奇勝図」「漁楽図」「楼閣山水図」など。文人画の大家となった大雅だがその暮らしぶりは仙人のように超俗的で金銭にも無欲で、墓所は京都市上京区にある浄光寺。


  深泥池地蔵

小野篁の彫った京の六地蔵の1つが、深泥池地蔵である。「源平盛衰記」巻六によれば、伏見にあった六体が、保元年間(115659)平清盛の命で西光法師が都街道の入口に地蔵尊を安置し、廻り地蔵と名付けた
近世は六地蔵めくりの定着により、その霊場の一つになってからは、朝野の信仰を集めるに至った。八尺ほどある地蔵菩薩像で、平安朝の小野篁公作と伝えられていたが、明治初年(1869)の廃仏毀釈のため法難にあい、賀茂の神領外へ追放され、今の寺町頭の上善寺(鞍馬口地蔵)に祀られている。
だから現在の六地蔵巡りは、徳林庵・山科地蔵(東海道)、大善寺・伏見地蔵(奈良街道)、浄禅寺・鳥羽地蔵(鳥羽街道)、地蔵寺・桂地蔵(山陰街道)、源光寺・常盤地蔵(周山街道)、上善寺・鞍馬地蔵(鞍馬街道)であり、6つの地蔵幡を集めると、家内安全・疫病退散になるという。
境内にかなり風化した石仏一体がある。高さ100cm、幅70cm、厚さ30cmの花崗岩製。鎌倉末期から南北朝頃の造立で弥勒菩薩と推定。首の下で二つに折損したらしく、修理した形跡がある。この地は別に「御菩薩」とも書く、行基伝説や弥勒信仰など古い伝承に事欠かぬ処である。
本来は、地蔵堂の前に全部で7体の石仏群があり、村人の崇敬暑い信仰の対象であったが、敗色濃いい昭和19年頃、一部の町内役員が防空壕の設置を理由に6体の石仏、釈迦如来像、文殊菩薩、薬師如来、金剛界大如来、延命地蔵菩薩、勢至菩薩を移動させた。



  深泥池

池の総面積は約9.2ヘクタールで、周囲は約1,540メートル。池の中央には浮島が存在する(地図には掲載されない)。今も昔も流入河川は無い。水深は最深部で1.8mに過ぎないが、その底は泥土の堆積が厚く、深さが3.6mを越えるところがあり、池の名前はこれから起こった。池中には「じゅんさい」をはじめ、学術研究の好資料される種々の水生植物や食中植物が群落し浮島を形成しているので、昭和21927)年天然記念物に指定された。さらに花粉分析や放射性炭素による年代測定の結果、氷河期にさかのぼる歴史を持つ池である。姶良丹沢火山灰(約3万年前)、アヤホヤ火山灰(約6千年前)が確認されている。池の周りには、春になるとミツガシワの白い花が氷河期から咲く。


  植物園北遺跡

植物園の北側一帯に広く分布する大規模な集落跡。昭和54(1979)56(1981)年にかけて行われた下水工事の際に発見された。遺構は弥生時代後期から古墳時代にかけての集落遺構が中心であり,竪穴式住居が多数検出されている。また奈良・平安・鎌倉・室町の各時代の遺構も検出されており,大規模かつ長期間存在した集落であることを示している。上賀茂・下鴨の中間にあたることから,カモ氏にゆかりのある遺構とも考えられている。
 この石標は,この附近が植物園北遺跡であることを示している。なお,この地で行われたのは第7次調査であり,古墳時代前期の竪穴式住居を9棟,平安時代末から鎌倉時代の掘立柱建物を4棟検出している。



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